『なかいま自分教』ガイド

『なかいま自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『なかいま自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。

みなさま、こんにちは。とうしんです。

春爛漫、気持ちのよい日々ですね。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

暑くもなく寒くもなく、ちょうど良い気温…快適でモチベーションも上がる季節です、春生まれのとうしん的には。

お花見の時期の満開の桜も好きですが、とうしんはこの時期に満開するつつじが大好きです。


さて、今回のブログ『なかいま自分教ガイド』…先月に引き続いて関西ヌース・メルマガからの抜粋です。

メールセミナーの様な濃い内容ですので、ブログ読者の方もぜひご一読ください。


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◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:「即非の論理」と顕在化
~ 「切断即連続」、そして「場の論理」から「空間脳」へ ~



●「即非の論理」とは

「即非の論理」と言えば、鈴木大拙の代表的な思想として知られている。

※鈴木大拙(1870-1966) 金沢市出身、世界的に有名な仏教学者。英語で禅の本を著し、日本の禅文化を海外に紹介した。

仏典『金剛般若経』に出る独特の言い回しを取り上げて、大拙はこう述べる(出典『金剛経の禅』鈴木大拙著)

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「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである」、こういうことになる。

これが般若系思想の根幹をなしている論理で、また神の論理である。

また日本的霊性の論理である。

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大拙はこのあと、さらに次のように言う。

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これを公式的にすると

AはAだと云うのは、
AはAではない、
故に、AはAである

これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。

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AはAではない。まさにそのことによってAなのである…。

分けが分からないでしょう?

そう、それが正常な反応です。普通は分からない。ただのキ印だ。

だけど顕在化道を12年も歩んで来た統心は、いまやこのことが深く理解できる様になった。

以前のレクチャーにおいても、それなりに「メビウスの帯」などを使って解説したことはある。

なるほどメビウスの帯は、「表=裏」という「矛盾」をカタチとして視覚認識できる…これぞ正しく顕在化…だから、「即非の論理」をそれなりに表現はできる。

分かってなかったとは言わない。ニュアンスは充分感じていたつもりだし、その時点でのヌーソロジー理解を駆使して、変換人の「矛盾の論理」を何とか説明していた。

だが今から思えばずいぶん拙い説明だった…大拙だけに、大へん拙い。

今は違う。もっと深く、正確にお伝えし、皆さんをこの「領域」まで引きずりこむ自信がある。

そして、一見「即非の論理」ふうに見える解釈が、実はまったくの的外れであり、むしろ本質からは逸れてしまうという…そのあたりの「違い」も明示できると思う。


●「真」に近づくほど「偽」にもなる

「真理探究」の道においては、「分かったふう」という落とし穴が至る所にある。

探している道は見えない。それはこの世に「直交」しているからである。

直交成分は滞在している空間からははみ出している。

垂直と水平であり、奥行きと幅のことだ。

1度でもずれたら、それは垂直ではないし、奥行きではない。

0.0001ミリずれてもそれはすでに幅なのである。

そして統心がいつも言う「偽札の例え」。

子供銀行のお札に害はないが、精巧に作られた偽札は犯罪になる。

求道のプロセスとは、「真」に近づくほど「偽物」にも近づいているという矛盾がそこにあるのである。


●即非の論理は、日本的霊性の論理

大拙は「即非の論理」を「日本的霊性の論理」であると言う。

ここは偉大なる先人に敬意を表し、喜んで鵜呑みにしよう。

そう、これが日本的霊性なのだ。

これは「潜象界」への気づきとも言えるだろう。

日本的霊性とは、潜象界を感じ取る感性のことだと思う。

現象界と潜象界…オモテに現れる現象界の背後、そのウラ面には潜象界がぴたりと重なっている。

これは「因果関係」ではない。ここが先ほど少しふれた誤解のひとつでもある。

因果というのは時間的な関係であり(流れる直線的な時間上の関係)

因から果へと進む。必ず両者の間には時間的な分離がある。

現象と潜象はそうではない。時間的な分離はない。同時的だ。共に「なかいま」にある。

だが同時でありながら、この両者は同じ水準にはない。

全く交わるところはない。空間が違うということだ。

だからこの関係は「矛盾」でなければならない。

矛盾とは、一つとして同じ所がなく、同時には成立しないことである。

同時には成立しないことが同時的とはどういうことだ?

