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『なかいま自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『なかいま自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。

みなさん、こんにちは。とうしんです。

早くも3月が終わり、来月からは新年度スタートですね。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、ブログ『なかいま自分教ガイド』…今回もまたメルマガからの抜粋です。

今月の関西ヌース・大阪教室のPR文ではありますが、中身が濃くてメールセミナーさながらの内容です。

メルマガだけだと勿体ないので、ブログの方にも掲載しておきますね。

ヌーソロジーに関心のある方は是非ともご一読下さい。

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ということで、以下、メルマガからの抜粋です。

************* メルマガ抜粋 ここから *************

◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:純粋意識・純粋経験・純粋思考
~ そして、過去と未来の等化とは… ~



 

ヌーソロジーには「純粋○○」という用語がよく出てくる。

●「純粋意識」というのは仏教やインド教系の瞑想解説で出てくる。

日常の煩悩まみれの世俗的意識から解脱し、空や無を正見した意識…いわゆる「悟り」を得た意識…その意識状態を表している。

もう少し踏み込むと「元から悟っている意識」みたいなニュアンスが強い。そしてここが大事な点であったりする。

というのも修行者は往々にして「努力」して悟りに至ろうとする。これがより雑念や執着を呼ぶことになるし、仮にうまく一瞥に至ったとしたら、今度はその悟りを所有してしまう。自分の手柄にしてしまう様なことがおきる。

一瞥して過ぎ去ったあとでもその所有を続けてしまう。そうなると偽善者になる。

そういうことを回避する為にも「元々悟っている」という認識は凄く重要だということが分かる。

誰もが既に悟っている。そのような意識が人間の意識の最も深いところに既にありますよ…というようなことだ。


●元々あるもの、オリジナル、源流の意識…そういうことを「純粋意識」として、明晰に哲学思考したのがフッサール…言わずと知れた「現象学」の創始者である。

「現象学」は「現象学的還元」…その手段としての「エポケー(判断停止)」から始まる。

エポケーとは「外界の実在性についての判断を中止する」という様なことだが、あえて統心流に大胆・デフォルメ解説をすれば、

マトリクス(囚われの現象世界)から脱出するために、まずはマトリクスに対しての判断を停止することだと言えよう。否定したり、肯定したりしない。判断停止である。

なるほど、マトリクス(現象世界の悲喜こもごも)に対して、否定したり肯定したりするという思考や態度では、いつまで経ってもそのマトリクスという「大前提」に対して「快心の一撃」を加えることはできない…ということか。

まるでお釈迦様の手のひらから出られない孫悟空の様なものだ。

それに対してエポケーは、マトリクスに対する判断を一切停止、括弧に入れて保留…そこから哲学を開始する…そうすることで現れてくるであろう「純粋意識」を追いかけた…それがフッサールの哲学であろう。

この意識が成立する条件や構造を探って行った…そうすることで、マトリクスという牢獄から抜け出し、真の意味での自由を得た意識…意識らしい意識…に到達しようとしたのではないだろうか。

逆にエポケーとは違って、マトリクス現象世界の悲喜こもごもに対して、肯定したり否定したりしながら意識の理解を深めようとするアプローチもある。これを「心理学」という。

これで良く分かるだろう。現象学と心理学とでは根本的に方向性や役割が違うということが…。


●「純粋経験」というのは西田哲学の言葉である。

「純粋経験」とは、認識する主体と認識される客体とが、いまだ分離していない経験のことを言う。

西田幾多郎は最初の著作『善の研究』(1911)において、この「純粋経験」という概念から出発した。

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経験するというのは事実そのままに知るの意である。
まったくの自己の細工を棄てて、事実に従って知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
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『善の研究』「第一編 純粋経験」冒頭より



純粋意識・純粋経験…こうして見て来ると、「純粋○○」という概念が目指している方向性がおぼろげながら見えてくるのではないだろうか。

本来性のある場所、オリジナル、源流…人間の思惟・作為・感情によって未だ汚されてない、そのようなものを見出そうとする静かな情熱・意欲が「純粋○○」という言葉から感じられる。


●そして「純粋思考」…これこそがヌーソロジーの基本的態度。

以下、コーセン氏のツィートから。

・純粋思考とはヌースのことだね。この思考は表象ではなく、表象を成り立たせているものに対する思考であり…(2016/03/31)

