◆なぜ二度目の富士山では感動できないのか? ・・・読者さんとのやりとりから | 『なかいま自分教』ガイド

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みなさん、こんにちは。とうしんです。

本日は前回に引き続き、読者さんからのご質問にお応えした内容を掲載したいと思います。

それでは、どうぞ。
 

新しく始まったシリウスファイル談義!最高でした!!! お二人のやりとりが楽しく、お二人から様々のトピックがでてきて! 意識進化について2人になると、こんなにも楽しくお話しできるなんて! ・・・〈中略〉・・・うーん。とても面白かったです。

人間の世界を見る空間が変わるとこんなにも楽しい世界に入れるとは‼️ とにかく最高でした! 大役お疲れ様でした! 私の中ではサロンの中で一番好きな番組になると思います! これからもどうぞどうぞよろしくお願いいたします!


○○さん、ありがとうございました。

「シリウスファイル談義」というのは、ヌーソロジー・サロン内で今月から始まった新番組。ここでとうしんは半田広宣さんと2人、例のチャネリング情報である「シリウスファイル」をネタに、そこからあれこれ話を膨らませながら、まったく肩の力が抜けた対談を展開していきます。トークバラエティショーさながらの「ヌーソロジー・〈ムー版〉」とも言われる楽しい番組です。ご興味のある方は、以下に切り抜き動画(約20分)がアップされていますので、どうぞ。

◆シリウスファイル談義 第1回 切り抜き


さて、○○さんからのご質問はこの続きにありました。

 

川瀬さんが、おっしゃられていた言霊について、最長回路を使って言葉に入るっ ていうところ。それは言葉の力が強すぎるからっておっしゃられたことについ て、もう少し知りたいと思ったのですが …


今回のご質問は「最長回路を使って言葉に入る」「それは言葉の力が強すぎるから」・・・ということに関してでしたね。

初めて聞かれる方は、本当にナンノコッチャですね。以下に、この質問に対する返信メールを掲載しますので、ご参考にしてください。


************* 転用ここから *************

○○さん、メッセージありがとうございます。

「シリウスファイル談義」へのうれしい感想、お陰様でこの方向性でこれからもやっていけば良いんだと確信ができました。

ご覧になられたように、すでにあっちの世界に行ってしまわれているコーセンさんは(笑)、良い意味でも悪い意味でも皆さんとの間にギャップがあります。

この番組ではそのギャップを明らかにすることで、それによって視聴者の皆さんが歩んでいく方向性が明確・具体的になるのだなぁと、後付けながら改めて確認した次第です。


さてそれで、ご質問について。

とても良い質問ですし、私も今日はちょうど回答できるタイミングでしたので、早速回答したいと思います。


●「最長回路」「言葉の力は強すぎる」の真意とは

【ご質問】最長回路を使って言葉に入るっていうところ。それは言葉の力が強すぎるからっておっしゃられたことについて、もう少し知りたい。

このことについて半田さんが言及されたのは、「ビギナー向けライブ#019(シュレディンガー・ルーレット3)」の回です。

言霊の先生(光透波を長年研究・発表されているIKさん)の質問があって、それに対する回答の中で語られたものです。

この内容に関しては、ヌーソロジーの「言葉」観が背後にあります。

それは「言葉とは、自己と他者を等化した者達(ヒト~さらに上次元?)によって送り出されてきたもの」・・・というものです。

言葉自体がすでに、ただそれだけで「自/他」の意思を疎通させ、コミュニケーションを発生させる奇蹟的なものです。最も高次元というイメージですね。

ヌーソロジーでは「自/他」は空間的にお互い全てが正反対で構成されている「絶対矛盾」の関係です。この両者がそのまま混じり合うことはできません。

そんな「絶対矛盾」が基底となって、それが交差・交流するところ(正反四相)に生命を始め宇宙・森羅万象全ての根源的な生成力があるというのがヌーソロジーの考え方です(絶対矛盾的自己同一)。

すると言葉というのは、そんな「絶対矛盾」の関係にある「自/他」の間を行き交うことができるのですから、正しく奇蹟であり、それゆえ強烈な力を持っているということです。

するとどうなるか。潜在化(転倒した人間的領域)においては、良い意味でも悪い意味でも言葉の力が強すぎて、良い意味は文字通り良いとして(ある程度の意思疎通ができる)、悪い意味においては「他者側の力に従属させてしまう」という傾向性があります。

これは「他者化」とか「他者の他者」という、人間型ゲシュタルトの傾向性そのもののことです。

要するに言葉はそのまま「呪(しゅ)」になってしまうということです。


●言葉の力は強すぎる。その「呪」から逃れるには・・・。

もちろんそれによって成長するということもあります。ですがおそらく途中で自らその「呪」を解かなければ、それより先には進めない・・・という段階になるはずです。それが修行の道でよく言われる「守破離」ですね。

「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

と言われますが、「師の教えを破り離れる」というところがポイントです。

仏教(臨済宗)でも「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し・・・」などと言われますが、これも同じことでしょう。


●「言葉のバックに回る」

これをヌーソロジー的に言えば「言葉のバックに回る」必要がある・・・ということです。言葉をそのまま受け取っている段階では限界があるということですね。

「言葉をそのまま受け取る」・・・これが最短回路。
「言葉のバックに回る」・・・これが最長回路です。

バックに回るというのは、それを生成した「自他一体」の意識を通過して戻ってくるということで、それはもう、とんでもないwww ほど高次というか、自由自在というか・・・。色即是空で向こう側に渡り、空即是色で戻ってくる・・・という感じでもあります。

とにかく「言葉」に関してはそれぐらい注意しましょうという、広宣さんなりの配慮だと思います。

 

 

