こんな流れで林西寺をお参りすることになりました。
「それ以前も、白山に人は入ってはいましたよ。自分たちの暮らしの中でのことです。登ったということではなくて兎を狩りに入ったとかね。白山の道を開いたのは、、白山に初めて登ったのは泰澄(大師)です。」
そんな感じでお話が始まったように思います。
泰澄は682年に越前(今の福井県)に生まれ、その当時白山は越智(おち)山、越智の白山(おち/こしのしらやま)と呼ばれていました。14歳の頃、夢で十一面観音に出会い越智山で修行をするように。その修行中、霊的な啓示として白山山頂の白山妙理大菩薩が貴女の姿で現れ、白山に登るように言われ、山頂登拝を志しました。困難な挑戦の末、山頂に登ると、池の中から九頭竜が姿を現し、泰澄がその姿が本身ではないことを見抜くと、十一面観音にその姿を変えました。こうして、泰澄は養老元年(奈良時代の717年)に登頂、白山を開山しました。
そもそもは神仏混淆(しんぶつこんこう)でした。神仏習合、神道と仏教が融合調和していることを意味しています。
神仏混淆は日本独自の信仰形態であり、仮の姿として現れることを「権現」と言います。
泰澄は養老元年から3年かけて修行をし、白山の神々を感得。
白山の白山三所権現
*大汝峰の神である大己貴神(おおなむちのかみ)は阿弥陀如来にその姿を。
*別山では土着神の小白山大行事は聖観音の姿に。
*そして、泰澄を白山開山へと導いた、白山妙理大菩薩は、みどりが池で九頭竜として現れ、十一面観音の姿に。
泰澄の白山開山から、白山信仰は盛んになりましたが、泰澄の頃は神仏習合、仏教としての宗派もその垣根はなかったようです。神仏習合は明治元年まで続き、明治維新後明治7年に神仏分離の政府からの命令で、かなりの仏像が破棄され、白山関係の寺院も神社になりました。
泰澄は越前(福井)の生まれで、白山開山もそこを起点としていました。白山開山後、平泉寺を建立。当時は霊王山平泉寺でしたが、明治以降は平泉寺白山神社となっています。
白山開山より多くの修行者が集まるようになり、山頂を目指す修行の道、禅定道(ぜんじょうどう)ができました。
越前禅定道(福井):泰澄が開山したときに辿った道だと言われる。平泉寺(現在の平泉寺白山神社)から。
加賀禅定道(石川):白山寺白山本宮(現在の白山比咩神社)を起点に、最も長い行程。
美濃禅定道(岐阜):白山中宮長滝寺(現在は長滝白山神社と長瀧寺に)を起点に進む道。
白山山頂の権利をめぐって、越前、加賀、美濃はずいぶんと争ってきたようです。今回うかがった話をきっかけにこのように文字にするには言葉を正確に調べる必要があったり、確認したいことがいくつかあったので調べながらも書いているのでが、当時の寺院や僧侶たちが争ってきた様子はなかなか酷いなと感じるものがありました。
白山は、かつて越智の白山(そもそもは福井の山という感じかなと思います。)と呼ばれていて、福井の人であった泰澄が開山したときは、神仏習合の意識であったため、泰澄に宗派がなかったわけではないのですが(この宗派が興味深いです。)、宗派という垣根も超えているようなものであったことが分かります。
泰澄が修行をしていた頃は「この山は誰のもの、どこのもの」と争うようなものではなく、禅定道に入る3つの馬場がそれぞれの地にできたのが泰澄没後なので、その後こういった流れがあったのだと思います。
むしろそんな修業や悟りとはかけ離れた執着でしかないような争いは、白山開山や白山の本来の信仰とは言い難いものですね。
とりわけ宗教と政治、利権が絡む話はよくあることだと思うので、驚きはないですが、今回神仏分離で下ろされた下山仏を拝観しながら、哀しみのようなものが胸に染みていました。
林西寺 白山下山仏
こちらのサイトに仏像のリンクがあります。
泰澄が開山をした最初の道(越前禅定道)の拠点となった平泉寺に多くの修行者が集まるようになり、あまりにも集まりすぎたため、比叡山延暦寺に平泉寺は助けを求め、そのことがきっかけで白山は天台宗の山となり、白山寺白山本宮(現在の白山比咩神社)も長滝寺も天台宗の末寺となります。
泰澄の弟子の子孫が林西寺を相伝してきて、天台宗の無量光院として白山信仰を守ってきていたけれど、林西寺は1473年に蓮如上人に帰依して浄土真宗に転じました。
白山を信仰してきた村人たちは、当時天台宗から浄土真宗になったことを深く考えることもないままに信仰してきたのではないか、ということをお話の中で仰っていて、色々と面白いなと思いました。