・トランスフォーマーにおいては、思考が先手を取るという意味だ。もちろん、ここでいう思考とは純粋思考のことであり、感性を通した対象の思考(通常の悟性)ではない。(2017/08/07)

・対象を思考することがそのままその対象と一致する世界。そこにおいて初めて主観と客観は一致を見る。。純粋思考物体としての理念。(2012/09/03)

・受動者としての人間はそれを経験させたものについては何一つ知ることができない。これを知ることがヌーソロジー的な超越論的経験論ということにでもなろうか。受動的感性ではなく、能動的感性を純粋思考によって開くということだ。(2016/02/03)



ヌーソロジーが目論む「純粋思考」という基本的態度について、そのイメージが少しでも伝わるのではないだろうか。

この「純粋思考」という概念は、シュタイナーが重視したことで知られている。

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私はこの純粋思考のことを、『自由の哲学』の中で、出来る限り意識的な仕方で論じようと試みましたが、純粋思考はこんにちでも十分に意識化され、対象化されているとは言えません。-魂について-
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シュタイナーのボットより


シュタイナーが「純粋思考」を特に重視し、かつその概念は人々に伝わり辛かったことがよく分かるだろう。


再び、コーセン氏のツィートから。

・オカルティズムの本質は純粋思考である。人間に潜む権力欲によって歪曲され続けて来たオカルティズムを心霊的な言葉の呪縛から解放することが必要だ。それによってルシファー的なものは撤退していく。(2013/10/24)

・シュタイナー哲学とヌーソロジーが互いに同型とも言ってような対応を見せるのはやはり「反転した空間」のイメージというものを純粋思考の中に打ち立てなくてはならないとするところです。(2013/08/03)



ヌーソロジーにとって「純粋思考」ということがどれほど重要か、そしてこの概念がどれほど分かりづらいか…そのことを改めてとりあげて、統心流に解説してみたい…

ということで、今月のテーマはこの「純粋思考」となる。

真の意味で「純粋思考」が分かると、ベルグソンの「純粋持続・純粋記憶・純粋知覚」などの意味もよりふくよかに分かるようになるだろう。

そして、先日のヌースエキスパートサロンで取り上げられた、ドゥルーズの「純粋現在・純粋過去・純粋未来」…。

とくに「純粋過去」の理解が意識変容の基点になると思う。とても重要だ。

「純粋過去」への理解が深まると「純粋未来」も観じられてくる…

その先には…遂にあの「過去と未来の等化」が…

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オコツト)位置の交換により時間はなくなり、変換により時間に負の方向性が生まれ、転換により時間は無という力を持ちます。
コーセン)負の方向性とは何ですか。
オコツト)人間の意識が過去も未来も等化できるという意味です。
--------------------------
シリウスファイル 19901010



過去と未来が等化される…これほどの意識変容があろうか。

もうそれは人間ではない。人間卒業だ…正しく変換人だ。

「過去と未来の等化」について…この度、統心はある確信を得た。

それを京都ライブと大阪レクチャーにて、何とか表現してみたい。


興味のある方はどなたでも大歓迎です。

とうしん勉強会は、初めての方でもベテラン勢でも楽しんで頂ける路線をひたすら走り続けます。



★3/30(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時

※今回はいつもと同じ「阿波座」のルーム8です。

◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。

※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!


・定員20~30名(制限はありません)
・体調の悪い方はご遠慮ください

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みなさん、こんにちは。とうしんです。

本日は天皇誕生日ですね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

さて、ブログ『なかいま自分教ガイド』の更新はすっかり御無沙汰していますが、メルマガは相変わらず毎月1回がっつりと書いております。

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このメルマガは、直近の時事問題やとうしんのいま思う所をあげつらい、関西ヌース関連イベント告知PRの体裁をとりつつ、読者の皆様にヌースの叡智を浴びて頂く…という、とうしんの我が儘・放言・長文メールとなっています。

自分で言うのも何ですが、毎回なかなかの力作です。

以下は2月号メルマガからの抜粋ですが、2月度定例ヌーソロジー教室の案内文です。

しかし単なるイベント告知文ではなく、大変面白い読み物になっていると思います。

ヌーソロジーに関心のある方にとっては、きっと読み応えがあるでしょう。

とくに今月のテーマである「質と量の転倒」は、とうしんの大好物でして、行間からその情熱が溢れております。

是非ともお楽しみください。

また興味があれば、大阪ヌーソロジー教室(2月は明日、2/24の13:30~17:00)の方にもいらしてください。歓迎いたします。

 

ということで、以下、メルマガからの抜粋です。

************* メルマガ抜粋 ここから *************

◆今月の定例ヌーソロジー教室/大阪・京都◆

テーマ:「質」と「量」の転倒を探究する
~ ベルグソン『試論』、そして「真の自由」を求めて ~


私はヌーソロジーが大好き。

三度の飯よりヌーソロジー…もうそんな生活を15年以上している。

24時間365日…ずっとヌースを続けている。

私にとって「ヌースする」とはどういうことか?