だから成立している空間が違う…ヌーソロジーではこれを「反転」という。


●「円心図」にはご注意を

ところが…この「反転」を説明してしまうと、それを理解する者の脳内平面では「同じ水準」になってしまう。

統心がいつもいう「円心図」を見る時の注意点だ。

ヴェシカパイシス…円心図…あの図の本質は、ひとつの円のウラには反転した円がもうひとつあるということ。二つでひとつ。

だが図では両方の円が一つの図として表されてしまう。そのことを言っている。

「まったく違う空間」なのに、同じ空間上で説明されてしまう。

この様な状況をヌーソロジーでは「中和」と呼んでいる。

差異が見えなくて、同じ水準で見てしまう状況のことだ。

こういう理解を積み上げてしまうと、自分自身が「それ」になることができなくなっていく…。

あの「領域」に参入できなくなってしまう。


●「自我は評価関数」…という天才・苫米地博士の理解

現象と潜象はそういう「矛盾」の関係だが、それは「否定」の関係でもある。

潜象界は、自身のすべてを否定して現象界を送り出してくる。

だがここにも注意が必要だ。

例えば、あの天才・苫米地博士の理論にこういうのがある。
「私を成立させているのは、私以外のすべて」だと。

苫米地氏によれば、私(自我)とは評価関数のことであり、全世界の存在物から自分に関係のあるものだけを抽出する「関数」である…と。

逆に、私に対してその「逆関数」をかければ、今度は全世界が出てくる…と。

なるほど、実に説得力のある内容だ。さすが天才である。

だが、このような理解がもっとも真実から遠ざかるものだと統心は思っている。


●苫米地理論の何が問題か

…私とは私以外の全ての要素がウラ支えしている…

私以外なのだから、それは「否定」である。

まさしく「否定」によって、私はいまここに成立している。

論理的にはそうだ。そしてこれは「即非の論理」を説明しているかの様にも思える。

だが「私と私以外」という理解が…先の苫米地氏によれば「集合論」になっている。

これは「世界」という全体集合の中で、各要素を同じ水準で見ていることでもある。

頭の良い人はいつもこうだ。すべてを俯瞰する目線。そして成績がよく、社会的実績も突出している。

私はずっと、こういうタイプの頭の良い人には違和感を持っていた。

何かが違う…ずっとずっと違和感があった。

でもいまなら良く分かるよ。

これは「幅」の理解なのです。ここでいう「私と私以外」とは幅的水準。

そしてこれは「相対的関係」…相対論的な思考。


●現象と潜象は「絶対的関係」

現象と潜象…即非の論理はこれではない。似て非なるものだ。

先の幅的理解が「相対的」なのに対して、こちらは「絶対的」な関係。

現象界は潜象界の「絶対否定」によって押し出されたものである。

私とは「私を絶対否定」するものによって押し出されたものである。

私を絶対否定するものによって、私は支えられているのである。

私を絶対否定するものとは何か…

…それは「他者」である。他者しかあり得ない。

他者とは「絶対的に自己ではない」ものだ。

そのような他者がこの自己を支えているのである。

なお、ここでいう「否定」にネガティブな意味は全くない。

否定がネガティブなのは「相対否定」の関係の時である。

他者を否定して自己を肯定する。他者を引き下げて自己を揚げる。

相対否定は勝ち負けだ。相手が負けてくれると自分が勝つ。

逆に自分が勝つときは相手が負ける。いわゆるゼロサムゲーム。

何とも世知辛い、殺伐とした悲しい関係ではないか。

そして「人間」はこの関係しか知らないのだ。

いや、このような関係性の水準にたたき落とされているのが人間なのだ。


●絶対否定と相対否定のちがい

現象と潜象はそうではない。

潜象は現象を否定…というよりも潜象自身を否定=絶対否定し、現象を押し上げる。

ここが相対否定とは違うところ。相手を押しのけて自分を成り立たせるのが相対否定。

相手を持ち上げて、自分をさげすむ相対肯定も同じ水準である。

絶対否定は違う。自分自身を完全否定し、相手を別領域へと押し出す。

現象は潜象によって絶対否定されるのだが、それは即、絶対肯定となってウラ支えされる。

絶対否定、即、絶対肯定なのである。

これが奥行き・絶対の関係。

先の相対否定・相対肯定は幅の関係である。

