いわゆる「客観」は存在しない | 『なかいま自分教』ガイド

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世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『なかいま自分教』でした。
『自分教』にたどりつきつつある人が増えていると思います。
そのような方々を応援し、かつ自身の『自分教』を磨き上げる為にブログを書いて行きます。

このところ世界ではギリシャ破綻問題に端を発し、中国株の突然の暴落など日々の経済変動が慌ただしい。日本列島では頻発する地震や火山噴火などがあいつぎ、誰の目からみてもこの島や、そして地球自体がある活動期に入ったのは明らかだ。国内政治では今年2015年は戦後70年という節目でもあり、国防や平和憲法への議論が活発になってきている。現政権が強引に推し進めようとする安保法整備に対して内外の緊張も高まっている。つい先日、渋谷で行われた反戦デモは19歳フリーター女子が発起人となって行われたらしい・・・今まで「ノンポリ」とされたごくフツーの若者達が問題意識を持って立ち上がり、行動を開始したような雰囲気すら感じられる今日この頃・・・(これが真実かどうかは別として)。

・・・などと、らしくない始まりですな、今回は。このブログは政治ブログではありませぬ。お気楽・トンデモ・妄想バリバリの「自分教ガイド」、しかしながら書いてる本人はいたって真面目、超ド真剣です。自分教が目指しているのは世界の転覆!と言っても外界のことではありません。内側の世界です。自分の内なる世界(宇宙)を根底からひっくり返そうとしているのです。新しい思考による認識革命です。部分修正ではなく、180度のひっくり返しです・・・そう「反転」です。

まずひっくり返すのは外在と内在です。外在(外の世界)が幻想で、内在(内の世界)が実体、または実相であると言うのです。

ちょっとここらでハッキリと宣言しなければならないようです。自分教の道を行くものにとってこれは最も根源にあたる部分なので、今日はハッキリ言います。

☆『宣言』 いわゆる「客観」は存在しません。

・・・ついに言うてしもた!そう、「客観」は存在しません。えっ、それってどういうこと?つまり、全ては「主観」ということなの?

(※ここから先は文体を変えてお送りします・・・・・・)

その通り。全ては「主観」である。この世に「客観」、つまり「客観的実在」など存在しない。「客観」とは「見せかけ」である。「主観」の裏返しとして顕れる現象に過ぎない。見せかけの現象としてそれは存在する。しかしあくまでもそれは見せかけなのだ(つまり幻想であるということ)。人類はこのことに「はっきり」と気づかなければならない。このことをデフォルトとしなければならない時に来ている。

私は幼少時からこの世のうさん臭さに気づいていた。おぼろげながら「客観」というウソに気づいていたのだ。もしかしたら世界は「主観」でしかないのではないか。だとすると基本的にオトナ達の言うことは全てウソになる。そしてこのことを明確に直観したのは高校1年の時。以前のブログでも書いたことがあるのだが、物理の時間だった。

初めて学ぶ物理の時間。もううれしくて仕方が無い♪新品の教科書を撫でるだけでもうれしかった。そして最初の授業で出てきたある奇妙な概念に私は衝撃を受ける。

いわゆる「遠心力」とは「見せかけの力」です・・・。

教科書に書かれていたのは確かそのような文章だった。私の頭はその瞬間フリーズした。「???!!!」・・・。わけが分からない。頭がフリーズしてそれ以上考えられない。授業が終わって黒板の先生の所にまっすぐ飛んでいった。「先生、この見せかけの力って何なんですかっ!」

先生からは教科書以上の説明はなかったと思う。結局そのあと一人で考えた。教科書を何度も読み返し、考えに考えた。教科書的にはこういうことだ。実際に生じている力は「向心力」であり、いわゆる「遠心力」はその「反作用」として生じる「見せかけの力」であるということ。