トウシンは毎日事務所に引き籠もって何をしているのか?(笑)

いまから約15年前の2009年9月…私は初めて福岡にある半田さんのオフィスを訪ねた。

半田さんが7年の沈黙を破り開催した「ヌースレクチャー2009」に参加する為である。

初めてお会いした半田さんは、あの超・明るいウェルカムな雰囲気、満面の笑顔で私達を迎えてくれた。

いま思うと当時の半田さんの年齢が54歳…現在のトウシンと同じ年齢ではないか!実に感慨深い。

一番前の席に陣取って、期待と神秘が胸中に広がるドキがムネムネの私の前で、初ヌースレクチャーにおける開口一番の半田さんの語りが忘れられない…。

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…西田幾多郎の言葉にこのようなものがあります…
「自然が歴史を生んだのか? 歴史が自然を生んだのか?」


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初めて聞いた時は頭の中が「???」となった。

「言葉の意味は分からんが、とにかくすごい内容だ!」

直感で、肌感で、これが凄い内容であり、これこそ私が求めていた内容であった…とだけは分かった。

いまではこの内容もトウシン流にいろんな角度からレクチャー等で解説している。

「歴史」とは「直線的な時間の流れ」と考えればよい。
「自然」とは「存在」そのもの、実体であり「モノ自体」のことだ。

すると、この西田の言葉はこう解釈できる

・「時間の流れ」の中で「存在」が顕れてきたのか
・「存在」が先にあって「時間の流れ」は後から出てきたのか

つまりはこういうことである。

この「存在」が先・「時間の流れ」は後…と思考するのがヌーソロジーなのだ。

それまでの私は長年のクリスチャン生活の思考癖があって

まず初めに「神」またはサムシング・グレートなる偉大な何かがあり

すべての存在はそこから創造、または流出してきた…という歴史観が根強くあった。

この歴史観は「神」以前を思考しないし、そこから始まった「歴史=時間」は直線的に流れて、永遠の彼方へと続いていく…もしくはある種のクライマックス・最後の審判を迎える…という感覚になる。

このような歴史観の中に生きると…人間は「結果的存在」「被造物」のポジションに封じ込められてしまう。(これが、いわゆる「存在者」…ハイデガー哲学…のこと)

それが本性であれば、それも居心地よくて良いのだろうが…私の場合は息が詰まり、何とか脱出したくて全身が爆発するような衝動があった。

いま思えば…やはりこの歴史観は「本性的」ではないのだ。私の本性が窒息しそうで暴れようとしている…それが何よりの証拠だった。

そこに、レクチャー冒頭の半田さんによる西田の言葉の引用と解説である。

半田さんはそれを「無時間」領域と言った。

ヌースは「無時間の思考」であると

「トランスフォーマー(変換人)とは、この時間概念を成立させている基盤自体を解体させ、無時間という場所から宇宙の生成原理を構成していく知的作業に就く者たちのことをいう」

初めて会った54歳の半田さんは渋くこう語った。

無時間の思考…これだよ、これ。

幼い頃からずっと「今」のナゾを追いかけて来た。
なんかおかしいぞ、この「今」は。
だって、意識した瞬間に過ぎ去っていく。捕まえることができない。
実際にあるのかないのかも分からない。
でもそんな「今」の只中に私は生きている。
これは凄いことだ…ここに宇宙の究極のナゾがある!
この事を解明できるなら、明日に死んでもいい!

