龍馬と夢紀行

歴史が好きだから、歴史の仕事を手探りで始めてみた。


発端は、ただそれだけ。


でも不思議なもので、そんな瞬間から「趣味」が「仕事」になりました。

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第4四半期に突入

7月から弊社の第4四半期に突入しました。

9月の決算月に向かってのラストスパートとなります。

 

この2ヶ月は前年対比で昨年を上回る売上数字となりましたが、

それ以前は4ヶ月連続で前年割れという現実に直面していました。

これで今期は前年対比でとんとんといった現況。

なかなか波に乗れずに最終の四半期を迎えたわけです。

 

前年実績から数字の積上げができなかったは、

やはり大河ドラマとの関係性が要因の一つ。

 

こう書くと〝大河ドラマ頼み〟と解釈されて嫌なのですが、

関係性がある昨年の家康から、全く関わることがない今年の紫式部。

 

全体的な売上構成比からすれば、

大河ドラマ関連の売上は決して大きな数字ではありませんが、

それでも特需のようなプラスαの上積みできること、

この点があるかないかはで雲泥の差があることだけは事実。

そして、売上的に〝白馬の騎士〟のような存在になることも。

 

さらに、このところ今まで以上に気になるのは天候。

大型連休や休日が〝雨天〟により売上が伸び悩むことがありましたが、

〝猛暑〟ということが売上に対する影響も考慮せねばなりません。

 

特に今年は日本各地で連日〝猛暑日〟となったことで、

これが今月8月の数字にどのような影響が出るかが少し気がかり。

ただでさえ2月と8月は商売が低迷する「ニッパチの法則」があり、

とくに飲食店やサービス業にとっては厳しい時期だけに心配は尽きません。

 

そんなことを考慮しながら、

何とか前年実績並で今期末の9月を締め括れれば御の字。

果たして結果はどうなるか、今期の最終スパートとなりました。

活力が漲る一書

昨日、細川忠興の書状をご覧に入れましたが、

その時に品川弥二郎の一幅も同時に購入しましたので、

今日はそちらの方を紹介させてもらうことにします。

 

長州藩の足軽の子として生まれた品川弥二郎は、

松下村塾で吉田松陰から薫陶を受け多くを学びます。

 

ちなみにそんな弥二郎を松陰は、

「事に臨みて驚かず、少年中、稀覯の男子なり、吾れしばし之をこころむ」と、

滅多に見られない好男子であるとの賛辞の言葉を残しています。

松陰に認められた人物であったようです。

 

また松下村塾では高杉晋作とも気脈を通じていましたので、

御楯組の血盟にも加わって江戸品川の英国公使館を襲撃します。

さらに禁門の変では八幡隊隊長として奮戦、のちに長州諸隊の御楯隊を結成。

その後は、討幕推進のため大久保利通、岩倉具視らと錦御旗の調製に尽力。

維新後はドイツ駐在特命全権公使、松方内閣では内務大臣を務めました。

 

前述の錦御旗の調製については、

御旗(みはた)とは皇軍の印となるもので、

岩倉具視が国学者の玉松操に原案をつくらせました。

それを大久保利通が一力のお勇を呼び寄せ、

御旗の布地となる大和錦と紅白緞子を西陣から買い付けさせました。

 

その布地を持って長州に走ったのが品川弥二郎で、

彼はこの布地で菊花章の紋入り紅白旗を制作し、

戊辰戦争で官軍側にこの菊花章が翻った効果は絶大なものとなりました。

 

これだけに留まらず、

鳥羽・伏見の戦いに勝利したことに気をよくした弥次郎は、

有名な「都風トコトンヤレ節」を作詞することになります。

 

これがわが国の軍歌の第一号となり、

さらにこの軍歌は親日家アーサー・サリヴァン作のオペラ「ミカド」に登場。

海を渡ってロンドンで大流行したというムーブメントを起こします。

 

さて、肝心の書は、こんな感じの一幅です。

「浩龍天気塞天地」と大書きされたアーティスティックさ漂うもの。

活力が漲る、そんな力感迸る一書に満足をしていますが、

一応、念の為に過日に幕末監修者に画像を以て見てもらうと、

「なかなかの良い書だね」とお墨付きを頂戴しました。

悦に入っております

紹介するのがかなり遅れてしまいましたが、

過日、馴染みの画廊で一幅の掛軸が売りに出されました。

 

その画像を目にして自分の中で情動が巻き起こり、

そんな情動がすぐさま行動に結びついて画廊店主に連絡を入れ、

久しぶりに戦国武将の書状を手に入れることができました。

 

書状の主は、細川幽斎の長男として生まれ、

明智光秀の娘・ガラシャを妻とした智勇兼備の武将・細川忠興です。

 

本能寺の変に際しては、妻・ガラシャを幽閉し、

関ヶ原の戦いでは、岡山烽火場の麓に布陣して

黒田・竹中隊とともに笹尾山の石田隊を壊滅に追い込む活躍ぶりを発揮。

 

戦後、豊前国と豊後二郡三九万石を与えられ中津城に入りました。

茶の湯にも通じ、千利休門下七哲のひとりに数えられた武将です。

 

