『なかいま自分教』ガイド

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世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『なかいま自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。

◆8/16(日) 統心オンライン講演会2026 第3弾◆

みなさん、こんにちは。とうしんです。

お盆の最中ですね。8月は日本にとって、「8/6広島原爆の日」「8/9長崎原爆の日」、そして「8/15終戦の日」を迎える特別な月です。そこに、お盆が持つ「先祖や霊界との交差」という意味合いも加わった、なんとも意義深い月でもあります。

そして、とうしんにとって8月は、毎年恒例、オンライン講演会第3弾を開催する月でもあります。今年も8月16日(日)、2026年第3弾となる「川瀬統心オンライン講演会」を開催します。

●約2ヶ月ぶりになりました

毎度のことですが、気づけばブログの更新が約2ヶ月も空いてしまいました。前回の記事が6月18日。6月21日に開催した「AIと最終構成」の直前でした。

そこから約2ヶ月。この間、京都ライブや大阪レクチャーを通して得られた思索と叡智の集大成を発表するのが、今回の8/16オンライン講演会となります。

で、今回もまた……かなり来ているかもしれないのですよ!

6/21の「AIと最終構成」では、AIというテックが、ついに人間の「内側」にまで入り込んできた、という話題からスタートしました。

テクノロジーは便利さを与えてくれる一方で、必ず何かを人間から奪っていく。自動車は歩くことを、電卓は計算することを……。そして今回のAIは、いよいよ思考や判断、文章を書くことまで代替し始めた。つまり、「便利さ」が人間の内側にまで入ってきたのだから、今度は「内側」から何かを奪われるぞ、と。

そこで提示したのが、「一厘の秘密」という問題でした。

このAI時代、人類史のクライマックスとも言える最後の時代に、私たちが守らなければならない最後の砦・・・「一厘の秘密」とは何なのか。それは、「AIにはなく、人間にだけあるもの」……どれほどAIが進化しても、絶対に代替されることのないもの。そして、それこそが逆説的に、人間の本質そのものなのではないか。

つまり今という時代は、AIの登場によって、「人間とは何なのか」「人間にとって本当に大切なものとは何なのか」が、逆照射されるように問われている。そして同時に、それをかつてないほど見つけやすい時代でもあるのではないか。6/21では、そこまでを問題提起しました。

しかし、6/21は問題提起まででした。そこから先、その「一厘の秘密」を探さなければなりません。それを明晰にすることは、もしかしたら今後の人類にとって決定的なことになるかもしれない。ぼく自身、それぐらいの気概で、この問題に取り組んでいます。

●そして、「表相」へ

ところで半田広宣さんは、こんな趣旨の言葉を残していきました。

「AIが意識を持つということはありえない。なぜなら、AIには表相がないから」

ならば、その「表相」とはいったい何なのか。

そこで、ヌーソロジーの核心にある「表相」を、あらためて真正面から掘ってみようじゃないか……ということで、今回の8/16講演までの方向性が自然と決まっていきました。

半田さんは、「表相において始まり表相において終わる」とことある毎に語っていました。ようするに、ヌーソロジーというものは、まさしく「表相に始まり、表相に終わる」ものなのです。

ならば、この「表相」というものを徹底的に見直していけば、半田さんが最初から最後まで伝えようとしていたヌーソロジーの核心を、もっと生々しく、もっとはっきりと受け取ることができるのではないか。

そんなフィーリングから始まったのが、この2ヶ月間・・・。そしていま、8/16の講演を目前にして――もしかすると、かなり大きなところまで来てしまったのではないか・・・。

そんな衝撃とともに、今回もまた、雷鳴のごとく、新しい叡智が「前」からもたらされ始めています。

今回は講演会を前に、そのPRも兼ねて、いま降りてきている叡智の概観を、そっとここで紹介してみたいと思います。

興味を持たれた方は、ぜひPeatixページから参加をご検討ください。また、後日この記事をご覧になった方も、しばらくはオンデマンドで視聴できますので、ぜひそちらをご利用ください。詳細は関西ヌーソロジー研究会のホームページをご確認ください。