要は、苫米地氏の集合論・関数の理解では、日本的霊性に触れられないということである。

事実、苫米地氏の論理においては「空」が最上位となり、最下位に「矛盾」が来ると。

つまり宇宙の本質は「空」だという。

でも日本的霊性やヌーソロジーはそうではない。

宇宙の本質は、まさしく「矛盾」なのだ。むしろ矛盾の方が本質なのである。

(苫米地氏が最下位とする「矛盾」は、ヌース的にはむしろ本質ですよ、という意味)

それは「現象-潜象」の様に同時存在として、絶対肯定・絶対否定の関係として、いまここに「奥行き」的に共存している。

私を私ならしめているのは、私以外の全て=私を絶対否定するもの=他者(あなた)…ということである。

永遠の我と汝の関係…これ、西田哲学である。

西田幾多郎の晩年の境地「絶対矛盾的自己同一」とは「即非の論理」のことである。

この様な奥行きの領域に意識を侵入させていくことが正しく顕在化だ。日本的霊性の復活である。


※苫米地氏をディスっているわけではなく、彼の論理はあくまでも西洋論理、対象論理であるということ。それに対して西田や大拙が追いかけたのは東洋論理であり、さらには日本的霊性であった。この論理はそのままヌーソロジーに繋がっている。


●薪が燃えて、灰になる……のではない?

「即非の論理」を探究したのち、「切断即連続」について見ていこう。

道元禅師は言う「灰はあと、薪はさきと見取すべからず」

薪が燃えて、その結果、灰になる。これが常識的な見方。

だから「さきに薪」があり、「燃えたあとで灰」になると。

道元はこの様な見方をしてはならない…というのである。

道元によると「薪は薪」であり「灰は灰」なのだと。

さらに「前後際断あり」…とも言う。

薪と灰は別のものだと言うのだ!

だから薪と灰の間にはスキマがある。決して連続変化ではないと。

しかし、常識的には薪が燃えて灰になる…連続変化である。

それがそうではない…???

そうだ…まさに「即非の論理」と同じ類いの思考である。

薪と灰は別のものだ。断絶している。しかし、断絶しているからこそ連続する…。

実際の道元の言い回しからはすこし変調して書いたが、彼の言いたいことは外していない。

人間が常識的にみている「因果関係」というのも、それは表面的であり、現象的であり、幅的だということ。

そのような見方しかしていなければ…「領域」に参入することは決してできない。

因果律に引き込まれたら、かならず「いま・ここ・わたし」を見失うことになる。

そうではない見方をしていく…即非の論理、この場合は「切断即連続」…そのことで、奥行きであり日本的霊性に参入していくのである。

このあたり…前回の「純粋過去と純粋未来」などと関連して、ヌース的に非常にオイシイ香りがしている。

理解することが、そのまま参入となっていく…そのような顕在化の領域を共に開拓していこう。


●「モノは空間のフヨウ物」byオコツト

そしてこのような理解の仕方が「場の論理」というものであり、ヌース的には「空間脳」の発現ということになる。

「モノと空間」は「現象と潜象」の関係なのだ。このことが分かるのが「場の論理」である。

「モノと空間」を単なる「図と地」として見るのは相対理解にすぎず、これでは何も変容は生まれない。

ヌーソロジーでもゲシュタルト反転の例として「ルビンの壺」をあげることがあるが、あの理解のままでは「中和」に留まってしまう。先ほどの「円心図」と同じだ。

「場の論理」そして「空間脳」は、それでは開かない。

「空間脳」を開かなければ、人間はほどなく「電脳」にとって変わられることになるだろう。

「電脳」とは完全なる「他者化」である。自分の「感じ方」を失った屍である。

それに対して「空間脳」は「あなたはわたし」へと意識を導いてくれるだろう。

そこはお互いの感じ方を共有し、共感できるあの「領域」なのである…。


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★4/27(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
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みなさん、こんにちは。とうしんです。

