先日の講座中にそんなメッセージを伝えてと受け取りました。
「自分じゃなくてもいいと思ってないか。」というもの。
自分がしたいと思っていることさえ、自分が感じたことの表現さえ、「べつに自分じゃなくてももっとできる人がいるし、、自分じゃなくてもいいんじゃないかな、、、。」って思ってないか?と伝えてと。
真実の光の男性性・真実の父性は、まさかそんな感じなはずはありません。
真実のオリオンのエネルギーというのは、黄金の獅子のようです。絶対王者。あなたの宇宙ではあなたが絶対の王者なので、このあり方は全体の中でも矛盾は生じません。ただし他者を従えて満足するというような小物な発想じゃない。何も縛らなければ何にも縛られない、それが真実の王者です。
殺生丸がその象徴となって出てきてくれたのは、昨年にその真実のオリオンのエネルギーはどんな感じなのかを仲間に聞かれた時、たとえとなる「これ」という存在がいなくて、浮かんだ存在はここがちょっと違うというところがありました。
漫画やアニメでエネルギーを理解するのは入りやすいのです。個性を立たせていたり象徴的な表現が多いから。映画などもエネルギーでダウンロードするのに使いやすいです。
昨年に問いを持って投げたからだと思いますが、時期がきて、「あ、殺生丸だ!」と上がってくれました。
では、どんな感じが真実の男性性、真実の父性(真実のオリオンエネルギー)なのか。
冷酷無情だった殺生丸が初めて他者のために怒ったのは、自分を慕っていた女妖怪の神楽(かぐら)のことを「あの女の死は無駄死にだった。」と敵対していた妖怪に言われたこと。
殺生丸は神楽を慕っていたわけではないけれど、神楽の死は、彼女自身が本当の自由を選択しようとした結果なので、その死に尊厳を感じていたのだと思います。
それに対しての殺生丸の心のセリフは、「無駄死にかどうかは・・・私が決めることだ。」と言っています。
ここで、「神楽自身が決めることだ。」とは言っていない。それは何故か。「神楽自身で決めることだ。」では弱いからです。
最終的にとても弱い立場で亡くなっていった神楽に、「神楽自身で決めることだ。」とは言わないのが、殺生丸の強さです。無駄死ににはさせない。自分が奈落(敵の親玉)を倒すと決めてもいる。
「私の世界で(自分にとってどうでもよいわけではない)誰かの価値をお前が決めるな、それを決めるのは私だ。」という強さです。
「こんなの自分じゃなくてもいいんじゃないか、誰かがもっとできることじゃないか。」そんな風に思っているどころか、他者の分まで引き受けている。それも決して犠牲的ではなく絶対的な強さで。
光の男性性を立てている人はこの気概があります。殺生丸は誰かのために何かをしたいと思っているような存在ではそもそもがないので、執着もなければ、本当に強くて自分に自信があるからこそ自己顕示欲もないため、純粋にこう思いこう言ってることが際どい賭けに勝ち続ける結果になるのでしょうが、
誰かのために何かをしようとしている仕事や活動ですら、「自分じゃなくもいいんじゃないかな。」なんて、その発想は叩き割って下さいという感じです。そんな気持ちで何かができるわけがないからです。
あなたがすることで、あなたじゃなくてもいいなんてことがあなたの宇宙であるわけがない。
王者の自信は、他者の分まで、自分の宇宙では権限があると思っているんです。もちろん執着はないのでそこにコントロールはありません。自信があるからこそ他者にも自由を与えます。殺生丸はりんをいつも助けにいくようになるけども、りんを束縛したことはなく、ずっと好きにしろと言ってきました。
もう一つ、特性として、判断や決断が速く、その決断に対しての結果を怖れない。その決断には「待つ」や「泳がす」というのも含んでいて、そういったものを選択したとしても、その選択の決断が速い。何かのせいにすることがなく誤解されることもどう思われるかも気にしていない。誰に理解されなくても弁解も言い訳もしない。自ら選択したことをするのみ。
高橋留美子さん自身がどのように殺生丸を設定しているかというと、「美麗(人の目にとまるほど美しい)、孤高のキャラ、殺生丸は冷や汗をかかない。」と、ご本人談。
他者から理解されることに意識を使うのではなく、淡々と我が道をいく、孤高のあり方はそういうものだろうと思います。
これは獅子座のテーマでもあります。真実の自己尊厳はその腹力が要ります。