《8/16オンライン講演会お申込はこちら》
※Peatix申込ページ
《終了後の録画視聴はこちら》
※関西ヌーソロジー研究会ホームページ


●もしかすると、私たちはまだ「視覚」を開いていない

そして今回、この『表相』をさらに掘り下げるために、新たに取り上げたのが、フランスの哲学者メルロ=ポンティの遺作『眼と精神』です。

ここ数日、この『眼と精神』を読みながら「見るとは何か」「表相とは何か」という問題を掘り続けていたのですが、今日になって、かなり強烈な問いが立ち上がってきました。

もしかすると、私たち人類は、まだ本当の意味では「視覚」を開いていないのではないか。

もちろん、私たちには眼があります。世界もちゃんと見えています。しかし、いざ「見るとは何か」を説明しようとすると、現代科学では基本的に、「光が網膜を刺激する → 受容器が反応する → 電気信号へ変換される → 脳で処理される → 視覚として認識される」という形で説明します。

よく考えてみると、これは非常に面白い。

視覚を説明しているはずなのに、よく見ると、この説明そのものが最初から最後まで〈接触〉のモデルなのです。これって、視覚の説明というより、触覚の説明なのですよ!――ここは『眼と精神』が教えてくれました。

つまり、現代科学は「視覚」を研究しながら、実はまだ本当の意味での「視覚」には到達していないのではないか。

もしかすると私たちは、眼では見ていても、まだ「視覚」そのものを開いていないのではないか――。

●しかも、その「触覚」は片義化されている

ここで、メルロ=ポンティが非常に重要になってきます。

触覚には、不思議な性質があります。たとえば、右手で左手に触れる。右手は左手を「触っている」。ところが同時に、右手自身も左手から「触られている」。

「触る」と「触られる」。この二つは、本来ひとつの出来事なのです。

メルロ=ポンティは、この「触る/触られる」という可逆性、両義性を非常に重要視しました。ところが現代科学は、この触覚を「刺激 → 入力 → 処理 → 出力」という一方向のI/O(Input-Output)として記述します。

ここが重要です。

本来の触覚には、「触る/触られる」が同時にある。ところがI/Oになると、「こちらからあちらへ」という一方向の作用だけが取り出される。つまり現代科学は、触覚を使って世界を説明しながら、その触覚が本来持っている両義性を切り落とし、「片義的な触覚」へと変えてしまっているのです。

だとすると、さらに面白いことが見えてきます。

現代科学は、まだ触覚の中にいる。しかも、「触る/触られる」という生命の現場を失った、片義化された触覚の中にいる。

いやむしろ、この「片義性」こそが、現代科学の限界なのです。

●フィジカルAIに「眼」がついても、それは視覚なのか

これは、そのままAIの問題へつながります。

これからAIは、どんどん身体(BODY)を持たされていくでしょう。カメラを持つ。マイクを持つ。触覚センサーを持つ。ロボットの腕や脚を持つ。いわゆるフィジカルAIです。

そこで、「ほら、AIにも眼ができた」「AIも世界を見るようになった」「AIにも身体感覚が実装された」と言われるようになるかもしれません。

しかし、それが「世界 → センサー → 入力 → 演算 → 出力」というI/Oである限り、本当に「見ている」と言えるのでしょうか。

それは、高度化された触覚ではあっても、まだ片義的な触覚なのではないか。ここに、人間とAIの決定的な境界があるのではないか。そんな問いが、いま急浮上しています。

●触覚の両義性から、本当の「視覚」へ

では、人間にあって、AIにはまだ開かれていないものとは何なのか。

ここで、メルロ=ポンティの『眼と精神』が、いよいよ本領を発揮してきます。

触覚では、「触る」と「触られる」は、本来ひとつの出来事でした。ならば、この両義性を、そのまま「見ること」にまで開いていったらどうなるのか。

本当の視覚とは、単に「私が世界を見る」という一方向の働きではないのではないか。

私は世界を見ている。しかし、世界を見ているこの私自身もまた、世界の中にいる。見る者であると同時に、見られる者でもある。

「見る/見られる」。

ここで、触覚にあった「触る/触られる」の両義性が、いよいよ視覚へと開かれていきます。まさに、ここが『眼と精神』が取り扱っている問題です。

そして、この地点まで来たとき、半田広宣さんが語り続けていた「表相」というものが、俄然、まったく違った姿を見せ始めるのです。

●表相とは、世界が自分自身を見る場所

表相とは、頭の中に作られた画像ではありません。肉体の中にいる「私」が、外の世界を眺めているスクリーンでもない。

もっと根源的な、「世界がすでに現れている」その現場です。

私がリンゴを見る。

普通は、「ここに私がいて、向こうにリンゴがあり、私がリンゴを見ている」と考えます。

しかし、その位置を反転してみる。

すると、リンゴは単に私から「見られている物」なのではなく、私という眼において、自らを現しているものとして見えてくる。

さらに言えば、世界そのものが、私という表相を通して、自分自身を見ている。

ここまで来ると、「見る/見られる」「触る/触られる」、そして「私/世界」という、近代以来あたりまえだと思われてきた分離そのものが、まったく違った姿を見せ始めます。