●なぜ二度目の富士山では感動できないのか

昨年末、私はこのことを身近な例え話で話しました。

それは・・・例えばグルメとか素晴らしい景色とか・・・。

富士山なら富士山を初めて見る・・・その時もの凄い感動があった・・・とします。

そして今度はそれを追体験したくなります。そしてもう一度、富士山に逢いに行くのですが、今度は一度目ほどの感動がない・・・。

日常でもそのような事を経験することは多いと思います。

なぜ「初めて」の時に得られた感動を再現できないのか・・・。

それは「言葉」が邪魔をしているからです。


●エピソード記憶が自我を構成する

私たちは「いま・ここ」での「体験」を「自分の経験」として記憶します。これを「エピソード記憶」と言いますが、脳科学ではこれこそが「自我」「主観性」を構成する仕組みと見ています。同様にヌーソロジー的にはこれが「自我」と「人間の内面」を形成する仕組みと解釈できます。

人間は全てを「自我の経験」として「後ろ」に「記録」します。これは「前」の「生きている持続」としての「記憶」とは違う・・・というのを11月のオンライン講演の時に話しました。

「後ろ」というのは「すでに終わった」領域であり、そこに「エピソード記憶」として上書きしながら「人間の内面」を形成していくのです。これが自我の仕組みです。

「前」は「生きている持続」ですので、「後ろ」と全然違うということは、前後の差異(空間認識)が分かれば一目瞭然です。

それで、後ろにエピソード記憶を書くときに「言葉」を使うのです。それが言語の役割。後ろは言語空間である・・・というのはこういうことです。


●「体験」は「主客一致」、「経験」は「主客分離」

「体験」は「主客一致」だけど、「経験」はすでに「主客分離」されて、「誰が、何時、何処で、何をどうした」というエピソード記憶になってしまうということです。これが言語空間(情報空間)。

その「経験」をもう一度したい・・・となって富士山に行く・・・ここですでに「経験(エピソード記憶)」が先手を取ってしまって、要するに「後ろ」の空間になってしまって、もう「前」を体験できなくなる・・・ということです。

言葉が邪魔をする・・・というのはこういうことです。


●奴らはラーメンを食っているのではない。情報を食っているんだ。

グルメの事例でもそうです。最近はレビューや他者のオススメ情報によってお店を選ぶことが多いですが、もちろんそれは便利・確実で私も良く活用するのですが、実際にやっていることは「他者の欲望を欲望する」という「資本主義機械」に取り込まれている・・・という側面があることは否定できない。

「奴らはラーメンを食っているのではなく情報を食っているんだ」という有名なラーメン漫画のセリフがありますが(笑)、こういう転倒は日常によく起こっています。

こういう状態から抜け出すにはどうすればいいか。それには「言葉を捨てる」というのがあります。昨年末にサロンで講演された舞踏家・最上和子さんが、舞踏に入られた最初の10年近く、言葉を捨てたと仰ってました。


●言葉を捨てて、食事は出来るか?

最上流でいけば、食事をする時も「言葉を捨てて」「直接食べる」ということをやって見ると良いのです。・・・これは大変難しい(笑)言葉を捨てると、そもそもどれが食べ物か、食べても良いのか、毒は入ってないのか・・・箸や道具の使い方も、いったん全部消去してから取りかからないといけないですから、それこそ昔の映画「ブッシュ・マン」みたいになります。コーラの瓶を眺めて、遠くからツンツンしながら、一体何か分からない、戸惑いの時間が続く・・・。

最上さんが舞踏でやっていることは、このような事ではないでしょうか。もちろんこれは統心流の解釈ですけど。

そうやって「言葉を捨てる」ことが出来れば、もう一度、最初の富士山に出会える可能性が出てきます。

これは確かにそうです。これで良いのです。でも・・・それだと今度は「言葉」の意味・必要性がなくなります。そして悪い意味で「文明が退化」してしまいます。そうなればその分、心は復活するのでしょうけど、これはヌーソロジー的な意味の「意識進化」ではありません。


●でも言葉は必要。では言葉を取り戻すには?

そこで、1月のオンライン講演での言い方をすれば「共感的共感」の場を目指します。

要するにグルメで言えば、「他者に紹介する側」に回ります。富士山を案内する側に回るのです。

初めてラーメンを食べる人、初めて富士山を見る人を「案内する側」に回るのです。

案内する人は、きっと前日に全ての旅程を下調べしたり、現場に行って確認したり、段取りを組んだりするでしょう。ある意味、これはとても「人間の内面」チックな活動です。つまり言語的、情報的活動。

でもそのことはすべて、今日「初めて見る人」の為に・・・。そしてその人を現場に案内し、その人が感動する瞬間に共に立ち会うのです。きっとその人の感動と同じ感動を味わうことができるでしょう。

これが「共感的共感」の場ではないでしょうか。


●「言葉のバック」に回る・・・そして、「共感的共感」の場へ

そしてこれが「言葉のバック」に回る・・・ことの身近な例えではないかと私は思います。

「言葉」を受け取る側に留まってしまうと「他者の他者」から出られないということです。

「言葉のバック」に回ることで、その言葉の本質に辿り着く・・・ということになるのではないでしょうか。

それには「他者側に回る」・・・「共感的共感」の場・・・自他一体の領域に辿りつく必要があるということ。

要するに「人間型ゲシュタルト」「後ろ」の世界では、「言葉」には注意しなければならない・・・ってことですね。力が強すぎるから・・・です。

以上、徒然なるままに思考を書いてみました。

とうしん 拝


************* 転用ここまで *************

ということで、本日のブログはここまで。

今後も不定期、スタイルも気ままに更新していきま~す。よろしく!

とうしん