「遠心力」と言うのは当時の子供にとってなじみ深い言葉だった。なぜなら水を入れたバケツを手に持って、その腕をぐるぐる回転させながら「遠心力~~~」と叫んで、バケツの水がこぼれないことを楽しむ遊びをよくやったから。近所の子供達と何の目的もなく自然に集まり、夕暮れまで外で遊んだ記憶が懐かしい。

そんな幼なじみの「遠心力さん」が教科書に出てきて喜んでいたのも束の間、それは「見せかけ」である!とバッサリ斬られたのだ。代わりに「向心力」という始めて聞く、何やら小難しいヤツが登場するのである。その時私は本当に衝撃を受けた。しかし今思えばクラスの中で他に誰もそんなリアクションをする者はいなかったなぁ・・・。

なじみ深い「遠心力」は見せかけ。同じ理屈で、車に乗ってアクセルを踏んだときにシートに押さえつけられるあの「G感覚」も見せかけ。ジェットコースターが落ちるときに感じるあの血の気が引くほど嫌な「フワッ」も見せかけ・・・。

遠心力=見せかけの力

見せかけとは実体ではないということだ。実体は「向心力」とか「加速させる力」が別にあって、「遠心力」や「G感覚」「フワッ」はその反作用として生じる「見せかけの力」。光をあてると生ずる「物体の影」のようなもの。この場合、影は実体でないことは明らかである。

私はこのときこの世の真理を垣間見た気がした。その感覚は幼少時よりおぼろげに感じていた「客観はないのではないか、全ては主観なのでは?」という疑問と即座に結びついた。以来その線にそって30年以上も思索を続けているのである。我ながらよくブレてないなと感心する。

つまり、ふだんこれが現実だ!間違いないっと思っていることが全て「見せかけ」なのではないか?と当時の私は素朴に思ったのだ。「主観的世界の反作用として客観的世界があるように見えている」のだと。そうとしか思えない。その反対はない。「客観的世界の反作用として主観的世界がある」とするなら、これは主観は客観に従属するということになる。そうすると主観の価値は非常におぼろげになる。主観が主体ではなくなってしまう。従属しているのだからそれは主体ではない。疾風怒濤の時期の青少年にとって、これは大変悩ましい問題であった。

「主観が実体で客観は見せかけである」ということが「客観を軽んじている」ことにはなならない。これと「人間中心の環境破壊活動」を混同しないで欲しい。当時は西洋由来の物質的価値観がMAXの時代で環境破壊は目に余るものがあった。食品添加物を気にする人もまだまだ少数派の時代。環境破壊をしていくのはむしろ「客観的実在」を信じる立場、つまり素朴実在論、唯物論的な立場、そこからくる科学技術への盲信が倫理や道理を軽んじる行動につながっていくのである。原発を次々と設置していったのもそうだ。

ここで一旦、話をもとにもどす。

いわゆる「客観」は存在しない。全ては「主観」である。これが自分教の基本スタンスである。ここで「いわゆる客観」は存在しないが、「真の客観」は存在するとだけ言っておく。同様に「真の主観」も存在する。「真の客観」とは「モノ自体(カント哲学)」のことであり、ヌーソロジー的には「ヒトの領域」。ここは「自他一体の意識が実在を編み上げている現場」だが、自分教ではここまで言及しない。いや実践的な観点から言って、このことは頭から外した方がいい。まずは「客観は存在しない、すべて主観」の世界を徹底的に追求し、各自が「真の主観」に到達すべきであると考える。これが前回出てきた「内部空間」だ。「内部言語によって創られる内部空間(自分教)」。「奥行きの空間(ヌーソロジー)」のことである。

客観は存在しない。全ては主観である。えっ、だったらもしかして「100%そう思ったら現実はそうである」ということ?・・・そう、その通りである。あなたがそう思ったらそれが事実、現実なのである。そこに疑う余地はない。