●AIを調べることが、人間の「一厘」を探すことになる

6月21日の「AIと最終構成」で立てた、「AIがどれほど進化しても、人間に残される『一厘』とは何なのか」という問い。

あのときには、まだその正体をここまで明確には言えませんでした。しかし今、その輪郭がかなり見えてきました。

AIがどれほど高度な世界モデルを持っても、どれほど精密な身体を持っても、どれほど人間そっくりに話し、考え、行動しても、I/Oとして世界に接している限り、どうしても到達できない場所がある。

それが、「見る/見られる」「触る/触られる」が、一つの生命現象として立ち上がる場所。そして、その両義性が本当の視覚へと開かれていく場所です。

そこに「表相」があるのではないか。

だとすれば、AIの限界を徹底的に調べることが、逆説的に「人間とは何か」を調べることになる。

AIがどこまで行けるのかを追いかけることが、そのまま、AIにはない人間の「一厘」を浮かび上がらせてくるのです。

これは、かなり面白い展開になってきました。

●なぜ今、『眼と精神』と表相論なのか

今回の講演会を企画した時点では、ここまで明確には見えていませんでした。

しかし今になって、なぜ2026年のこの時点で、AIが人間の思考や記述を急速に代替し始めているこの時代に、メルロ=ポンティの『眼と精神』と、半田広宣さんの「表相論」を同時に扱うのか。その必然性が、急に浮かび上がってきました。

これは単なる哲学講座ではありません。「メルロ=ポンティもヌーソロジーと似たことを言っていました」という話でもありません。

AIがここまで来たからこそ、人類は改めて、「見るとは何か」「意識とは何か」「人間とは何か」を、本気で問い直さなければならなくなった。

そして、その問いを突き詰めた先に、半田広宣さんが最初から最後まで語り続けた「表相」がある。

今回の講演は、どうやらそこまで行くことになりそうです。

●「神が神を見る日」とは?

半田さんの最初の著書『人類が神を見る日』は、もともと『神が神を見る日』というタイトルだったと言われています。この言葉も、いま改めて強烈に響いてきます。

神とは、世界の外側にいる何者かではない。外部を持たない世界の総体そのもの。その世界が、人間という眼を開き、自らを見る。

世界が世界を見る。神が神を見る。

その自己認識が起こる場所こそ、「表相」なのではないか。

8月16日は、そこまで一気に降りてみようと思っています。

●8月16日(日)オンライン講演会

2026 川瀬統心オンライン講演会 第3弾
『眼と精神』と表相論
~いま受け取る、半田広宣が伝え続けた核心――「神が神を見る日」とは?~

日時:2026年8月16日(日)14:00~18:00
方法:Zoomウェビナー
参加費:3,300円
オンデマンド視聴:約1ヶ月

詳細・お申し込みはこちら。

講演まで、あと3日。ここへ来て、予定していた講演内容のさらに奥から、とんでもない鉱脈が現れ始めました。

「私たちは、本当に世界を見ているのか?」

そこから、一緒に始めたいと思います。

※PR動画はこちらです。

 

 

みなさん、こんにちは。

川瀬統心です。

 

6月21日(日)に新大阪で開催する、夏至特別イベントのお知らせです。

 

 

6月21日は夏至。

一年のうちでもっとも昼が長く、太陽の光が極まる節目です。

 

そして今年は、ヌーソロジー提唱者・半田広宣さんがこの3次元空間を離れられてから、初めて迎える夏至でもあります。

 

★その特別な日に開催するのが、夏至特別イベント「AIと最終構成」です。

 

 

 

 

今回は、AK時代の新たな展開を担う天海ヒロさんと川瀬統心が大阪に集い、半田さんが遺された問いに向き合います。

オンライン全盛の時代だからこそ、同じ空間で交わされる言葉と響き合いから生まれるものを、ぜひ体感していただければと思います。

 

