特別展「古代メキシコーマヤ、アステカ、テオティワカン」 | けろみんのブログ

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2023.6.17 東京 上野

古代メキシコ マヤ、テオティワカン

国立西洋美術館


2023.6.16~9.3まで

を鑑賞しました。シベリアとアラスカの間を移動した人々が、南下して、北アメリカと南アメリカのあいだ付近に住み着きました。この一帯をメソアメリカと呼びます。そこに古代メキシコ文明は発達しました。

オルメカ文明(紀元前1500〜前400年)が、最初の文明です。それよりもずっと前からトウモロコシを栽培していたとのこと。


ピカソや、モディリアーニの作品に似たエキゾチックな雰囲気を持つ数々の像や、石に刻まれた美しいマヤ文字を、堪能しました。


この展覧会では下記の3つの文明の貴重な遺物を展示して古代メキシコを年代順に見ていきます。




テオティワカン文明

(紀元前100~550年)


「太陽」「月」「羽毛の蛇」の三大ピラミッドを擁する巨大な計画都市を築いた。


真っ直ぐ「死者の道」が通り、道に沿ってピラミッドが、配置されている。


アステカ文明

(1325~1521年)


首都テノチティトランを築き、軍事力と貢納制を背景に強国を拡大したが、隣国との戦争ばかりしている所をスペインに付け狙われて滅ぼされてしまった。



マヤ文明

(紀元前1200~1697年※)

※マヤは滅びたが、文化的に見るとその伝統は今も続いている


暦や文字など高度な知識を有する王や貴族が中心となって巧みに交易と戦争を繰り広げた。古代から何期にもわけられ、衰退と隆盛を繰り返していた。






私は南米とアフリカの芸術が苦手で特に、南米は「怖い」と思ってしまいます。現存するものがほぼ、墓出土品ということもあり、全てのベクトルが死に向かっています。古代メキシコでは、戦争が起きれば捕虜を生贄にし、神殿を作れば兵士を生贄にし、何かと人間の命を奪います。キャプションには「人間を生贄とする古代メキシコの慣習は、万物は神々の 犠牲により存続しており、自らも他者のために犠牲を払うべき」という倫理観に基づく。また、 「斬首や心臓の剝奪などの 残虐な手法は、国家の覇権の誇示にも利用されました。」ともありました。ひょっとしたら死ぬのが怖いのでなく、生きるのが辛いのではないか?と考えこんでしまいました。



15世紀の末スペイン人が荒らしまくる前は、ほかの文明に干渉されずに全く独自の興亡を繰り返していた古代メキシコ文明。メキシコ国立人類学博物館、テンプロ・マヨール博物館、テオティワカン考古学ゾーン、パレンケ遺跡博物館などから様々な展示品をお借りして、撮影可能な展覧会となっています。


1古代メキシコへのいざない


ここでは、ジャガーやクモザルの土器から多種多様な動物がいたこと。



石皿と石棒から、トウモロコシを粉にして主食としていたこと。

精巧な暦を作り、占いや日頃の生活に利用していたこと。

ゴムボールを使った球技をしていたこと。

最後に生贄を殺すためのナイフですが実際に使ったものでは無いそうです。


古代メキシコの生活や世界観を何となく掴んで次にいきます。


2テオティワカン 神々の都


太陽のピラミッド


150~250年頃の最古のマスク、生贄か高貴な人物か、どちらか不明な立像など。



月のピラミッド


両手を後ろで縛られた生贄や、ピューマやオオカミ、蛇やワシなど怖そうな動物などが出土した墓、12体の生贄の見つかった墓の中心部にあったモザイク立像、羽毛の蛇神が持つ蛇型、嵐の神が持つ稲妻形のエキセントリックという、複雑な形の石器などを展示。2体の生贄には「放血」のための針が肩に刺さってました。これは高位の神官がおこなう自己犠牲の儀式かもしれないと言われています。怖。



羽毛の蛇ピラミッド


2003年に正面の大広場からピラミッドに向けて伸びるトンネルが発見されました。恐らく王の墓に通じる道と見られ中は盗掘済みですがまだ、様々な遺品が遺されています。当時の風俗を窺い知ることが出来る立像や、マヤ文明との交流が指摘されるトランペットなど。



都市の拡がりと多様性


テオティワカンでは赤を中心とした多彩色の壁画で飾られ、



人々は中庭のあるアパートに住み、屋根飾りには雨と農耕を司る「嵐の神」などの屋根飾りがついていました。

また、サポテカ族の骨壷が移民地区で発見されるなど、国際色豊かな都市でもありました。



生贄儀礼は古代国家の最大の関心事であったとされ、心臓をえぐり取られた生贄と心臓をナイフで刺し持っている神官又は兵士が描かれた三足土器もあります。怖い。



高度な都市機能をそなえていたテオティワカンは人口の増加にともなう資源の枯渇などの理由で衰退しました。今の日本の都市部も人多すぎてライフラインが行き渡らなくなりそう。文明は発展しすぎると衰退するのだ……