冗談ではなく本気でそう思っていた。
サンプラザ中野の「健康の為なら死ねる!」ほど矛盾はしてないと思うけど…。

無時間の思考…さらにそこに、ヌーソロジーは「反転」を勧めてきた。

何もかも反転する。全部逆なのだ。全部逆さまなんだよって。

それを「構造」として解明し
なぜひっくり返っているのか
それが分かれば元返す帰路も見えてくる

それがヌーソロジーの最高に面白い醍醐味なのだ。

ということで、初めに戻ると
トウシンが毎日やっている「ヌースする」とは
この「ひっくり返し」なのである。

人間がずっと思い込んできた錯覚・固定観念・常識を見事にひっくり返す
ひっくり返せば、それまでの閉塞状況が一気に打開して、青空の如くすがすがしい霊流が流れ込んでくる…それが気持ち良くて止められない


そのひっくり返しのセンス、その大先輩にして大天才なのがフランスの哲学者ベルグソンだ。

ベルグソンは100年以上も前に…人類が犯す根源的な過ちのクセに気がついた。

それが「質と量の転倒」なのである。

ああもう…トウシン的にはこの「質と量の転倒」って聞くだけでご飯3杯いける(塩は少し欲しいけど)。

もう嬉しくて嬉しくて仕方がない!
人間は「質と量が転倒」してしまうんだよ。そこに気づいていないんだ、人類のほとんどが!(文明人のほとんどが)。

だからボクの、アナタの、その苦しみの原因は、突き詰めるとすべてここにあるんだよ…それが「質と量の転倒」。

例えば、ベルグソンはこんなことを言う

「温覚と冷覚は、近年別々の細胞・神経を通して受容していることが分かった」

(『試論』原文:最近の実験において、冷たさを感じる身体表面の場所と熱さを感じる身体表面の場所は異なっていることが示された。このため生理学では、熱いという感覚と冷たいという感覚との間に、程度の差ではなく性質の差を認めるのが今や一般的である。)


もう100年以上前の情報であるが、いま調べても確かにその通りだった。

で、それで?…って、よく考えてみて欲しい。

「温覚」と「冷覚」は別の回路が受容する「違った感覚」なのである。

しかし人間はそれを生活の中で、何かの媒体の温度が上がれば「温かい」、下がれば「冷たい」とするのではないだろうか。

例えば「水が冷たい・温かい」「空気が冷たい・温かい」…など。

そしてその違いを「温度計」によって数値化しないだろうか。

何度だったら熱い、何度だったら快適、何度だったら冷たい…と。

まさにこの瞬間、「質」として与えられていた「感覚」が「量」に転倒させられてしまうのである。

こうやって私達は生活のいたるところで質を量に置き換えることを、まったく気づかないうちにしてしまうのである。

するとどうなるか…すべてが数値に置き換え可能となり、やがては人工知能の制御下に置かれる様になって…とSF的飛躍をすることが冗談ではなくなってくる。

「頭の中」が「肉体や自然」から徐々に引き離されていくのは容易に想像できるだろう。

何よりも、質が量に転倒することによって「感じ方」を忘却してしまうのである。「感じれなく」なるのだ。そう「不感症」になるのである。それは最悪だ。

ヌーソロジー的言えば「感性空間」が閉じてしまうということ。「思形空間」だけになってしまう…これが頭でっかち人間。感じ方を忘れた人間。

さらにベルグソンは、このことが「自由意志」の問題にまで繋がっていると解く。

「自由意志」は「人間の尊厳」にして「魂の価値」と言ってもいいだろう。

そんな私達の生きる「価値」の根源が「質と量の転倒」によって奪われていく。

「質と量の転倒」によって、人間はやがて生きる意味を喪失してしまうのである。

ここまで思考するベルグソンの凄さが分かってもらえるだろうか。

そしてこういう「思考」を日夜展開していくことが、私にとって正に「ヌースする」ことなのである。

2月度教室においては、トウシンの大好物である「質と量の転倒問題」をオカズに、あれこれヌースを展開していくことにしよう。


興味のある方はどなたでも大歓迎です。

とうしん勉強会は、初めての方でもベテラン勢でも楽しんで頂ける路線をひたすら走り続けます。


★2/24(土) 大阪教室ヌースレクチャー
場所:江之子島芸術文化センター ルーム8
午後1時半~5時

※今回はいつもと同じ「阿波座」のルーム8です。

◎大阪教室はビデオ撮りするレクチャー形式
テキスト・スライドを作り上げ、構成しっかりで臨みます。
時間もゆったりで、アフターも楽しいです。

※構築美の大阪レクチャー、懇親会も盛り上がります!