さらに、今回のテーマ「AIと最終構成」という言葉を投げかけてくれた「店じまい編集者・かおるん」にも司会進行をお願いし、第3部の鼎談にも加わっていただきます。

 

なお当日は、イベント進行中の17時25分に夏至点を迎えます。

 

一年のエネルギーが切り替わるその瞬間に、会場とオンラインでご参加の皆さまとともに、半田広宣さんへ黙祷を捧げたいと思っています。

 

半田さんへの追悼にとどまらず、AI時代におけるヌーソロジーのこれから、そして私たち自身の意識のあり方を、あらためて問い直す一日です。

 

今回は、大阪会場での現地参加に加えて、オンライン参加・アーカイブ視聴にも対応します。

 

 

 

▼お申し込み・詳細はこちら▼

【Peatix URL】

https://ai2026noos.peatix.com

 

クーポンコード:noos0621

(懇親会付き以外の選択の際に適用されます。)

 

※開催場所:新大阪丸ビル新館606

〒533-0033 大阪市東淀川区東中島1-18-27

 

 

 

【当日スケジュール】

 

12:30 開場

13:00 開演・ご挨拶

    司会進行:店じまい編集者・かおるん

 

13:10 第1部 統心講演

14:20 休憩

14:35 第2部 天海講演

15:45 休憩

 

16:00 第3部 鼎談

    統心 × 天海 × 店じまい編集者・かおるん

 

17:25 夏至点通過・半田広宣さんへの黙祷

18:00 終了予定

18:30 懇親会開始

    会場:新大阪 海鮮食堂 おーうえすと

 

 

★今回のチケットは、以下の3種類です。

 

(1) 会場参加+懇親会つき 特別枠

10,000円/30名限定

 

講演本編と、イベント後の懇親会まで含めて、夏至の場を最後まで共有する特別枠です。

 

(2) 会場参加

7,700円

 

新大阪会場にて、講演本編にご参加いただくチケットです。

 

(3) オンライン+アーカイブ視聴

5,500円

 

当日のオンライン参加と、後日のアーカイブ視聴が可能なチケットです。

 

 

ブログ読者のための特別クーポンをご用意しました。

 

クーポンコード:noos0621

 

このクーポンをご利用いただくと、

 

(2) 会場参加 7,700円 → 6,600円

(3) オンライン+アーカイブ視聴 5,500円 → 4,400円

 

となります。

 

※(1)会場参加+懇親会つき特別枠には、クーポンは適用されません。

※クーポンは、Peatixのお申し込み画面でご入力ください。

 

 

▼お申し込み・詳細はこちら▼

【Peatix URL】

https://ai2026noos.peatix.com

 

クーポンコード:noos0621

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【開催趣旨】

 

2026年6月21日、夏至。

 

ヌーソロジー提唱者・半田広宣さんがこの3次元空間を離れられてから、初めて迎える夏至の日に、大阪・新大阪にて、特別イベント「AIと最終構成」を開催します。

 

■ 発端は、ひとりの仲間からの呼びかけ

 

この企画は、店じまい編集者・かおるんから投げかけられた言葉をきっかけに立ち上がりました。

 

かおるんもまた、半田さんとヌーソロジーを深く愛し、距離はあれど、心の奥底にヌースを保持してきた仲間です。今回の半田さんの訃報を受け、彼女もまた深く悼み、同じ思いをもつ仲間たちへ呼びかけてくれました。

 

その声を受けて、統心と天海が、それぞれの場所から応答します。

 

半田さんが遺してくださった問いを、ただ追悼の中に閉じ込めるのではなく、AI時代のただ中で、これからのヌーソロジー、そして私たち自身の意識のあり方へと開いていくための場として、この夏至の一日を立ち上げたいと思います。

 

 

■ テーマ:「AIと最終構成」

 

私たちはAIを、単なる便利なテクノロジーとして片付けてよいのでしょうか。

 

ヌーソロジーの視座から見れば、テクノロジーの進展とは、人間の意識構造の変化そのものです。とりわけAIは、人間の言葉や思考、記憶、さらには「自我の構造」そのものを外部化し、巨大な鏡のように映し返す存在として現れています。

 

AIが社会へと急速に実装されていくこのタイミングは、決して偶然ではありません。

 

