私とシャビンが出会ったのは、オーストラリアのブリスベンという街だった。
2010年。私は日本からワーキングホリデービザを利用し絵の勉強という理由をつけて、自分探しの旅へ。
遡ること2009年。シャビンはインドから学生ビザでITビジネスを勉強する為に大学院へ。 内心は海外への憧れと冒険の旅のつもりだったらしい。
そんな私達がなぜか出会い、紆余曲折を経て日本で結婚することを決めた。
2012年。 日本へ来て結婚の手続きを済ませ三カ月後にはシャビンの配偶者ビザが取得できた。
大企業への就職を夢見ていた夫は履歴書を送り続けたがお返事なし。中小企業でも面接すらしてもらえず。
ハローワークで就職活動中のサポートがあると聞き相談するが、日本語が出来ないのにサポート用テキストの理解が出来るんですか? と一蹴された。
夫の仕事先が決まらないと私も仕事を探せない。バスの乗り方も分からない住所も読めない履歴書も自分で書けない、携帯電話も2人で一台。
私は夫に付きっきりだった。
居候していた私の実家には、私の両親と兄が二人。皆に養われている私達。
家族は、シャビンとは言葉が通じない…だから会話は全て私を介して行われる。私は英語が得意なわけではない。日本語を即座に訳せるわけではない。
つまりは、コミュニケーションとは気持ちの距離なのだ。私を介して行われる会話には心の壁が見える。時間が経てば経つほど皆の苛立ちが募るのが分かった。
いよいよ父親のイライラが大爆発した。
放った言葉はこうだ。
ワシの青いバケツをどこに捨てやがった!! ( 私達にゴミ屋敷のような家の周囲を片付けるよう命じていたからだ )
私 : 知らん。
父 : 苛!いつになったら日本語を話せるようになるんじゃアイツは! ワシはな、小学1年の国語の教科書買って待っとるんじゃ!!
その言葉に私も苛立った。
日本語習い始めてまだ半年も経っとらんわ!まだ赤ちゃんと同じじゃ! 赤ちゃんがいきなり小学生になれるか!!!!
食卓を挟み、しばし仁王立ちで両者睨み合った。
ドアの影からそっと現れた夫は青いバケツを手に、
オトさん バケツ… と言った。
そのバケツ事変をきっかけに、私達はとにかくどこでも良いから働こうと決めた。
最初に面接をしてくださったのは、とある食品加工工場。食品コンテナの洗浄。1日4時間、時給670円。通訳にと、私も面接に付いていく事を了承してくれた。
大学院で情報技術修士まで取った夫には屈辱的な仕事だったかもしれない。
それでも一度習えば習った以上に仕事をするので、コンテナ洗浄から炊飯へ、炊飯から加熱へと弁当の世界で昇進していった。
私は経験を活かし服飾ブランドの販売員としてフルタイムの仕事を見つけ、実家に生活費を支払い、インドのご両親に仕送りをしながら早く二人立ち出来るよう貯金を始めた。
2013年10月。ようやく安アパートを見つけて実家を出た。
夫は食品加工よりやりがいのある会社へ転職した。当時の人事責任者がハワイの方だった事もあり英語で面接を受けられ、試用期間を経てスーパーバイザーとして正社員となった。
しかし直属の上司ともめ、正社員生活は僅か半月つまり15日間で終わりを告げる。
今思い出しても腹立たしい出来事だった。
2014年1月。
夫はようやく日本の会社で地位を得て働けるようになった事に誇りを持っていた。これでやっと両親に胸を張れる。そう言っていた矢先のこと。
直属の上司が連れてきた二人の女性パート従業員がいた。
お客様の目につく仕事にもかかわらずお喋りやおふざけをやめなかった為、スーパーバイザーとしてその二人を口頭で注意した。
その翌朝、上司から呼び出された夫は一週間の謹慎を命じられた。
謹慎の理由は、「きつく怒られた事が恐ろしくてもう出社できないとその女性が言っているから」だという。
一週間後、出社した夫。私は仕事が休みだったので家でそわそわしていた。
予感は的中した。
昼前に帰宅してきた夫の顔は悔し涙で一杯だった。
上司はこう言ったそうだ。
「床に手をつき頭をつけて謝れ。 他の従業員に聞いたら誰もお前と一緒に仕事をしたくないと言っている。 今日から公衆トイレの掃除だけしていろ」
ここまで不当な扱いを受けて黙ってはいられない。私が話しに行くと言うと、どうしても駄目だと言う。
ハローワークに相談しようと言っても嫌だと言う。ならばこのまま引き下がるのか!?