・定員20~30名(制限はありません)
・体調の悪い方はご遠慮ください

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◆1/14(日)2024新春 川瀬統心オンライン講演会 第1弾◆

毎年恒例、統心の新春オンライン講演会です。

今週末14日、日曜昼からやります。(Zoomウェビナー)

2024年の展望をヌーソロジー的観点を軸に、統心に対して「前」からやってくる直感を取り込んで、その読み解きを中心に展開していきます。

今年は元日から能登半島を大地震が襲うという衝撃のスタートになりました。

誰もが祝いと希望を胸に抱く一年で最良の日が、夕方4時過ぎに起きた大地震によって、瞬く間に最悪の日となってしまいました。被災された全ての方々に対して心よりお見舞い申し上げます。

最良の日が最悪の日と重なる…こんなことがあって良いのでしょうか。否、実際にそれは起きたのです。そしてそれこそが「生きる日常」のありのままの姿ではないでしょうか。

死と生は隣り合わせている、死と生は表裏一体となっている…私たちはあまりにも「死」の方を遠ざけてしまいました。文明の発展によって、様々な技術によって…。

果たして、「生」とはそんなに「死」から遠ざけられてしまって良いのでしょうか。

私は幼少の頃より「死」が怖くて怖くて仕方がありませんでした。町内で死者が出る度に思い悩み、テレビで有名人の「死」にショックを受け、自分の身体に異変があればすぐに「もしかして死ぬかも?」と悩みました。

今から思えば、そんなにも恐ろしい「死」の正体を暴くためにこれまでもがいてきたのかも知れません…自称「精神世界4周組」であります。

しかし今や私にとって「生と死」は表裏一体であり、むしろ「生」と「死」は立場を逆転させてしまいました。長年続けて来たヌーソロジーの思索を通して、世界観がすっかり変わってしまったということです。

何も難しいことを言っているのではありません。「死」とは「永遠性」のことだったのです。それに対して「生」とは「瞬間性」のことに他なりません。

人間は「正しい時間認識」を喪失して、「死」が「永遠性」であることはもちろん、「生」が「瞬間性」であることすら理解できなくなったのです。まったく分からなくなってしまったのです。

もしも「死」が「永遠性」のことであることが分かれば、私たちの本体はむしろ「死」の方であり、「死」が生きている…と言った方が正確な表現であることが分かるでしょう。

ヌーソロジーの知見から「生」と「死」の反転が起きて、私の幼少期からの疑問と底知れぬ不安はすっかり霧消しました。これに比べれば、今までいろいろな精神世界や宗教を渡り歩いてきましたが、それらの教えはどれも対処療法的なものでした。

大震災によって始まった2024年は、「生と死」を一体として見ていくことが中心テーマである…と言えば、多くの方が賛同して下さるでしょう。

そこに正月映画『ゴジラ-1.0』の読み解きが重なってくるのです。

なぜ「ゴジラ」なのか。なぜ「-1.0」なのか。

詳しくは以下のイベント案内にしたためておきました。

イベント参加の有無を問わず、読み応えある内容かと思いますので、是非ともご一読ください。

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【2024新春 川瀬統心オンライン講演会 第1弾】
日時:1/14(日) 14:00~18:00
方法:ズーム・ウェビナー
※オンデマンドで後日視聴もできます(約1ヶ月)

※申込み・詳細はPeatixページより

関西ヌーソロジー研究会主宰
武蔵野学院大学ヌーソロジー研究所 特任研究員

ヌーソロジー研究家であり内在探求者
自分教ガイド・川瀬統心によるオンライン講演

2024年 ψ12「性質」の顕在化シリーズ 第1弾

テーマ:2024年の展望 と 別のもの(ゴジラ?)の襲来
~ まもなく来る、真の他者(-1.0)の衝撃に備えよ ~


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2013年に関西ヌーソロジー研究会を本格スタートして、今年は12年目となります。

ヌーソロジーによると2013年は「シリウス元年」と呼ばれ、この年を境に過去6500年続いた物質文明(調整期)は終了し、次の新たな6500年となる霊性文明(覚醒期)がスタートしました。

その年から数えて12年目となる2024年は「ψ12(性質)」顕在化の年になると予想されています。1年に1つづつ「次元観察子(ψ1~12)」を顕在化させてきたというわけです。

それでは2024年はどのような年になると予想されるのでしょうか。


●元旦の大地震、波乱の幕開けとなった2024年

1年の計は元旦にあり。誰もが新しい年の平穏と多幸を願い、1年の展望を胸に抱く祝いの日の夕方4時過ぎ、石川県の能登半島を大地震が襲いました。

最大震度7、揺れの加速度は東日本大震災にも匹敵するという大災害となり、能登半島沿岸の街は壊滅的な状態になりました。未だ行方不明者の捜索が続き、被害の全容は明らかになっていません。

