「この命は呪いか愛か」
4月半ば頃、、ある歌の歌詞のフレーズが突然頭を回りだしました。
もう見終わったアニメの録画の最終回をふとお昼時に改めて見たら、そのエンディングの曲で頭を回りだしました。でも前からそこはマーカーで引かれたように他のところとは違った響きが自分の中にありました。
そういうのはサインなんですよね。
なんの歌かというと、下に動画を貼っています。漫画家、高橋留美子作品の犬夜叉の続編のような半妖の夜叉姫です。この作品はキャラクターデザインは高橋留美子さんですが、作品自体は高橋留美子さんの作品ではありません。「犬夜叉」制作スタッフが続編を作りたいと長年願っていて何度も高橋留美子さんに訴え続けた結果、許可を得て実現したようです。それほど制作スタッフが犬夜叉作品に思い入れを持ったということもあるようです。その辺は割愛。色々ありそうなので。ただ「内容は誰が書いたものなのか」というのは作品を理解するのに重要だな~と思います。
高橋留美子作品と言えば、皆が絶対に知っているのは、うる星やつらだと思います。うる星やつらは1978年から1987年にかけ連載。1978年に「勝手なやつら」でデビューした時、高橋留美子さんはなんと20歳の大学生だったそうです
私が最初に最も好きになったのはめぞん一刻です。小学3年とか4年でした。テレビアニメで見たことがきっかけです。1980年にめぞん一刻の連載がスタート。23歳であの話を書いたのだと知って、「えぇ?!どんな23歳だ!!」とビックリです。
一番最初に買ったCDがめぞん一刻のサントラという(小学校6年の時)私もちょっとマニアックな感じがするけど、姉妹そろって高橋留美子作品が好きだったのか、姉が高橋留美子傑作短編集るーみっくわーるどや人魚シリーズなどを持っていて、私がその次の作品のらんま1/2や、犬夜叉のコミックを持っていました。
私が感じるに、高橋留美子作品の面白さとして、登場人物が良い人であるか悪い人であるかという視点ではなく、個性の方が際立っています。あえて白黒つけたとして、主人公側サイドの人であっても、その個人の個性の方が軸になっていてそれが変態のレベルであるという(個性の際立ちが変態レベル)。
キャラが定まっていない話は、映画でも漫画でも面白くないと私は基本的に感じるのですが、キャラはそれぞれかなり立っている上で、えぐくならないようにユーモアが入っている。話に大きなストーリーがある内容でなくても、登場人物の日常のあれこれを描き続けているだけであっても、何巻も続けることができるのは、登場人物たちがその毎日の関りの中でだんだんお互いの理解を少しずつ深めていっていたり、なんか絆のようのものが育っていっているのは感じられる、その育ち方が自然だから読んでいて入りやすいのかなと思います。
登場人物が生きて自然な育みをしていっている、そんな感じがありそこに読者は共感するのかなと。
と書いていたら、こんな記事を見つけました。
これを読んだ方が、高橋留美子さんがどんな漫画家なのか解るように思います。
『うる星やつら』諸星あたるには「好きだ」と絶対に言わせないと決めていた! 高橋留美子先生に聞いた“歴代人気キャラクター”にまつわる22の質問
高橋留美子インタビュー!『うる星やつら』『犬夜叉』から最新作『MAO』まで。「こえる」をキーワードに作品世界をひもとく!