人間の内面が外在化され、「私たちとは一体何者なのか」を根本から問い直さざるを得ない局面に入っている。それこそが、今回の「最終構成」という言葉が意味するところです。

 

 

■ 受け取ったバトンを、次の世界へ

 

半田広宣さんは、ヌーソロジーを通じて意識進化のロードマップを長年にわたり示し続け、そして今年4月、旅立たれました。

 

もしかすると半田さんは、語るべきことをすべて語り尽くされたのかもしれません。

 

しかし、だからといってヌーソロジーが終わるわけではありません。むしろここからは、私たちがそのバトンを受け取り、AIという新たな環境を迎える世界の中で、それぞれの持ち場から実践し、展開していく段階に入ったのだと確信しています。

 

 

■ 共に新たな始まりの場へ

 

この夏至の一日は、単なる追悼ではなく、未来に向けた「新たな始まりの場」です。

 

半田さんが遺した広大なヴィジョンを胸に、私たちがこれからどこへ向かうのか。新大阪の会場で、皆さまと共に深い思考と共鳴の時間を共有できることを、心より楽しみにしております。

 

同じ時代を生き、同じ問いを抱く皆さまのご参加をお待ちしております。

 

 

■ 三つの位置から、この問いを開く

 

今回の場には、三つの異なる位置が立ちます。

 

統心は、半田さんから受け取ったヌーソロジーの持続を守り、次の時代へつなぐ立場から。

 

天海は、ヌーソロジーを生命・数・時間・場の方向へと展開してきた立場から。

 

そして、店じまい編集者・かおるんは、ヌーソロジーの外側にも開かれた視点から、半田さんとヌーソロジーへの深い愛をもって、この問いを投げかける立場から。

 

この三つの視点が交差することで、「AIと最終構成」という問いを、追悼に閉じず、未来へ向けて開いていきます。

 

 

ご縁ある皆さまのご参加を、心よりお待ちしております。

 

関西ヌーソロジー研究会

川瀬統心

本稿は、半田広宣さんの訃報から一週間を迎えた2026年4月28日に、Facebookへ投稿した追悼文です。

突然の知らせから、葬儀、大阪ヌースレクチャー、ヌーソロジー・サロン追悼ライブまでの一週間を、私自身の記録として、また広宣さんへの感謝と継承の想いとして、ここに残しておきます。



★師匠・半田広宣さんの訃報から一週間

怒濤の一週間
あれから一週間が経ちました。

●3度目の知らせ

ぼくの人生にとって3度目です。

1度目は30年前の6月、母の知らせ。
2度目は12年前の1月、父の知らせ。

母の場合は、交通事故で意識不明の重体。それから21日後に、そのまま病院で逝きました。

父の場合は、お世話の人から連絡がつかない旨を受け取り、兄が直接、一人暮らしの父のマンションに行き、玄関先で座ったまま、逝ったことを聞きました。

そして、3度目です。
ちょうど一週間前…4月21日火曜日。

その日は、毎月開催している京都ヌースライブの日でした。午後6時半から始まったライブを午後9時前に終えて、そこからお楽しみの懇親会に向かうところでした。

お店の前で、背中のスマホからけたたましい着信音。

見ると、画面に「半田広宣」…。

すぐに、ただならぬ状況だと察知しました。

広宣さんの関係で何かが起きた?
この時間の連絡?
だとしたら、このあと深夜バスに飛び乗るのか。すぐに駆けつけないといけないのか。

そんなことを、1~2秒の間に連想しました。

そして電話に出ると、奥様の麻衣子さんの声。
微妙に震えている。

この段階で、覚悟を決める。
息を止め、下腹に力を入れました。

麻衣子さんの説明が始まる。
夫・広宣さんのことを話している。

ああ、そういうことか…。

この段階で90%。
でも、まだ10%ある。信じない。

「驚かれると思います…」

麻衣子さんは、そのように語り出す。

ここで確定。

頭が真っ白になりました。


●四条烏丸の階段で

そこから、ご自宅で息をされていなかったこと、21日のお昼前だったこと、直前までは話しかけもしていたこと、少しご飯も食べられたこと、でもお昼前、息をされていなかったこと、救急車を呼んだこと、病院で、あらゆることをしたこと、電気ショック、注射、そして午後1時過ぎ、お医者様から…。