明らかなパワハラだ。然るべきところへ相談しにいけば良いじゃないか。
分かった、大丈夫となだめながら、抱きしめた夫の背中に思いきり爪を立ててやりたい気持ちだった。
頑なに話し合いを拒んだ理由は後日判明した。
一週間経っても出社したくないと言って一日中家にいる夫。やっぱり上司と話してくると私が切り出すと、やめろ!と怒鳴るので、何があったのか本当の事を言え!と私も怒鳴り返した。
するとようやく本当の事を話し始めた。
謹慎明けの夫に上司は土下座を強要した。
その時に悔しさのあまり上司の胸ぐらを掴んでしまったのだという。
その事を暴力事件として警察に言うと脅されたそうだ。日本に住むには滞在ビザがいる。暴力事件で揉めればビザを取り消されるかもしれないだろう。
そう脅し、直筆の英文で暴力を振るいましたと紙に書かせ、それを証拠として上司が持っているのだと言う。
パートの女性に注意しただけでなぜ土下座しろとまで言ったのか。それは、その女性が上司(男性)と親しい仲だったからだそうだ。
事実を証明できるものは何も無かった。
夫が無理矢理書かされた紙を持っている上司のほうが有利だ。もう、その上司のくだらなさに私も呆れるしかなかった。
その頃には夫の日本語も上達していたので、私が悲観したよりも早く次の仕事を見つけた。試用期間を経れば正社員という条件だった。
が、またしても日本語の壁。
試用期間が終わる頃、小学生レベルの漢字が読めない事を理由に正社員ではなくアルバイトのまま働いてくれと言われる。1日五時間半のみ。
アルバイトでと言われた頃から、夫の心の中には静かな炎が燃えていた。
自分で、やる。
じゃあ何をやりたいのと問う私に、南インド料理を出すカフェを開きたいと言った。
本当の南インド料理を日本の人に知ってもらいたいと熱く語っている。それも、自分のふるさとケララの味だ。
その時に私は初めて、夫の故郷への想いを知った。
その頃からだ。私がインドに興味を持ち始めたのは。
そして、やるなら本気でやろうと起業に向けて貯金を始め、食品衛生責任者の資格も2人で取得。起業家セミナーにも通った。
2014年夏。
私はフルタイムの仕事を辞め、兄の会社で現場仕事と総務をパートタイムでしながら貯金を続けた。総務の事を学びたかったからだ。
しかし人手不足で現場仕事に駆り出されることの方が多かった。これは誤算だった。
生活費は夫が朝晩アルバイトを掛け持ちしながら稼いでくれた。
2015年半ば。
順調に貯金を貯めていたのだが、私のせいで貯金の半分を一瞬のうちに失ってしまった。
それは言い訳のしようがない大失敗だった。チャイナショックと聞いてピンとくる方もいるのではないかと思う。
その時の夫の憤りはハンパではない。私も血の気が引いた。
だが人間とは恐ろしくも面白い思考回路をしているもので、その日から、他でもない私自身の考え方がガラリと変わってしまったのだ。
まず私の中に生まれた疑問はこうだ。
貯金て何だ? 夫て何だ? いやそれよりも、これまで夫の為だけに考え行動してきた自分て何だ?
私は夫の通訳か? クレーム処理班か? 運転手か? 金庫か?
私自身はどこにいったんだ? 失ったお金だって私の失業保険分の金額だ。いつまでも愚痴愚痴言われる筋合いはない。
お金は大事だが必要な時に必要なだけあれば良い。いくらか失ってもほらこうして今日も生きている。
では私は、何者なんだろう。
私は絵を描くことを再開した。
それは唯一の好きな事だった。
結婚したばかりの頃、私が絵を描きたいとつぶやいた時に夫は怒りこう言った。
絵なんか描いててどうやって生活していくんだ!
2人ともまだ無職の時だった。
私の絵だけで夫を養える自信もなかった。
そして、ショックだった。
私の唯一好きな事をばっさりと否定された。
だからその日から描かなくなっていた。
先ほども言ったとおり、人間の思考回路は恐ろしい。罪悪感があればあるほど、わりと早めに立ち直れる。なぜならもう開き直るしかないからだ。
チャイナショック以後、夫に何と思われようと私の気持ちが良い生き方をしよう、そう決めた。
それは決別を意味するわけではない。私らしくいることで、夫にも夫らしくいて欲しい。そのほうが上手くいく。都合良くそう思うことにした。
私は20代半ばに絵本を二作出版したことがある。
その当時の自分のHPなどで公開していたキャラクターを使い、まずはLINEスタンプを作ることにした。
バイトを掛け持ちして帰宅する夫は疲れきっていた。へとへとになって帰宅すると妻は落書きをしている。
とても腹立たしかったのだろう、私の作った夕飯にもケチをつけた。
私がフルタイムで働いていた頃、夫に感じていた苛立ちと同じだ。
私の半分しか稼いでないくせにダラダラしやがって…
私自身がよくそう感じていたから夫の気持ちが理解出来た。
最初のLINEスタンプ制作は手探りの毎日だった。却下され、直し、再度申請に出す。
そんな私を見続けた夫にも変化が現れはじめた。応援してくれるようになったのだ。
この変化は私にとって大きかった。いちばん認めて欲しかった人にようやく認めてもらえた。
だから私も夫と一緒に生きていこうと改めて思えるようになった。
私達はちゃんと話し合うようになった。
どういう生き方をしたいのか。そして、何から二人で始めようかと話し合った。
私達が出会わなければ生まれなかったアート、フード。そういったものを創り出していこう。
love を感じとってもらえるような物作りをしていこう…
そんなこんなで、
ようやく、私達の小さな南インド料理店を開く場所が見つかりそうです(^^)
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