さて、今回手に入れた忠興の書状をご覧に入れましょう。

残念ながら宛先は不明ですが、内容は以下のとおりです。

【原文】

已上

御撚(おんひねり)又返事何(いずれ)も拝見申し候 

駿府衆 御出(おいで)ニ付御隙入 申し候由尤存じ候今 

今夕 御夜詰中へ御出候ハん由貫待申し候 

上州二少し申度事御座候

恐々謹言  正月十九日       

【訳文】

祝儀また返事いずれも拝見しました。

駿府衆がお出ででお忙しいとのこともっともに存じます。

今夕、夜詰中お待ちしております。

上州に少し申し伝えたいことがございます。

 

書面に「駿府衆」という見慣れない表記がありましたので、

先月、弊社の戦国監修者にお会いいした際にこの件を訊ねてみると、

大御所政治を駿府で行っていた家康の取巻きを指す言葉として、

聞きなれない用語ながらあり得る表現ではないかとのこと。

 

良いものを手に入れることができたと、ひとり悦に入っております。

戦国武将の〝十八番〟

戦国武将には〝十八番(おはこ)〟のような戦術がありました。

 

よく知られているところでは、

島津家の必勝戦術で「釣り野伏せ(つりのぶせ)があります。

 

敵陣に突入した先攻部隊を意図的に退却させることで、

それにより誘導されて追ってきた敵軍を、

あらかじめ茂みの中に隠れていた多くの伏兵が側面から不意打ちする戦法。

 

そして、古くは北条早雲が用いた火牛の計(かぎゅうのけい)。

牛の角に松明(たいまつ)をつけて敵中に突撃させる戦法で、

元は中国の春秋時代の斉(せい)の武将が発案した戦法とされ、

木曽義仲が倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いでも用いました。

 

さらに武田信玄が用いた啄木鳥の戦法(きつつきのせんぽう)。

軍師・山本勘助献策によるものとされますが、

啄木鳥が木をつつき驚いて飛び出てきた虫をとらえるように、

別働隊を進軍させるなどして敵陣の背後から攻めさせ、

敵軍が追い出されてきたところを前後から挟み討ちするという戦術。

 

これに対して上杉謙信は、車懸りの陣(くるまがかりのじん)で応戦。

円形の陣形が水車のように回転しながら、

次から次へと新たな隊が突撃するという波状攻撃を行う戦術。

部隊が入れ替わることで、力を蓄えた新しい部隊の突撃力が増すという按配。

 

加えて、秀吉が得意とした干殺し戦法(ひころしせんぽう)。

説明するまでもなく、補給経路を断ち飢えさせて餓死させる戦術。

武力を無駄に使わないことで、

自軍の戦力も減らさずにすむことが大きなメリットになります。

また、秀吉には水攻め戦法なるものもありました。

 

最後は、伊達政宗の騎馬鉄砲隊(きばてっぽうたい)。

武田の騎馬隊と信長の三段打ちをセットにしたような戦術で、

機動力に優れた騎馬隊に、最新の兵器だった鉄砲を組み合わせた戦法。

これも名馬の産地の奥州を領地としていた伊達政宗ゆえの集団戦法でした。

 

来年の戦国手帳で紹介させてもらっています。

旧弊を排除

過日、岸田首相が来たる自民党総裁選に出馬しない意向を表明。

 

岸田政権結成時から支持率は常に伸び悩み、

自民党に「政治とカネ」の問題が発覚したことなどもあり、

岸田内閣の支持率が上がることなく低迷し続けていました。

 

岸田首相では衆院選の「顔」にならないと党内から退陣を求める声も上がり、

さらに首相自身も党内の総裁選の敗北も脳裏を過ったのか、

「自民が変わることを示す分かりやすいのは自分が身を引くことだ」と、

潔く自身で退く覚悟を決めたという雰囲気を醸し出していました。

 

そして、「一致団結して真のドリームチームを作ってもらいたい」と、

後任に精一杯のエールを送る格好を見せていました。

現状、自民党総裁選に出馬を予定者が10人以上と、いささか乱立模様。

果たして誰が自民党の総裁に就くのか予断を許さない。

 

さて、幕末期のこと。

ペリー率いるアメリカ艦隊の来航など未曾有の外圧の危機に際し、

老中首座の阿部正弘は慣習にとらわれない画期的な改革を実行しました。

これがのちに幕末の三代改革の一つの「安政の改革」となります。

 

その改革の内容は、

川路聖謨・岩瀬忠震・江川英龍・勝海舟など「積極的な人材登用」、

そして、台場築造・反射炉築造・長崎海軍伝習書設置などの「国防の強化」、

さらに島津斉彬ら開明的な外様大名らと気脈を通じ「政治参与」を推進。

 

井伊直弼を中心とする江戸城溜間詰の大名たちから反感を買いながら、

巧みな能力を発揮して真の「挙国一致体制の強化」を図りました。

 

自民党総裁選で勝利するのは誰か。

そして新たなる政権を担うことになれば、

是非とも党利党略に走らないで、阿部正弘のように旧弊な体質を排除し、

日本の舵取りを行なってほしいと思うのです。

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