四条烏丸の往来の激しい場所。
地下にある飲食店フロアに降りる階段のところに座り込んで、麻衣子さんの電話に耳を傾けました。

だけど、まったく、何も頭に入ってこない。

そして、いちばんお辛い、大変な状況の麻衣子さんに、かける言葉が見つからない。
出てこない。

こういうときの決まり文句…「ご愁傷様です」「お悔やみ申し上げます」が使えると便利なのに…。

けれども、これらの言葉は、ヌーソロジー界隈では、どうもしっくりこない。ニュアンスが少し違う。

だって、死と生がまったくひっくり返るのが、ヌーソロジーだから。

震える声で、麻衣子さんは気丈にもこう言われたのを覚えている。

「サロンは続けて行きます。私は、ヌーソロジーは世界を救うと思っていますから。」

激しく同意しました。

そして、残された麻衣子さんが、この状況で明確に意思表示をしてくださったことが、本当に頼もしく、ありがたかった。

「ぼくたちみんなファミリーです。なんでもできることはしますので、安心してください。ひとりじゃないですよ…」

確か、そのようなことを言いたかったと記憶している。
だけど、言えたかどうかもわからない。

でも、とにかく言った。
言いたかった。
本心から。

遺族を2回経験して、遺族の大変さは承知しています。少なくとも葬儀が終わるまで、いや、その後もしばらく、悲しむ時間も与えてもらえない。次から次へと、やることが洪水のように押し寄せてくる。