早くも3月が終わり、来月からは新年度スタートですね。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、ブログ『なかいま自分教ガイド』…今回もまたメルマガからの抜粋です。

今月の関西ヌース・大阪教室のPR文ではありますが、中身が濃くてメールセミナーさながらの内容です。

メルマガだけだと勿体ないので、ブログの方にも掲載しておきますね。

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◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:純粋意識・純粋経験・純粋思考
~ そして、過去と未来の等化とは… ~



 

ヌーソロジーには「純粋○○」という用語がよく出てくる。

●「純粋意識」というのは仏教やインド教系の瞑想解説で出てくる。

日常の煩悩まみれの世俗的意識から解脱し、空や無を正見した意識…いわゆる「悟り」を得た意識…その意識状態を表している。

もう少し踏み込むと「元から悟っている意識」みたいなニュアンスが強い。そしてここが大事な点であったりする。

というのも修行者は往々にして「努力」して悟りに至ろうとする。これがより雑念や執着を呼ぶことになるし、仮にうまく一瞥に至ったとしたら、今度はその悟りを所有してしまう。自分の手柄にしてしまう様なことがおきる。

一瞥して過ぎ去ったあとでもその所有を続けてしまう。そうなると偽善者になる。

そういうことを回避する為にも「元々悟っている」という認識は凄く重要だということが分かる。

誰もが既に悟っている。そのような意識が人間の意識の最も深いところに既にありますよ…というようなことだ。


●元々あるもの、オリジナル、源流の意識…そういうことを「純粋意識」として、明晰に哲学思考したのがフッサール…言わずと知れた「現象学」の創始者である。

「現象学」は「現象学的還元」…その手段としての「エポケー(判断停止)」から始まる。

エポケーとは「外界の実在性についての判断を中止する」という様なことだが、あえて統心流に大胆・デフォルメ解説をすれば、

マトリクス(囚われの現象世界)から脱出するために、まずはマトリクスに対しての判断を停止することだと言えよう。否定したり、肯定したりしない。判断停止である。

なるほど、マトリクス(現象世界の悲喜こもごも)に対して、否定したり肯定したりするという思考や態度では、いつまで経ってもそのマトリクスという「大前提」に対して「快心の一撃」を加えることはできない…ということか。

まるでお釈迦様の手のひらから出られない孫悟空の様なものだ。

それに対してエポケーは、マトリクスに対する判断を一切停止、括弧に入れて保留…そこから哲学を開始する…そうすることで現れてくるであろう「純粋意識」を追いかけた…それがフッサールの哲学であろう。

この意識が成立する条件や構造を探って行った…そうすることで、マトリクスという牢獄から抜け出し、真の意味での自由を得た意識…意識らしい意識…に到達しようとしたのではないだろうか。

逆にエポケーとは違って、マトリクス現象世界の悲喜こもごもに対して、肯定したり否定したりしながら意識の理解を深めようとするアプローチもある。これを「心理学」という。

これで良く分かるだろう。現象学と心理学とでは根本的に方向性や役割が違うということが…。


●「純粋経験」というのは西田哲学の言葉である。

「純粋経験」とは、認識する主体と認識される客体とが、いまだ分離していない経験のことを言う。

西田幾多郎は最初の著作『善の研究』(1911)において、この「純粋経験」という概念から出発した。

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経験するというのは事実そのままに知るの意である。
まったくの自己の細工を棄てて、事実に従って知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
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『善の研究』「第一編 純粋経験」冒頭より



純粋意識・純粋経験…こうして見て来ると、「純粋○○」という概念が目指している方向性がおぼろげながら見えてくるのではないだろうか。

本来性のある場所、オリジナル、源流…人間の思惟・作為・感情によって未だ汚されてない、そのようなものを見出そうとする静かな情熱・意欲が「純粋○○」という言葉から感じられる。


●そして「純粋思考」…これこそがヌーソロジーの基本的態度。

以下、コーセン氏のツィートから。

・純粋思考とはヌースのことだね。この思考は表象ではなく、表象を成り立たせているものに対する思考であり…(2016/03/31)

