このリンク先読んだら、由来は「七つの大罪」と書かれていて、ギリシアの宗教的思想が由来のようです。
思いの外深かった!けども、男性性の洗練と「ディオニュソスの密儀」からの対の流れで挙がってきている「女性性の洗練→真実の女性性へ」という流れだから、納得です。”メランコリック”という言葉で意識に上がってきたのはこのためかと思いました。
七つの大罪 とは。
この前の段階として、「八つの枢要罪」があるようです。そこにメランコリック(憂鬱)が入っているようですが、八つとは「暴食」「色欲」「憂鬱(悲嘆)」「憤怒」「怠惰」「虚飾」「傲慢」だそうで、「虚飾」は「傲慢」に含まれ、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加されたそうです。
大罪とされているのだなと判り、なるほど、なるほど、ここだな、と思いました。それらの状態は、その状態になった人にとっても周囲の人にとっても心地が良いものではないかもしれない。だからといって、それ自体を罪だとするのは極端すぎるし乱暴にさえ感じます。「罪そのもの」ではない「罪に導く可能性がある」というのなら、「罪」と言葉でくくると呪いになることを明確に考えてはいなかったのかもしれませんが、、気づいていて尚、、、というのも感じられます。
何にしても、まずそれを「罪」だとするならば、何を持って、どこから物事が罪となるのか、、そこから考えさせてもらいたいですね。少なくとも、それを自らまず考えたいものです。
とにもかくにも、かつてそれを「罪」だとした人の意識があった。4世紀とは随分古い頃から。今回取り上げているのは「メランコリック(憂鬱性)」ですが、それが「怠惰」とひとつになるのは、分かりやすいです。憂鬱になると何もしたくなくなるものです。その結果、自分のことを「怠惰」に感じられる。そんな自分をダメだと感じてしまう。そんな自分をダメだと感じた人の意識があったから、それを「大罪のひとつ」とするような観念が生まれ、その観念や価値観がそんなに古くから集合意識のどこかにあるのだとしたら、さらに人の意識の中で「それはダメはものだ。」と強固に育っていきます。
この極端な罪意識を解除していく。
メランコリックから生まれる美や芸術があります。罪でしかなかったら、そんなものから創造性が発揮されるだろうか?
罪でしかなかったら、そこから人に感動する心や、癒しの涙などを生むだろうか?それが勇気や育む力に変わることさえあります。
先日車の中で、音楽を入れていた古いUSBを聴いてみたら、ハイ・ファイ・セットのアルバムが流れてきました。荒井由実の曲を沢山カバーしていたりするけれど、なんだかハイ・ファイ・セットが歌うと同じ曲がよりメランコリックにきこえるな、、そう以前から思っていました。
私は20代、暗~い曲やわかりづら~い曲や、憂鬱だな~という音楽や映画も好きでよく観たり聴いたりしていました。そういった映画などは観た後さして何にも気持ちよくもならず、どちらかというと、「・・・・。」と何とも言えない気持ちになったりもするのですが、味わい深さというのは随所にあって、自分の中のどこかが感動していたり響いていたりする、、、ということがあります。
その時ほど今はそういうものを求めなくなったと思います。それでも、車の中で、「このメランコリックさやっぱり好きなんだよな~。」って思って、、、何故ならそれは、、自分の中の繊細で掴みがたい言葉にならない細か~いところに浸透してくれるから。
女性性特有だと感じるのは、これは男性性の領域からは入れないものだと思うからです。この出所の分からない切なさは、その奥にとても繊細な美を守っているからこその、憂鬱性だと感じます。
分からない憂鬱に入りがちな人には、その人だから気づいたり触れることができる繊細な美や癒しがあったり、だからこそ関わったり入れる領域というものもあります。
”憂鬱に入れること”自体は罪ではない。「怠惰」自体が罪なのではない。そう線引きをして決めてしまうのは楽だということもありますが、それは同時に「考えないで済むから」でもあり、人間から「思考すること」自体を奪うことにしかなりません。
憂鬱になって、何もしたくなくなった時、何もしたくない時、自分と響き合うメランコリックなアートに触れてみましょう。曲だったら数曲でも内側で何かが動くのをすぐに確認できることもあるかもしれません。
それは、メランコリック(憂鬱)からも、創造性(生命力)が静かに湧きたってくることに気づける可能性があります。
そういう時に響きあう音楽や映画、アートなどは、”自分にとってその時響くモノ”でよいです。案外他者からすると、それほど暗くも憂鬱でもないよ、、というモノがヒットするかもしれないですが、何か今自分が持ってる切なさや やるせなさや無気力に、言語化しきれないからこそ、アートが絶妙にそれを見つけてくれるかもしれません。
それは自分一人の考えや思考では見つけ難いような繊細な何かなのかもしれない。それこそがメランコリックの特性だから。
響き合えるメランコリックなアート(音楽、詩、小説、絵画、映画etc)を見つけたら、そこに陶酔する自分と、自分がどんな感覚にそのアートを通してなっていて、どんな風にそのアートを解釈したり感じているのか、、という、陶酔する自分を外側から見ている自分が見えてきたら、、その時もう創造性の中にシフトし始めています。
「今の私はメランコリーというよりは、”鬱”です。」という状態もあるでしょうし、状況は様々なので、「誰でも・・・」という話をしているわけではありません。
それでも、少しでも多くの人がメランコリックでやる気なしになっている自分を自ら責める、、という時間を長く持たずにシフトすることができるようになると、それは集合意識においては作用があり、結局全体を軽くしていき、長く鬱に留まる状態の方たちにも軽くなる方へと影響していきます。あなたのやることに世界への影響がないことなんて、ひとつもないから。
ハイ・ファイ・セットの中でこれは「暗い曲」には入らないと思いますが、これが一番最初に浮かんだので一つシェア。トップ画像の「ひときれの恋」という曲の方がメランコリックだと思います。
私はこの曲を聴くと何故か吉本ばななさんのN・Pという小説を思い出します。内容忘れてしまっているので何故なのかは分からず。
わりとこの作品こそ憂鬱っぽい話に口コミを見ると思うのですが(本当にすっかりどんなのか自分は忘れてしまって)、この曲を思い出すということは、、この作品のメランコリックからも、希望を感じ取っていたのかもしれません。
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