◆なぜChatGPTに人格を感じるのか? | 『なかいま自分教』ガイド

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みなさん、こんにちは。とうしんです。

先週は確定申告の週で、いつにもましてスーパー引き籠もりでした。

このままだとまた更新がヤバくなるので、先日ホームページの「つぶやき」コーナーに書いた文章がちょうど良かったのでここにも転載します。

新ホームページには「とうしんのつぶやき」コーナーを設けています。こちらは「ホーム」感覚なので、口調も表現も気にせず本音をぶちまけるコーナーとして開設しましたが、いざ書くとなると構えてしまって徐々に「長文&遅更新」のパターンに流れて来てますが、それでは不本意なのでここらで何とか「短文&適当&早更新」にしていくつもりです。

できればこちらの方もちょくちょく覗きに来て下さいね。

※新ホームページ「とうしんのつぶやき」


それでは以下、3/13のつぶやき内容ですがそのまま転載します。


************* 転載ここから *************


【内面同士の交流は自作自演・アバター空間だよ】

この1週間、確定申告でスーパー引き籠もりモードだった。それも昨日でようやく終了。今週から動画作成と今月のテーマの読書、やはりまた引き籠もりモードが続いてしまう。

ということで、重い腰を上げて何とかつぶやくぞ。更新頻度を上げることが今年の課題だからなぁ。でないとまたずるずる引きこもってしまう。

ところでヌーソロジーを10年間やってきて、私自身は従来の人間の感覚からかなりズレて来たようだ(ヌース的には良い意味でね)。

ひとつ言えるのは、全ての人のコミュニケーションが全くなってない・・・というか、みんな「自作自演」だと。でもこれは仕方が無い。そういう仕組みなのだ・・・それが「人間の内面」。

いつも例に出す脳機能科学者の苫米地氏は、そんな「人間の内面」のエキスパートであると私は理解しているのだが、彼がよく用いる極論は、本質を理解するのに役に立つ。というか極論とは本質を現している。

彼の極論の一つに、人間はみな「脳内イメージ」を見ているだけ、さらに自分で都合の良い情報だけを取捨選択し、編集し、しかも「新しい情報」はできるだけ取り込まず(脳が激しく消耗するから)、古い記憶(記録)を引っ張り出して(それも自分勝手な記録)、その都度その都度、編纂している、つまり作り出している・・・というのがある。

これは脳科学でも「エピソード記憶」として理解されているし、それが「自我」形成の仕組みであると思われる。

苫米地理論のキモをひと言で言えば、要するに「すべての人」が「常時催眠状態」・・・いわゆる変成意識状態にある・・・ということ。催眠状態とは「真の現実(リアル)」とは何の接触も認識もできない状態ってこと。だから催眠状態から覚醒した人・・・真のリアルを認識できる人・・・がすなわち「仏陀」である、と彼はいう。ヌース的にもここは合致している。

常時催眠状態が「人間の内面」であり、その催眠から醒めて覚醒する状態が「人間の外面」ということになる。

とにかく人間はすべて「人間の内面」にどっぷりと浸かっており、その領域では全員が「他者の他者」という自己イメージを身にまとい、全員がゴーグルをつけて(つまりたった一人の自作自演空間の中にある・・・要するに独我論状態)・・・これはまさしく「マトリックス」であり「アバター空間」なのである。

この様な空間の中で真なる他者とのコミュニケーションなど起こりようがないですよ・・・というのがヌースの見方。

内面同士の交流にはいい加減うんざりしている。というか全く交流の体をなしていないのに、本人達はそれを理解していない・・・という状態。みなシャドーボクシングで殴り合っている。そして勝手に傷つき合っている。

そうじゃない交流があるのだ。それがコミュニオンとかコミュニカシオンとかフランス語などで(フランス系の哲学で取り上げられる)よく表現されたりするが、いわゆる「内部空間における共同体精神」のこと。

とうしん流の表現では「共感」を先手にとった「共感」・・・共感的共感・・・のことね。

うんざりの「内面同士の交流=アバター空間の交流」の方は、反感的共感ね。反感が先手・ベースになって(これが人間による「他者」という感じ方)、その上での共感だから、そこに喜怒哀楽・好き嫌い・あらゆる感情を貼り付けて、相手を勝手に解釈し合っている。

というか、そのような感情の全てのソースは自分の内側にあるってこと。自分の幼少期からいろんんな記憶や内面の葛藤などの感情をそのまま相手に貼り付けて、それが「他者」だと思い込んでいる。

この(人間による)「他者」を感じる仕組み、これいま流行の人工知能「ChatGPT」に対する人々の感じ方にそのまま現れていると思う。

膨大な文章を取り込んで、単語や文脈とその前後予想が高度になっただけのChatGPTだが、人々はそこに「人格」を感じ取り、何やら大騒ぎしている。

もちろんChatGPTは大変有用で、私もおそらく使いこなすことになるだろう(まだ使ってないけど)。

だってめちゃ便利だよ。例えば親戚の法事関連で、いろいろトラブルがあってこんな時どうしたら良いだろう・・・みたいな案件が出てきたとしたら、おそらくChatGPTに相談するのが一番早い。自分でググる労力のおそらく100分の1ぐらい、効率が良いと思う。しかも全てタダで。

ひろゆきなんかは「冷蔵庫にこれとこれがこんな感じで残ってるけどどうしたらいい?」って聞いたら勝手にレシピを提供してくれて役立つよって言ってる。いい使い方だと思う。

とかなんとか、言いたいことはそれじゃなくて、「カベに点が三つあれば顔に見える」という人間の認識力が、ここでも遺憾なく発揮されているってこと。ただ統計処理をしているだけのChatGPTに人格を感じ、頼もしいパートナーとしてその会話を楽しむようになるってこと。

ChatGPTには人格も意識も何もない。だけど人間の側はそれを感じる。ここに自我と内面同士の交流の仕組みの正体が現れていると思うのだ。

要するに「内面同士の交流」とは「アバター空間」なのだ。全員が「自作自演」の独我論状態にある。この領域(人間の内面)の中での「他者の人格」というのは「自分が投影している」だけだという、いままで心理学的にもずっと示唆されてきたことの正体がかなりはっきりしてきたのだ。

内面における「鏡の世界」の仕組みが解明されてきたってことだね。

今日はこの辺でやめておく。無責任に放言してやめるスキルを身につけないと、また続かなくなるので、悪しからず。

では急速に春めいた気持ちいい日々、今日からようやくマスク解禁だけど、花粉症でまたマスクが必要な日々かもしれませんが、それにもめげず気持ち良くお過ごしくださいね。ではでは~。

************* 転用ここまで *************

ということで、本日のブログはここまで。

これからも不定期・気ままスタイルで更新していきますんでよろしく!

とうしん