・トランスフォーマーにおいては、思考が先手を取るという意味だ。もちろん、ここでいう思考とは純粋思考のことであり、感性を通した対象の思考(通常の悟性)ではない。(2017/08/07)

・対象を思考することがそのままその対象と一致する世界。そこにおいて初めて主観と客観は一致を見る。。純粋思考物体としての理念。(2012/09/03)

・受動者としての人間はそれを経験させたものについては何一つ知ることができない。これを知ることがヌーソロジー的な超越論的経験論ということにでもなろうか。受動的感性ではなく、能動的感性を純粋思考によって開くということだ。(2016/02/03)



ヌーソロジーが目論む「純粋思考」という基本的態度について、そのイメージが少しでも伝わるのではないだろうか。

この「純粋思考」という概念は、シュタイナーが重視したことで知られている。

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私はこの純粋思考のことを、『自由の哲学』の中で、出来る限り意識的な仕方で論じようと試みましたが、純粋思考はこんにちでも十分に意識化され、対象化されているとは言えません。-魂について-
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シュタイナーのボットより


シュタイナーが「純粋思考」を特に重視し、かつその概念は人々に伝わり辛かったことがよく分かるだろう。


再び、コーセン氏のツィートから。

・オカルティズムの本質は純粋思考である。人間に潜む権力欲によって歪曲され続けて来たオカルティズムを心霊的な言葉の呪縛から解放することが必要だ。それによってルシファー的なものは撤退していく。(2013/10/24)

・シュタイナー哲学とヌーソロジーが互いに同型とも言ってような対応を見せるのはやはり「反転した空間」のイメージというものを純粋思考の中に打ち立てなくてはならないとするところです。(2013/08/03)



ヌーソロジーにとって「純粋思考」ということがどれほど重要か、そしてこの概念がどれほど分かりづらいか…そのことを改めてとりあげて、統心流に解説してみたい…

ということで、今月のテーマはこの「純粋思考」となる。

真の意味で「純粋思考」が分かると、ベルグソンの「純粋持続・純粋記憶・純粋知覚」などの意味もよりふくよかに分かるようになるだろう。

そして、先日のヌースエキスパートサロンで取り上げられた、ドゥルーズの「純粋現在・純粋過去・純粋未来」…。

とくに「純粋過去」の理解が意識変容の基点になると思う。とても重要だ。

「純粋過去」への理解が深まると「純粋未来」も観じられてくる…

その先には…遂にあの「過去と未来の等化」が…

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オコツト)位置の交換により時間はなくなり、変換により時間に負の方向性が生まれ、転換により時間は無という力を持ちます。
コーセン)負の方向性とは何ですか。
オコツト)人間の意識が過去も未来も等化できるという意味です。
--------------------------
シリウスファイル 19901010



過去と未来が等化される…これほどの意識変容があろうか。

もうそれは人間ではない。人間卒業だ…正しく変換人だ。

「過去と未来の等化」について…この度、統心はある確信を得た。

それを京都ライブと大阪レクチャーにて、何とか表現してみたい。


興味のある方はどなたでも大歓迎です。

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★3/30(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時

※今回はいつもと同じ「阿波座」のルーム8です。

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みなさん、こんにちは。とうしんです。

本日は天皇誕生日ですね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、ブログ『なかいま自分教ガイド』の更新はすっかり御無沙汰していますが、メルマガは相変わらず毎月1回がっつりと書いております。

最新のとうしん情報を追いかけたい方は、是非ともメルマガのほうも登録してください。

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自分で言うのも何ですが、毎回なかなかの力作です。

以下は2月号メルマガからの抜粋ですが、2月度定例ヌーソロジー教室の案内文です。

しかし単なるイベント告知文ではなく、大変面白い読み物になっていると思います。

ヌーソロジーに関心のある方にとっては、きっと読み応えがあるでしょう。

とくに今月のテーマである「質と量の転倒」は、とうしんの大好物でして、行間からその情熱が溢れております。

是非ともお楽しみください。

また興味があれば、大阪ヌーソロジー教室(2月は明日、2/24の13:30~17:00)の方にもいらしてください。歓迎いたします。

 

ということで、以下、メルマガからの抜粋です。

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◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:「質」と「量」の転倒を探究する
~ ベルグソン『試論』、そして「真の自由」を求めて ~


私はヌーソロジーが大好き。

三度の飯よりヌーソロジー…もうそんな生活を15年以上している。

24時間365日…ずっとヌースを続けている。

私にとって「ヌースする」とはどういうことか?

