面白かったです。一万円札の人の伝記。
わかりやすい文章で、人としての福沢諭吉について興味深く読めました。
『独立自尊 -福沢諭吉の挑戦-』 北岡伸一(2002年) 講談社
中公文庫(2011)のほうにはリビューあります。
「慶応義塾大学」の人なので、イメージ的に裕福なお坊ちゃんの出かと思ったらそうではなくて
九州の下級武士の上のほうの位の家に生まれ、お父さんも早くに亡くなったので
決して裕福ではなく、むしろ身分による縛りを感じていたからこそあの有名な「天は人の上に人を造らず・・・」の文章ができたんですね。ちょうど西洋の文化が入ってきた時代と相まって、努力と挑戦と能力でのし上がって行った上昇志向の方でした。結婚は28歳の時に17歳の人として、50歳まで子供を9人も作っています(ほぼ隔年!)。
とても良いお父さんでもあったようです。全く理想的な生き方ですね。
もともとは10代後半に九州から大阪に出てきて適塾でオランダ語を習い、その後江戸に出て
これからはオランダ語じゃなくて英語だ!と思って、英語を習い始めたそうです。
その数年後にはアメリカに行く機会を得ます。
25歳の時に船でアメリカ、帰国した翌年にヨーロッパ、数年後またアメリカに行きます。
江戸時代末期の20代後半~30代前半に、3回も欧米に行ってるんですよ。語学を武器に。
そして日本が進む道を考え、何もない所から翻訳して広め、(西洋には日本にない概念・仕組みがあった)
英語教室を作った人です。その使命感にはちょっと共感するところがありました。
英語を読めるようになって、英語の書物から西洋の知識・文化を吸収しようという、そんな時代です。
福沢諭吉は1835年生まれ。(覚えました!私の母の100年前くらい)
その人が生きた時代背景というのは大事ですよね。
今年は明治維新150周年らしいです。1868年に福沢諭吉は33歳。
いまNHKでやってる「せごどん」もそうですが、幕末~明治の頃って、知ってみれば興味深いです。
ちなみに福沢諭吉は西郷どんを評価していたようです。
朝鮮半島との関係で見ると、
福沢諭吉は朝鮮半島の近代化を応援していたんですね。
自分の英語教室に、朝鮮から留学生が何人か来るようになっていたし
その中で有名な「金玉均(김옥균)」もいるんですが (むっちゃ優秀な青年エリートだったそうです)
  ~そういえば大学時代に読まされた資料に『金玉均 暗殺事件 김옥균 암살사건 』がありました~
旧態依然な朝鮮王朝が勝ち、改革派が殺されてしまいます。
で、その後はもう諦めたみたいです・・・。
一緒に近代化を目指すのは無理と悟りました。
アジアの近代化を待ってられない、自分たちだけで行こうという「脱亜論」が出るんです。
人の考え方って変わるものです。私もこの年になってわかりました。
福沢諭吉は頭もいいし、外国語が好きだし、西洋文化に接して興味を持ち
新しい時代をいち早く察知し、身分制度を否定し、自由競争を肯定し、教育を重視し、学校を作り、文章を書き、
家庭を大事にし、歩くのが好きな人でした。(弟子を伴って散歩している写真が印象的です)
ああ、なんか途中で、和歌山県人について書かれてた所があるんですが(私が和歌山出身なので)
ちょっと笑ってしまいました。
明治二年、和歌山から福沢を英語の先生に招きたいという招請に対し、
「僕あえて貴国へ対しゴマをスルにあらざれども、これまで諸国の人に交るに、人気の穏やかにして
おのずから自由寛大の風を存し候は紀人に限り候様これあり候」と述べながら、紀州の人の欠点は、
「文教薄うして頼む所なき」ために流されやすいことである。 「英書を読むは甚だむつかしき事業」なれば 
「支那日本の文字すら十分に読めざるひとに にわかに横文を進むは無理」である
と断ったそうです(苦笑)。