自分の価値観について深く知る、それでも迷う。<白山への旅9月2日~5日> | ondalindaზ⋆∞のびのびとしたあなたを生きよう∞⋆✧

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白山最高点である2702m御前峰近くから撮った白山室堂。何棟もある大きな山小屋でした。


白山旅の2週間ほど前から、熊に遭遇したらどうしよう!と熊が気になって仕方なくなりだして、

 

 

熊のことを色々調べたり、考えたりしているうちに、気づいたことがありました。

野山の散策は子どもの頃から好きで慣れ親しんでいたけれど、それは特に母親の生まれ育った環境が大きく影響していました。

奈良県で山に囲まれて川や池がそばにあって、母の実家がそういうところで沢山遊んで大きくなってきたけれど、奈良では最も高い山、大峰山系の弥山に登ろうと思ったことは一度もありませんでした。

結婚してから弥山に登ったのですが、それはパートナーであるこーちゃんの影響です。こーちゃんは大学時代ワンゲル部で、涸沢小屋に行ってみたいと思ったのも、今回白山に登ろうと思ったのも、一緒に登る人がこーちゃんでなかったら絶対に行きたいとは思わなかったと思います。

白山に登ることになったそもそものキッカケも、私が昨年の初春の頃こーちゃんに「白山の麓にある神社が気になるけど、それが明確にどこか分からない」と言ったら、「だったら白山に登ろう。白山山頂には奥宮があるよ」と言われたことから。

何故かつては一度も弥山に登りたいと思わなかったのか、何故こんなに白山に対しても緊張するのか、それらの山は里山じゃないから。

「向こうの方の空が曇ってきたら、川から離れないといけないよ。自分の頭上の雲を見ていては遅い」

「午後の2時か3時までには山から出ないといけないよ。自然をあまく見てはいけない」

私は母にそう言い聞かされ、祖父や祖母からも自然と共生するそういった感覚が当然のように漂っていました。それはどこか「夕方に近づいてくると、いろんなものが出てくるのよ。あっちにひっぱられてしまうのよ」といった現実的な自然界の脅威だけではなく、目には見えないけど漂っている未知の境界線について教えられているようなそういう生きて存在し根付いている昔ばなしのようでした。そういった神話めいたものが自分の中に育っているのだと思います。

春の七草を摘んできて七草粥を食べ、季節のものを野山から頂く。そんな生活が当たり前だった話を随分母から聞いて、機会があればそういうことに実際に自分も触れて、人間にとって里山は暮らしの一部だけれど、熊が生息するような大きな山は人間が入るところではない、そんな感覚が自分には実はあったのだと思いました。

現在は高い山に登るにも便利なアプリがあり、山の装備は発展し、もともとは私たちは自然の一部だから、人間が”自然”に惹かれるのもきっと自然なこと。文明が発展したことで色んなものが便利になり、こういった山にもアプローチしやすくなれば、山に登る人が増えることも、流行ることも不思議ではありません。

けれど、私の中で疑問がつきまとってしまう。フルで歩いて下山が夕方というような、余裕を持たない行程では絶対に山に入りたくないと私自身はとても過敏に感じてしまいます。

こーちゃんがワンゲル部だったのはかれこれ30年前のことなので、その当時からあまり変わらない山への価値観を持っていて、白山も「山小屋に泊まるのが普通」と彼は思っていました。無理をする必要などないなら、山の行動は午前中まででの計画を立てる彼の感覚。だからその時の体調や何かあっても午後の2時くらいまでには、必ず移動は終えることができるという見積もりを立てている。

今回私は足の痛みの心配があって、こーちゃんの腰も心配だったから「お義父さんたちからストック借りよう(山で使う杖みたいなもの)」と提案してストックがあることで倍以上歩くのは楽だと感じたけれど、今までストックを使っておらず持っていないのも、こーちゃんが「ストックを使うことでやはり山へのダメージはその分大きくなるから」と言っていたからでした。

そういった山に対しての考え方や、山での行動はかなり余裕を持たせて過信も無理もしない彼の態度は、私と価値観が似ているのだと思い込んでいました。

けれど、熊のことが懸念されて色々調べたり考えたりしているうちに、自分が何となく感じていることをこーちゃんに話していると、

「なるほど!ともちんは要するに、人間が入ってよいのは里山で、人間が暮らしていないような高く険しい山は無暗に入るべきではない、と思ってる」と言われました。

「ほんまや!それだわ!」と自分のもともと実は持っていたらしい価値観を言葉でまとめてもらって、理解できたことにはスッキリしました。

だから葛藤がつきまとい、神経質になってしまうのかと。

8月に自身でしている内観ワークの講座のテーマは「自分の価値観を理解する」というもの。

「自分にとって普遍的で大切にしたいもの」

「今はそう思っていても変わっていくであろう価値観」


それらについて見直していたのですが、3つのグループの講座時では全く気づいておらず上がっていなかったこの価値観に熊のことから気づいていきました。

では、今回気づいた「人間が入ってよいのは里山で、人間が暮らしていないような高く険しい山は無暗に入るべきではない、と思ってる」という価値観は、私にとってどちらの価値観に相当するかと言うと、両方です。

この思いには、多分変わらない何かがある。それは私にとって普遍的に大切にしたいもの。

同時に、私は、それでも「これが気になる」「これに惹かれる」と、自分の中で出会うべきもの、理由が分からなくともしないわけにはいかないと感じることがあるならば、それには抗わないということがあると思っています。

実際に、白山にも登ったわけですし、次はこの土地に行きたいとか、この山に行きたいとか湧いたらそれに従うだろうと思っています。

だから他者が自分がしたいと思ってしたことに対して、自分にどんな価値観があってもそれはその人にとって大切な何かだったからとしか言いようがないとも思っています。

人がこういう山に入ると自然界においてどうしても壊れていくものがあり、そのスピードを速めてしまうことを、ダメなことだと決めてしまったら、そもそも泰澄さんが開山しなければということまで考えれなくもない。けれど、その時泰澄さんにもそう突き動かされる何かがあり、それだけの修行をして月日をかけてこの山を開山したのだと、こんな遠く離れた1300年後に生きている私でも感じるものがあります。「もともとしなければよかった」というような発想では今までどんなことにおいても何も始まらなかったし、そんなこともまたあり得ない。それが泰澄さんではなくても、誰かがきっといつか白山を開山していたに違いないから。

1人のどんな小さなことでも全体に影響を及ぼし、そういうことの繰り返しで、今の地球の状態や自然がだんだん壊されて深刻な温暖化があり、もはやどうにかできるというレベルではなくなってしまっていても、何かが悪かった始点も何かが良かった始点もないという、「万事塞翁が馬」。
 
そんな感じで泰澄さんのことをぼんやり感じながら、白山を歩いていて、突然降ってきた言葉がありました。

「自分が選んだことの運命を引き受ける」

運命は決まっていないから人は悩みます。ああすれば良かったのかなとか、こうした方が良いのかな、と。

自分が選んだことは自分だけにとどまらず、家族に、友人に、仲間に、他者に、世界に、全体に影響を及ぼしていく。

それをひっくるめてのことかと、単純にそう思いました。

「泰澄さんが白山を開山して1300年が経ち、今やこんなに人が白山に登っていますよ」というその事実をただ受け取ることが、降ってきたその言葉でできた気がしました。
 

白山シリーズはこちらから。

 

 

 

 

 

 

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