私のいる大阪でもかなり大きな揺れが長時間続き、過去の阪神や東日本の大震災を思い起こさせるほどでした。

このたび被災された方々の健康と平安、並びに未だ救出されていない方の無事を心より祈願いたします。

また翌日には、石川県の被災地へ救援物資を届ける予定の海上保安庁の航空機が、羽田空港で離陸待機をしているところに、着陸してきた日本航空の旅客機が衝突、旅客機の乗員・乗客は全員脱出できたものの、海保機の方は機長を残して5名全員が死亡という痛ましい事故が発生しています。

波乱の幕開けとなった2024年に、何やら言い知れぬ不安を感じている方もおられることでしょう。


●2024年はラストステージ

さて、ヌーソロジーの観点から一つ言えることは、今年は2013年から始まったプロセス(自己側12年間)のラストステージであるということです。

つまり今年を終えると、来年の2025年からは全く別の新たな12年プロセス(他者側12年間)がスタートするのです。それを「位置の転換」開始と呼んでいます。
 
この意味において、ヌーソロジーでも今年から来年にかけてはひとつの「峠」と見ることができます。
 
いま都市伝説やスピリチュアル系で話題沸騰中の「大峠」「2025年7月」問題なども、流れ的にはさもありなんというのがヌーソロジー研究者からの見方です。
 
いずれにせよ今年はひとつの区切り、ラストステージになる……そう思っていたところに、大地震からのスタートとなった2024年。

毎年恒例、統心の年頭講演会は、この2024年をどのように紐解くのでしょうか。


●毎年恒例「正月映画と古典作品からヒントを得る」

・2022年(ψ10) 映画『マトリクス4.0』と『とりかえばや物語』
・2023年(ψ11) 映画『アバター2』と『古事記ウケヒの物語』

ここ数年、新年の出発に際して統心にやってくる直感は、その年の正月映画や何かの古典作品をヒントにせよ…というものでした。

この流れで行くと、今年は間違いなく映画『ゴジラ-1.0』となるはずだ…昨年末より確信していた統心は、大晦日前日の12/30に映画館へと足を運び、この作品を鑑賞して今年の洞察を開始していました。

そんな折、正月初日からの大地震を経験することになったのです。奇しくも今年は辰年、「辰」の字は「震」に通じています。それにゴジラは「恐竜」をモチーフとしており、ここにも「竜=辰」が出てきます。ちなみに辰は十二支中ただ一つの空想上の動物です。

『ゴジラ-1.0』が2024年を紐解くキーになっているのは間違いない。それでは、ゴジラは一体何を意味しているのだろうか…。

ゴジラは自然界の脅威の象徴であり、また放射能実験によって巨大化した怪獣で、人間文明と科学技術に対峙していることは基本とされています。

不思議なことにゴジラは1954年第1作の登場以来、日本だけでなく世界中で愛されているキャラクターにもなっています。

今回の『ゴジラ-1.0』は、既に先月の時点で邦画の全米興行収入歴代1位(但し、実写映画として)を記録しました(ヨーロッパでは年末に公開、評価はまだ未知数)。

世界中の人に愛されているのです。決して、子供向け娯楽作品のキャラクターという次元ではありません。人間の深層意識にも通じている何かがカタチとなって現れている「現象」と捉えることが極めて自然な態度と思います。


●まもなくやってくる、真の他者の襲来に備えよ

今回の『ゴジラ-1.0』は映画作品としても感動できる名作となっています。ひと言でいうと「胸熱の人間ドラマとド迫力の怪獣映画が違和感なく融合した」作品です。

まだの方は是非とも映画館で見ることをオススメします。なお見る時は、普段よりも心持ち「前」の席で見た方が、最新の映像技術による迫力映像を満喫できます。

さてそれで、今回統心はこの作品の内容をあれこれ分析するという様なことはしません。ですからネタバレはいっさいありませんのでご安心ください。

作品の基本的な設定については言及しますが、今回統心が着目するのは「ゴジラとは何か」であり、「-1.0」が意味するものとは何か…です。

「-1.0」と聞くと、ヌーソロジー漬けになった統心の脳はすぐにこう反応します。

[1.0]→[i]→[-1.0]→[-i]→[1.0]