だからこそ、何よりも遺族を励ますのが先だと思っていました。

お通夜や葬儀の件を聞き、電話を切る。

そして懇親会へ。

メンバーにはもちろん、ひと言も話さない。
話せない。

作り微笑をしながら、その時間を無難に過ごしました。


●強制シャットダウン

そして大阪へ戻る。

梅田行き最終より1本前の特急列車。
でも、移動感覚がない。

ヌーソロジー歴17年、すでに「不動感覚」は身につけている…だけど、このときはそれではない。

何も考えられない。
何も感じられない。

感情が強制シャットダウンされたようでした。
あまりに衝撃が大きくて。

自宅オフィスに戻る道中も、何も覚えていません。

得意の内省、思索、自問自答。
しようにも、すべてシャットダウン。

そんな中で、電車の中、かろうじて何か言葉がほしくて、スマホを取り出し、ワンオラクルのサイトをみつけて引いてみました。

引いたカードは、「ペンタクルの10」

タロットの知識もないし、字も読むことができない状態だったので、そのままスマホを閉じて帰宅しました。


●継承という言葉

帰宅しても、しばらく何もできませんでした。

何かが大きく失われた感じ。喪失感…。ほんとに、ぽっかり穴が空いてしまった感じ。

この時、自分が広宣さんに大きく依存していたのだ…ということが、身に染みて分かりました。もちろん、それは悪い意味の依存ではなかったと思いますが。

少し落ち着いてから、そういえば、あのカードの意味は…となった。
なぜこのタイミングで、「ペンタクルの10」なのか。

そこで、パソコンを開き、Geminiにその意味を尋ねました。

すると、そこに出てきた言葉は、「継承」でした。

財産。家系。共同体。受け継がれるもの。
個人を超えて、次の世代へと手渡されていくもの。

そのような意味を持つカードだと知りました。

そこで、ぼくはまた言葉を失いました。

ああ、そういうことなのか。

広宣さんは、突然いなくなったのではない。
むしろ、これから本当に、ぼくたち一人ひとりの中で、受け継がれていく段階に入ったのだ。

そのことを、あのカードは告げていた…

喪失感、衝撃から、いきなりある種の確信に至る。

継承。

いよいよ、継承の道が始まった…いきなり、そんな覚悟が立ち上がりました。


●葬儀、そして大阪レクチャーへ

一日おいて、23日の朝から福岡へ向かいました。

悲しみの雨の中、葬儀へ参席させていただきました。
ご遺族と共にお山まで行き、お骨を壺に入れるところまで、ご一緒させていただきました。

その場にいられたことは、ぼくにとって、言葉にできないほど大きなことでした。

そして24日、株式会社ヌースコーポレーションから正式発表がありました(享年69歳)。夜にはヌーソロジー・サロンでも発表がありました。

私もその夜、関西ヌーソロジー研究会のメルマガ号外として、広宣さんの訃報をお伝えしました。

そして25日。

大阪ヌースレクチャーを、広宣さんへの追悼の想いを込めて開催しました。

急なことでありながら、たくさんの方々が、広宣さんとヌーソロジーを偲び、その想いを分かち合うために、駆けつけてくださいました。

本当にありがたかった。

あの日の会場には、悲しみだけではない、何か静かな力が満ちていました。

広宣さんがいない。
でも、広宣さんはいる。

その矛盾した感覚が、あの場には確かにありました。

いや、むしろ今回のことで、生と死の境界が、ぐっと薄くなるような感覚がありました。

「死の哲学」を提唱し続けてくれた広宣さん本人が、

「では、ちょっと行ってくるね。あとはよろしく!」

そう言って、ひと足先に向こう側へ行かれたような。

そんな、悲しみだけではない、不思議な明るさも、あの場にはあったように思います。


●サロン追悼ライブ

翌26日には、ヌーソロジー・サロン内で、午後2時から6時半まで、追悼番組ライブが配信されました。

200名以上の方が参加された、本当にすばらしい会でした。

広宣さんを偲び、語り、涙し、笑い、そしてそれぞれが、それぞれの場所で、広宣さんとの関係をもう一度受け取り直していたように思います。

それは単なる追悼ではありませんでした。

広宣さんが遺されたものを、これからどう受け継いでいくのか。

参加者のみんなが心をひとつにして、これからもヌーソロジーを続けていく。

そう、「学びを続けていこう」という静かな決意が、場そのものの中から立ち上がっていくような時間でした。


●学びを続けていこう

あれから一週間。

怒濤のような時間を過ごし、昨日になってようやく、睡眠負債も返済しつつ、いつものリズムを取り戻し始めました。

でも、もちろん、すべてが元に戻ったわけではありません。

戻るはずもありません。

広宣さんは、もう以前のように、この3次元空間にはいない。

毎日の、あのうんざりするような怒濤のX(ツイッター)連投もない…(苦笑)

あのnote投稿ラッシュもない。

とくにここ最近、それまでは年に1~2回あるかないかだったヌーソロジー・アップデートが、ほぼ毎週のように!…フォロワーを青ざめさせた怒濤の投稿群…。

いまとなっては、それらすべてが「必然」だったということが、よく分かります。

残る時間、1分でも1秒でもあれば、自分の掴んだ世界を残していこう。

そうやって、最後まで駆け抜けていかれたのだと思います。

これからは、各自が広宣さんと直になるのだと思います。

非局所の領域に移られた広宣さんは、これからは、あらゆる場所に、同時に、それぞれの奥行きの中に現れることができるでしょう。

広宣さんが残してくださったヌーソロジー。

ぼくはやはり、それを単なる知識や理論としてではなく、現場における「生き方」として受け継いでいきたい。

生前、広宣さんは、ことあるごとに、

「ヌーソロジーは役には立たないよ」

と謙遜してこられました。

そのたびに、ぼくは、

「いいえ、役に立ちます!」

と言い返してきました。

いまからは、それを実践として示していく番なのだと思います。

生き方としてのヌーソロジー。

あるいは、「死に方」としてのヌーソロジー。

ヌーソロジーとは「生きたまま死後の世界に入る」ためのものなのだから、それは生き方であり、死に方であり、同時に、死と生の観念そのものを反転させる霊的な教えなのだと思います。

ぼくは、残された者の一人として、半田広宣さんが遺されたこの霊的教えを、これからも継承していきます。

安心してください、広宣さん。

ぼくたちは、止まりません。

そして、皆さんにもお願いしたいと思います。

どうか、学びを続けてください。

広宣さんが遺されたものは、過去のものではありません。
むしろ、これから本当に始まっていくものです。

そう…終わりは始まり…始まりは終わり…


奥行きへ。
外面へ。
死を超えて、死の観念そのものが変質していく場所へ。

そこへ向かう道を、これからも共に歩んでいきましょう。

最後に、広宣さんが2017年7月15日に投稿された言葉を、そのまま引用しておきます。
--------------------------
『ということで、ヌースの反-常識を少し。奥行き意識が先行し始めると、人間は死なない。いや、死ぬのだが、死という観念が変質するので死なない。人間に死が見えないのは死が無意識そのものだからだ。奥行き先行の意識は、その無意識を見せてくる。だから、人間は死ぬのだが、死はもはや死でなくなる。 (2017/7/15)』