そんなむちゃくちゃな・・・と思うかも知れない。だがそれもそう思うならそうなのである。詭弁のように聞こえるがそれが事実だ。今後自分教ではこの世界をしっかりと探求していく。今まで誰も言えなかったような所まで言及していく。しかしながら同時に自分教の礼儀・作法もしっかりと伝える。ここは口が酸っぱくなるまで強調するつもりである。

そう、自分教には作法がある。さきほど、自然破壊をしているのは「客観不在論者(主観実在論者)」ではなく、むしろ「客観実在論者(素朴実在論・唯物論)」であると喝破した。客観不在論者、つまり主観実在論者とはざっくり言うと東洋の立場である。それに対して客観実在論者は西洋の立場だ。そして科学技術至上主義に陥り次々と環境破壊をしているのはこの西洋的価値観、つまり客観実在論者たちなのである。なぜそういうことになるのか。

客観実在論とは、極論すれば主観が客観に従属することになる。このことによって主観の主体性は失われ、主体は客観世界に投げ出され、客観世界の尺度である「量」によって量られるようになる。量によって量られ比較され優劣をつけられる。やがて全ては物質的価値、つまりお金に還元されるようになる。こういった状況を主体性の喪失、精神や魂の喪失と言っているのである。その結果、自然破壊・環境破壊は当然のこと、魂の価値も見失っているので戦争や隣人を傷つけることも平気。自分の価値を見失うと他者の価値も見いだせない。客観実在論、つまり西洋的価値観が結局何をもたらすのかご理解頂けるだろうか。

主観実在論は、一見すると「客観は主観の影にしか過ぎない」として客観的世界を軽んじているように思えるかも知れない。現実を軽んじるのだから環境破壊にもつながりそうな。だがそうではない。主観実在論者にとって客観は存在せず、全ては主観、つまり自分の内側なのである。だから、目の前の自然環境は自分の世界なのであり、そこにいる他人ですら「我が事」なのである。我が事のように責任を持つ。こういう認識が根底にあるとどうなるか、言わずもがなである。環境破壊や他者を傷つけることなど到底できやしない。

自分教は主観実在論である。そして自分の主観を尊ぶなら他人の主観も尊ばなければならない。これは当たり前である。自分が自分の領域を確保することは他人の領域を尊重することによって担保されるからである。簡単に言えば、他人の領域を侵すなら、あなたもやられますよ、ということ。これが自分教の作法である。

これは国同士の関係にも似ている。国境があり、それぞれ主権があり、内政不干渉が原則となっている。そのようなお互いの違いを認めて尊ぶ関係・・・ここでお互いの立場は対等である。国力の違いなどは客観世界の量的価値観。主観世界においては、それぞれに主権があるのだから主権者同士対等。つまり国の大きさに関係なく各国の王様同士は対等の関係で付き合いができるということである。

自分教を信じる者同士は王様同士が付き合うように付き合う。王族連合である。いや、自分教においては「この全宇宙が主観である」とまで言い切るのだから、各自が宇宙の代表となる。だから宇宙連合である。これこそが真の宇宙連合、真の宇宙時代の幕開けということである。

今回はこのあたりにしておこう。とりあえず自分教では引き続きこの世界をどんどん追求していくことにする。今後更新頻度を上げていくつもりなので是非ともついてきて欲しい。

とうしん

【本日のポイント】
・客観は存在しない
・全ては主観である
・客観が存在するとする「客観実在論」は「素朴実在論」という哲学の立場
・従来の一般的な物の見方はすべて素朴実在論。科学主義もこれに由来。
・客観実在論で主体は価値を失う。主体は比較可能な量的価値に還元され尊厳を失う。
・これが魂の不在、精神の不在、それは環境破壊や戦争につながっている。
・主観実在論では環境や他者も自分の事として捉える。
・また自分の主観は他者の主観を認めることで守られる→これが自分教における作法。
・そして・・・全ては主観なら、100%そう思ったら現実はそうなる!?