トウシンは毎日事務所に引き籠もって何をしているのか?(笑)

いまから約15年前の2009年9月…私は初めて福岡にある半田さんのオフィスを訪ねた。

半田さんが7年の沈黙を破り開催した「ヌースレクチャー2009」に参加する為である。

初めてお会いした半田さんは、あの超・明るいウェルカムな雰囲気、満面の笑顔で私達を迎えてくれた。

いま思うと当時の半田さんの年齢が54歳…現在のトウシンと同じ年齢ではないか!実に感慨深い。

一番前の席に陣取って、期待と神秘が胸中に広がるドキがムネムネの私の前で、初ヌースレクチャーにおける開口一番の半田さんの語りが忘れられない…。

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…西田幾多郎の言葉にこのようなものがあります…
「自然が歴史を生んだのか? 歴史が自然を生んだのか?」


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初めて聞いた時は頭の中が「???」となった。

「言葉の意味は分からんが、とにかくすごい内容だ!」

直感で、肌感で、これが凄い内容であり、これこそ私が求めていた内容であった…とだけは分かった。

いまではこの内容もトウシン流にいろんな角度からレクチャー等で解説している。

「歴史」とは「直線的な時間の流れ」と考えればよい。
「自然」とは「存在」そのもの、実体であり「モノ自体」のことだ。

すると、この西田の言葉はこう解釈できる

・「時間の流れ」の中で「存在」が顕れてきたのか
・「存在」が先にあって「時間の流れ」は後から出てきたのか

つまりはこういうことである。

この「存在」が先・「時間の流れ」は後…と思考するのがヌーソロジーなのだ。

それまでの私は長年のクリスチャン生活の思考癖があって

まず初めに「神」またはサムシング・グレートなる偉大な何かがあり

すべての存在はそこから創造、または流出してきた…という歴史観が根強くあった。

この歴史観は「神」以前を思考しないし、そこから始まった「歴史=時間」は直線的に流れて、永遠の彼方へと続いていく…もしくはある種のクライマックス・最後の審判を迎える…という感覚になる。

このような歴史観の中に生きると…人間は「結果的存在」「被造物」のポジションに封じ込められてしまう。(これが、いわゆる「存在者」…ハイデガー哲学…のこと)

それが本性であれば、それも居心地よくて良いのだろうが…私の場合は息が詰まり、何とか脱出したくて全身が爆発するような衝動があった。

いま思えば…やはりこの歴史観は「本性的」ではないのだ。私の本性が窒息しそうで暴れようとしている…それが何よりの証拠だった。

そこに、レクチャー冒頭の半田さんによる西田の言葉の引用と解説である。

半田さんはそれを「無時間」領域と言った。

ヌースは「無時間の思考」であると

「トランスフォーマー(変換人)とは、この時間概念を成立させている基盤自体を解体させ、無時間という場所から宇宙の生成原理を構成していく知的作業に就く者たちのことをいう」

初めて会った54歳の半田さんは渋くこう語った。

無時間の思考…これだよ、これ。

幼い頃からずっと「今」のナゾを追いかけて来た。
なんかおかしいぞ、この「今」は。
だって、意識した瞬間に過ぎ去っていく。捕まえることができない。
実際にあるのかないのかも分からない。
でもそんな「今」の只中に私は生きている。
これは凄いことだ…ここに宇宙の究極のナゾがある!
この事を解明できるなら、明日に死んでもいい!