3マヤ 都市国家の興亡


マヤ地域はひとつの国家にまとまることなく、精緻な暦、ピラミッドの建築集団祭祀を特徴とする都市国家がいくつも出来て興亡を繰り返しました。熱帯低地のマヤでは食物の長期保存が出来ず、経済統制や大規模な軍隊は難しいそうで、群雄割拠な状態が続きました。群雄割拠というのは、各地を地盤とした英雄たちが互いに勢力を奮って対立することだそうです。初めの方に600~950年頃の球技用防具と現代のゴムボールが展示されていますが、サッカーでもやって平和に暮らせたら良かったのにとも思いました。



世界観と知識


金星周期と太陽暦を表す石彫がありました。金星は584日周期で、金星の5年は地球の8年に相当するそうです。5と8はフィボナッチ数でなんとなくミステリアスですね!!とにかく、歴史を記すのに正確な日付を記した人々でした。


マヤ文明に生きた人々



熱帯低地にあるマヤでは、都市部と周辺の境界が曖昧で、工業、商業などの経済活動は都市部に集中せず、農民も行っていたとされます。


マヤの人々は土偶で展示されています。とても精巧に出来ていました。美しいマヤブルーが残っている土偶もあります。書記をする女性、織物をする女性など女性も働いていたことを示しています。

マヤ文字は表語文字と音節文字で構成される、とても美しい文字で初期の抽象画によく似た感じがして必見です。美しい筆跡は称賛の的だったそうです。現在700あまりの文字と数万通りの組み合わせが解明されています。



都市の交流 交易と戦争


マヤ文明では都市国家が頻繁に交易し、また王族は婚姻関係を結ぶことで繋がりを強化します。戦争になると高位の人を捕虜にすることが重要になります。捕虜は生贄にされます。


ここで面白かったのは重要な交易品であったカカオで、カカオ飲料を飲む容器。土器に彩色したもので、上からカカオ飲料を少しづつ垂らして泡立てて飲むことが好まれたそうです。




少しでもこういう、食や、嗜好品に関する展示があると、ほっとします。


バカル王と赤の女王 バレンケの黄金時代


真っ赤な辰砂に覆われて発見された、赤の女王の墓。孔雀石、ヒスイ輝石岩、黒曜石で作られたマスク。その他様々な装身具が元の姿のように展示されています。

辰砂は顔料や防腐剤として古くから使われています。硫化水銀のため、気化した気体を吸うと有毒です。そんな危ない赤色に染まった女王がとても他を寄せつけず、清らかに思えました。





チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市


チチェン・イッツァには、グランセノーテがあり、たくさんの供物が投げ込まれた。ここで特筆するべきものは金属製品で、800年頃から現在のコスタリカや、パナマの辺りでは金属製品装身具が作られ可愛いカエルの装身具もあります。



チチェン・イッツァのアトランティス像と、トゥーラ(トルテカ文明)のアトランティス像が展示されます。


4アステカ (1325~1521年)

テノチティトランの大神殿


やっと最後にたどり着きました。13世紀にメシーカ人らがメソアメリカ北部からメキシコ中央部に到来。アステカのテノチティトランは、大神殿(テンプロ・マヨール)を擁する大都市で、神殿の様式は既に滅んだテオティワカンの神話を継承したものとして再現したものでした。武力、宗教、古の文明の権威の元統治しました。

1325年頃テスココ湖に浮かぶ島にメシーカ人が築いた首都テノチティトランは、やがて人口20万人以上の大都市へと成長しました。 メシーカ人は近隣の都市と同盟を結び、1430年頃にはアステカ王国としての体制を整えます。 征服により現在のメキシコとグアテマラ国境までを版図とし、その 広大な領域支配における貢納制が王国の基盤となりました。


しかし、征服された都市民の不満が高まるなかスペイン人が到来すると、 多くの都市が自主独立を取り戻す好機と捉えてスペイン人に加担。1521年には首都が陥落し、アステカ王国は滅亡に至るのです。

ここには様々な神様が祀られていました。

・酒の神 リュウゼツランの発酵酒プルケは、アステカの儀礼に重宝されました。・風の神 生と豊穣を司る・死の神 などなど……




もう疲れたのでキャプションコピーです。ここではメソアメリカでは珍しい金細工も見られます。



もう3500文字超えました。これを読み返せば私も少しはメキシコ文明が身近に感じるかもしれませんね。お土産コーナーは必見です。トルティーヤを作るのにトウモロコシ粉を買おうかと迷いましたが貧乏なのでやめました。