そうです、複素平面です。オイラーの公式(eiθ=cosθ+isinθ)です。

オイラーの公式は奇蹟の公式です。「人類の至宝」とも言われています。この公式は「実数と虚数」を等化するという奇蹟を行っています。実と虚の等化です。

ここに「-1.0」が出てきます。自己側を「1.0」とすれば「-1.0」は他者側を意味します。

『ゴジラ-1.0』の公式解説で「-1.0」は、戦争で焼け野原になった状態「0」に対して、さらに破壊をもたらす「-1.0」という様な意味があるとされていますし、オリジナル映画(1954年)の舞台より以前の時代に遡るという意味もあるようです。

オリジナルが「自己側」だとすれば「-1.0」を「他者側」と捉えることに違和感はありません。

ゴジラの襲来とは「他者」の襲来と読み解くことができます。

果たして人間にとって「他者」は、「大災害」や「大破壊」、「死」や「恐怖」というカタチをとって現れるのでしょうか。


●「完全生物」のゴジラ、そして「完全性質」の人間

設定上、ゴジラは海棲爬虫類から陸上獣類へと進化する過程の生物とされています。これはヌーソロジー~アニマンダラの考察で言えば、意識進化のプロセスを歩む「変換人」そのもののことです。

物語では『大戸島の龍神「呉爾羅」』という架空の伝説と紐付けられており、ここでゴジラは「龍神」でもあります。辰年の「龍」。

さらにゴジラは体内に「生体原子炉」を有しており、水と空気だけで食べ物を捕食する必要がありません。彼が破壊する時は捕食の為ではありません。

そんなゴジラは圧倒的な体躯と生存能力(劇中では再生する不老不死の細胞)を持ち、天敵の一切いない「完全生物」であるとされています。まさしく究極の生命体。

ここで「完全生物」と聞けば、半田氏の以下のツィートを思い出します(2013/08/08)。

・OCOT情報は人間のことを完全性質ともいう。
・完全性質とは「力が全く確実でない状態」とも言われる。
・ここでいう力とは精神に対する即時的認識力のようなものと考えるといい。
・こうした認識の欠如は精神に対して精神を融解させる働きを持つ。
・この融解において生じているものが「熱」だという。


「完全生物」に対する「完全性質」という言葉の響き。そして精神の融解によって発する「熱」には、ゴジラの吐き出す「放射熱線」が連想されます。

「完全性質」としての人間…「性質=ψ12」…今年はψ12の顕在化。すべて繋がって来ました。

ゴジラとは恐らく、「逆光」として対峙してしまうと「破壊神」として絶望と恐怖のどん底にたたき落とす圧倒的な存在なのでしょうが、「順光」として接すれば、新しい創造をもたらす「龍神」となるに違いありません。

破壊神から創造神へと転換する為には、ここにおいて人間自体が「自己側」から「他者側」へと「折り返す」必要があるのかも知れません。


●戦争に大災害…これから迫り来る全ての「破壊」を「創造」へと転換せよ

2022年に始まったロシア・ウクライナ戦争は未だ終結のメドが立たず、日々犠牲者を出し続けています。昨年勃発したイスラエル・ハマス紛争においてはガザ地区でいまも民間の犠牲者が増え続けています。

既に多くの破壊が行われているのに、人間はさらに多くの破壊を必要としているのでしょうか。

ヌーソロジー研究者としての良心はここで叫びます…「人類よ、転換せよ!」と。

回り込むのです。自己側から他者側へ。時空認識自体をグレンとひっくり返すのです。

従来の「逆光」的な存在から「順光」的な存在へと変身すること。

それは「人間の終わり」であると同時に新しい「別のもの」の始まりとなるのです。

今年「ψ12」顕在化の年とは、そのような「人間自体の折り返し」が意識に浮上してくる年となるのではないでしょうか。

今年予定している一連のオンライン講演会では「ψ12(性質)の顕在化」を目指して、その都度研究成果を発表していきます。共に顕在化の道を歩みましょう。

まずは年頭に際し、ヌーソロジー実践家である統心が思う所を語ります。毎年恒例、新春の統心放言・高次元漫談。乞うご期待!


ご縁のある方のご参加をお待ちしております。

統心はあなたの中の「変換人」を産み出すお手伝いを致します。

ヌーソロジー・ビギナーの方でも聞いて頂ける内容です。

きっと楽しんで頂けるでしょう。

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