冗談ではなく本気でそう思っていた。
サンプラザ中野の「健康の為なら死ねる!」ほど矛盾はしてないと思うけど…。

無時間の思考…さらにそこに、ヌーソロジーは「反転」を勧めてきた。

何もかも反転する。全部逆なのだ。全部逆さまなんだよって。

それを「構造」として解明し
なぜひっくり返っているのか
それが分かれば元返す帰路も見えてくる

それがヌーソロジーの最高に面白い醍醐味なのだ。

ということで、初めに戻ると
トウシンが毎日やっている「ヌースする」とは
この「ひっくり返し」なのである。

人間がずっと思い込んできた錯覚・固定観念・常識を見事にひっくり返す
ひっくり返せば、それまでの閉塞状況が一気に打開して、青空の如くすがすがしい霊流が流れ込んでくる…それが気持ち良くて止められない


そのひっくり返しのセンス、その大先輩にして大天才なのがフランスの哲学者ベルグソンだ。

ベルグソンは100年以上も前に…人類が犯す根源的な過ちのクセに気がついた。

それが「質と量の転倒」なのである。

ああもう…トウシン的にはこの「質と量の転倒」って聞くだけでご飯3杯いける(塩は少し欲しいけど)。

もう嬉しくて嬉しくて仕方がない!
人間は「質と量が転倒」してしまうんだよ。そこに気づいていないんだ、人類のほとんどが!(文明人のほとんどが)。

だからボクの、アナタの、その苦しみの原因は、突き詰めるとすべてここにあるんだよ…それが「質と量の転倒」。

例えば、ベルグソンはこんなことを言う

「温覚と冷覚は、近年別々の細胞・神経を通して受容していることが分かった」

(『試論』原文:最近の実験において、冷たさを感じる身体表面の場所と熱さを感じる身体表面の場所は異なっていることが示された。このため生理学では、熱いという感覚と冷たいという感覚との間に、程度の差ではなく性質の差を認めるのが今や一般的である。)


もう100年以上前の情報であるが、いま調べても確かにその通りだった。

で、それで?…って、よく考えてみて欲しい。

「温覚」と「冷覚」は別の回路が受容する「違った感覚」なのである。

しかし人間はそれを生活の中で、何かの媒体の温度が上がれば「温かい」、下がれば「冷たい」とするのではないだろうか。

例えば「水が冷たい・温かい」「空気が冷たい・温かい」…など。

そしてその違いを「温度計」によって数値化しないだろうか。

何度だったら熱い、何度だったら快適、何度だったら冷たい…と。

まさにこの瞬間、「質」として与えられていた「感覚」が「量」に転倒させられてしまうのである。

こうやって私達は生活のいたるところで質を量に置き換えることを、まったく気づかないうちにしてしまうのである。

するとどうなるか…すべてが数値に置き換え可能となり、やがては人工知能の制御下に置かれる様になって…とSF的飛躍をすることが冗談ではなくなってくる。

「頭の中」が「肉体や自然」から徐々に引き離されていくのは容易に想像できるだろう。

何よりも、質が量に転倒することによって「感じ方」を忘却してしまうのである。「感じれなく」なるのだ。そう「不感症」になるのである。それは最悪だ。

ヌーソロジー的言えば「感性空間」が閉じてしまうということ。「思形空間」だけになってしまう…これが頭でっかち人間。感じ方を忘れた人間。

さらにベルグソンは、このことが「自由意志」の問題にまで繋がっていると解く。

「自由意志」は「人間の尊厳」にして「魂の価値」と言ってもいいだろう。

そんな私達の生きる「価値」の根源が「質と量の転倒」によって奪われていく。

「質と量の転倒」によって、人間はやがて生きる意味を喪失してしまうのである。

ここまで思考するベルグソンの凄さが分かってもらえるだろうか。

そしてこういう「思考」を日夜展開していくことが、私にとって正に「ヌースする」ことなのである。

2月度教室においては、トウシンの大好物である「質と量の転倒問題」をオカズに、あれこれヌースを展開していくことにしよう。


興味のある方はどなたでも大歓迎です。

とうしん勉強会は、初めての方でもベテラン勢でも楽しんで頂ける路線をひたすら走り続けます。


★2/24(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時

※今回はいつもと同じ「阿波座」のルーム8です。

◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。

※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!


・定員20~30名(制限はありません)
・体調の悪い方はご遠慮ください

《お申し込みはこちら》