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![キラキラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/123.gif)
伺った話の流れを調べつつ確認しながらまとめるとこんな感じだったのですが、、こういったことを一通り自分の中である程度知って確認した後に、思ったことは「信仰とはなんだろうか?」ということ。
何も知らないまま白山に登っていたとして、もしタイミングが合えば奥宮で白山比咩神社の宮司さんと日の出を見ながら万歳三唱できるらしいよ~なんてこーちゃんから聞いていたので(ほんまかどうか知りませんが)、由緒ある神社の宮司さんとそういった機会はありがたいなとそれはそれで素直に思っていただろうと思います。喜んでバンザーイってしていた、それも全然ありだと思う。知らなければ知らないことが”私”なのだから。
でも、こうやって歴史をある程度知る機会を持つ流れになって、珍しいこととは一切思わなかったけれど、寺から神社とかどんな感じでどのようにしたのだろうか?僧侶が宮司になったりしたのだろうか?とか(昔は両方をそもそも兼ねていたところが沢山あって特殊なことでもないようですが)。でもだったら、いっそう「信仰ってなに?」みたいな。
それはそうとしても、寺同士も、神社になってからも白山関係の利権の獲得に争い続け、酷いことも沢山して、簡単に言うとドロドロで、、。(前住職さんはそういう言い方はされてません。調べたら普通にこれは史実だろうということが出てきて素直な表現をしたらそんな感じという私の主観です。)
村人はそんな人たちの話をありがたいと思って聴いていて、宗派が変わっていることさえ深く考えることもなく、それはきっと村人は深く考えるほどの知識もなかったし、暮らしの中で余裕もなかったろうから、「ありがたいと言われるものには手を合わせたい」そんな心境も全然おかしなことでもないと思います。
答えは出ないけれど、いろんなことを思って、それをまとめると、このような形で白山から下ろされた仏像を見て感じたのは「哀しみ」でした。
つらかったり痛かったわけではなく、、、いろんなものが詰まっているな、、とそう感じたというか、思い出がいっぱい詰まっているものを見たら、そこにはうれしい思い出があっても辛い思い出があっても、まとめると「どことなく哀しい」「切ない」というような感じだったのだと思います。
何が良いのか悪いのかよりも、いろんな勢力や、その時その世の中で”良いことになっているもの”にひっぱられ巻かれて、流れ流れてこういった歴史の流れがあった、いつもどこでも歴史ってそんな感じ。そして今も人間は歴史を作っている最中。大きなうねりの中で「仕方がなかった。」とも言ってしまいそうなものがいつもどこにでもある。それも分かる。分かるけど、私たちには私たちが知る必要のあるものがあったのだと思いました。
これまでの流れを知って、そしてそれをどんどん自分の中で原点に戻して戻して戻していって、泰澄さんが開山に至った圧倒的な「導かれたからそうした」という、それ以上もそれ以下もない、他にはないその「自分の中心で響いたから」のその一点に私の中で戻れたらいいなと思いました。
誰かを救うとか、何かをどうするとか、こうしてこうなるとか、そういう条件つきのものではない、「そうする他なかった」自分の中でそれほどに何かに向かう強いものは、その人の中で「理由はない」「そうでしかない」というような感覚に違いないと思うから、私にとっては私たち夫婦の中で泰澄さんと出会うことが何か必要だったのかなと思いました。
これを知ったこーちゃんは、「一泊二日では足りない!!甘かった!!」と言い、来年の夏、白山に登る時は、必要なところをいろいろ山頂辺りで行きたいと、山小屋で連泊することになりそうです(笑)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220922/16/tomatottochan/fd/ec/j/o1080060715178171515.jpg?caw=800)
すごく長くなりましたが、興味がふっと湧いた方は読んでもらえたら嬉しいと感じるものかも、、(私が、ですw)と思いました。
来年の夏に登るために、これをまとめておきたいと調べながら書きました。
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