二つ目のリンクから抜粋。
Q 漫画を描く上で大事にしていることを「読んでいる人が傷つかないことです」と繰り返しおっしゃっています。そう思うようになったのは、どんな理由からでしょう。
A 昔見たアニメで、自分の倫理観と違っていたため勝手に傷ついた、という事がありました。倫理観は人それぞれなので私の一方的な考えです。しかし、自分の物差しは大切にしたいし、キャラの尊厳も大切にしたいです。
「読んでいる人が傷つかないものにしたい。だけど、自分の物差しは大切にしたいし、キャラの尊厳も大切にしたい。」
これだな~と思いました。登場人物誰に対しても丁寧なんですよね。だから愛すべきキャラたちと感じられる。その根本は、存在に対する尊重なんだと思います。「読者」にも「登場人物」にも垣根なくそれがあるのであれば、当然登場人物は本当に存在しているような描き方になってきます。
さて、そんな中で、全56巻という一番長編作品になったのが犬夜叉で、ずっと描きたかった「少年漫画」を描いたのだそう。それまではコミカルな作風だったけれど、コミカル要素は控えてあまりボケない少年漫画を描きたかったそうです。
しっかりとしたストーリーがあるのですが、このキャラだったらどう動くのか、この人生背景だったらどうなのか、キャラを尊重しながらストーリーが作られていったということが今回改めて調べてみて分かりました。なおかつストーリーは細かく決まっていなかった上に、連載中にアニメ化をするには、シーンを伸ばすか、アニメ脚本家たちの力で話を足すかをしていく必要がある。
「犬夜叉」は漫画よりアニメシリーズの方が話数が多くなっています。それは連載にアニメが追い付いてしまうのを防ぐためです。製作スタッフが続編を作りたくなるのは、それほど内容にも関わったからなのだろうと。
(鬼滅の刃などは戦闘シーンがめちゃくちゃ詳細になって尺を伸ばしていますよね?それが美しいからアニメ化で人気がさらに上がったんだと思います。)
漫画の連載開始1996年私は大学1年頃で、2008年で完結しているので、12年間コミックを買っていたわけですが、18歳~30歳と言えば、私自身が自分と社会にアップアップしていた上に二回海外にその間住んでいます。なので、ずっと話に入り続けることができなかった。それを今になって必要があっておさらいしている感覚があります。
まず高橋留美子さんがどんな漫画家なのか、どんなことを大切にして漫画を描いているのかが、自分が感じていることにも関係している気がして、先にそこに触れたかったのですが、
「この命は呪いか愛か」という歌のフレーズが回ったのは「半妖の夜叉姫」という作品。これは「犬夜叉」の続編で、高橋留美子さんが描いた話ではないと前述しました。
「犬夜叉」のアニメは原作にしっかりと基づいている上で、話数を増やしてアニメ化していく必要がった。話の本筋を守る必要があると、脇役のストーリーを充実させることに当然なると思います。あまり主人公やそのヒロインをいじれない。
そんな中で、脇役で一番パンチがあった存在がいました。その存在の娘たちが主人公になっているのが「半妖の夜叉姫」。その二人の娘たちを主人公にしながらでも、実質このキャラのことを描きたかったのだろうなというのが殺生丸。「犬夜叉」の話の中で脇役だけど、人気も出て目立つことになった存在です。
上が犬夜叉。下の少女を抱いているのが殺生丸です。この少女が後に殺生丸の娘たちの母親になります。
殺生丸は前作の主人公犬夜叉の異母兄であり、「犬夜叉」という話の中で、最も成長した存在であり、実質主人公(ヒーロー)より強いという(一応戦いものなので)不思議な立ち位置の存在です。
私が「呪いか愛か」でこの人物、殺生丸について考えさせられる、、ということが始まりました。
犬夜叉と殺生丸の父親は、犬の大妖怪。西国をまとめる立派な大妖怪設定。妖怪だけれど人を愛することができる妖怪で、人間の女性を愛し守ろうとした描写が原作ではなく映画の方で描かれているようです。犬夜叉は妖怪とその人間の女性の子どもで、”半妖”という存在で、殺生丸は犬の純血妖怪。母も犬の大妖怪だから。
半分人間の犬夜叉にあるものは、人間らしい感情。情がある。
殺生丸は純血の妖怪なので、それがない。冷酷無情な存在として登場します。これが漫画56巻の中で最も変化変容した殺生丸のポイントです。登場人物の中で最も成長したと感じさせられる存在です。
ここが「呪いか愛か」で考えさせられる大きなポイントになったのと、最近記事で書いていた真実の父性、真実の男性性(本来のオリオン)を理解するのに殺生丸が一番分かりやすい象徴として上がってくれました。
殺生丸の様子を見ていると、妖怪というよりは、、、ギリシア神話の神様たちを思い出すなぁ、、、、と思ったことがキッカケです。高次元の存在の方が感じ似てるなぁと思いました。
次にどんな感じが真実の男性性、真実の父性、本来のオリオンエネルギーなのか、象徴的な存在として上がってくれた殺生丸がどんな感じで、どんな風に成長していったのかを書いてみたいと思います。
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