このシーンは最終巻で、ずっと戦ってきた奈落という存在が「わしを倒せば・・・瘴気まみれのわしの亡骸が村に降り注ぐ。」と言い、そうなると村への被害を懸念して、犬夜叉とかごめは躊躇するけども、殺生丸は一切躊躇せず「それがどうした。」と言って奈落を斬るシーンです。
最終巻なので、殺生丸は既に慈悲の心を持っているけれど、それでもこれが殺生丸という感じです。村を気にしているとか気にしていないとかではなく、その瞬間の優先順位が直観的につけれるという感じで、決断がはやく躊躇しない。自分の命がかかっている時もそうだし、かつては人間ぎらいだと公言していたのに、りんと出会っていくらか経ってからは、どんな状況でも基本的にりんを守ることが最優先になり、そこに迷いがなくて行動は超素直です。
歌のエンディング「この命は呪いか愛か」のフレーズで殺生丸が浮かんだのは、りんは殺生丸がいることで守られ続けるけれど、同時に殺生丸といることで危険にさらされ続けてもいて、それがいつも際どい賭けに勝っているという感じだからでした。1ミリのズレで呪いに転じそうな際どさ。
成就にこだわっては決断できない速さでモノゴトを選択しながらも、結果的に成就している。漫画ですけど、漫画だからこそ「これ」という象徴が見つけられます。
呪いは(のろい)とも読むし(まじない)とも読みます。どちらにしても名をつけたり名でくくることはその存在を縛ることにもなります。私たちの名前もそう。では何が呪いとなるのか。陰陽師の話を聞いて、「願って叶わなかったことが呪いとなる」というのはシンプルでとても分かりやすいと思いました。
何が私たちに「叶わなかった」と感じさせるのか。それは願った人が「結果の形」にこだわったから。だからそれ以外の結果であると「叶わなかった」と思い、そこに想いを残し、自分の一部を自分以外のところに置き去りにする。それが呪いです。
執着にならなければ、呪いにはならない。
でも大事なものに対して執着にならないでいるのは人間ではやはり鍛錬が要ります。鍛錬が要るけど不可能ではない。
形にこだわらないということは、形以上の繋がりを見出すということだからです。形を忘れていたりどうでもいいと思っているわけではなく、それ以上のものがあるということです。
一つ前の記事の動画で、「殺生丸とりんの軌跡」が説明されていますが、殺生丸とりんはりんが子どもの頃に出会っているので、恋愛どうこうの次元の関係性ではなく、揺らいだことのない信頼関係という感じです。殺生丸は執着がないからこそ他の存在に基本的に干渉しない。それは子どもであってもそうなので、自分を慕ってついてくるものをそのままにしていたら、りんの絶対的な殺生丸への信頼が彼の心に変化をもたらすことになりました。
奈落(敵の親玉)討伐の後、かつて家族を野党に殺められて人里の方が苦い思い出となっているりんに、人の暮らしもできるようにと、殺生丸は村の長老巫女の楓(かえで)にりんを預け、どのように生きていきたいかをりん自身が選べるようにしました。けれど、何かりんに危険があることを察知した際は(妖怪が村を襲うとか)、村には手を出さずにりんの安全は守っています。
りんは人間で殺生丸は何百年も生きる妖怪なので(殺生丸の人間年齢は19歳で、妖怪年齢は200歳という設定だったと思う)、二人が一緒になることは、りんが絶対的に殺生丸を置いて亡くなってしまうことが明白。
2人の間に産まれた双子が「とわ」と「せつな」と名付けられてるのは、永遠と刹那。寿命の差があまりにでかい二人にとって、一緒にいるのは刹那の時間だけど、繋がりや信じる心は永遠という意味なのだろうな―と。
本当に大切で守りたくても、束縛も執着もない揺るがない信頼関係。
私自身は父が亡くなった後で、生きていた時よりも永遠の意味を肌で感じるようになった、なんかちょっとわかるような、、です。
「殺生丸」というキーワードが上がってから、2週間で犬夜叉のおさらいをしたのですが、漫画を一から読み返すはちょっとしたくなかったので、色んな方が抜粋してあげてくれてる動画などから適当に気になるところを見ました。
動画を適当に観た中で、この動画がお気に入りです。殺生丸が初めて他者のために怒った神楽との最後のシーンが入っています。
一番美しいシーンじゃないかと思う。
こちら犬夜叉のあらすじです。14分でまとめてくださってます。あらすじ知りたい方はどうぞ。
OSHO禅タロット専門ブログを作っています。
79枚を詳しく読み解きしていますので、リーディングの練習等にお役立てください。
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