初めての韓国旅行(1985年夏) | 韓国語教室 とるめんい川西

韓国語教室 とるめんい川西

2005年から兵庫県川西市で韓国語を教えています。

パスポートに残っている記録によると、
1985年8月29日に釜山入りしているので、8月28日に大阪を出発したようだ。

 

新幹線で小倉、戻って下関…
大学時代は韓国に行くときはいつもフェリーだった。(格安チケットがなかった時代、交通費を浮かせるため)
下関からの関釜フェリーは、夕方5時に出港して翌日の早朝に到着する。

 

初めての韓国旅行の記録、どこかにメモが残っているはずだが
記憶をもとに書いてみようと思う。

 

1985年8月29日 朝到着 釜山 
ホテルは龍頭山公園の近くの「バンド(半島)ホテル」だった。
M先輩の友人(釜山の女性)が手配してくれていた。(20代後半の方)
昼ご飯はチャジャン麺。初めての짜장면... 黒い物が奇妙な味で、決して美味しいとは思えなかった。
(その後、慣れると美味しくなってくるのですが・・・)

 

龍頭山公園とその周辺

 

太宗台の灯台
UN墓地
 ―この2つは釜山外大日本語科の子たちが案内してくれた

 

梵魚寺
海雲台
 -この2つは一日目にチャジャン麺をごちそうしてくれた方が、婚約者と一緒に案内してくれた。

 

釜山駅の方から海雲台までバスに乗ったか、車だったか覚えてないけど
長い距離を走った。道路の土埃がすごかった。この区間の地下鉄はまだ開通していなかった。

 

2日目の夜は海雲台にあるモーテルに泊まった。これも手配してくれてあった。
海雲台に着いた頃はもう真っ暗で、暗い海の前で写真を撮ったのを覚えている。

 

8月31日 慶州へ
釜山から列車で慶州に向かった。
慶州駅前で客引きにつかまった。
タクシーをチャーターして周ることになった。
タクシーの運転手さんがホテルも強引に決めてしまった。
慶州のホテルは予約などはしていなかったので、か弱い女の子2人は言われるままに…。
主要名所の仏国寺と石窟庵は離れているので、タクシーは仕方なかったと思う。雨も降っていた。

 

ホテルの人は私たちをナイトクラブに連れて行った。
韓国語があまりできなかったので、今もあの状況は何だったのかよくわからない。
日本人の女の子が珍しいので、誘って来たんだと思う。
ナイトクラブでは何かショーが行われていて、ウイスキーとフルーツが出て来た。
韓国ではウイスキーにフルーツなんだなとその時に知った。
大人の娯楽といった空間だった。特に変な雰囲気ではなかった。
少し怖かったが、無事に帰ることができた。

 

朝ご飯つきだった。
白い陶器の器で豪華だった。
ずらっと並ぶ韓定食は初めての経験だったかもしれない。

 

チェックアウト時に聞いた値段に私たちはショックを受けた。
表情にも表れてたのだろう。ホテルの人も若干すまなさそうな顔をした。
せめてもの慰めに?慶州駅まで車で送ってくれた。

 

9月1日~5日 ソウル

 

慶州からソウルへ
慶州でぼられた(?)のもあり、
慣れない旅に疲れていた私たちは、すぐに先輩のOさんに連絡した。
きっと助けを求めるような声だったのだろう。

 

Oさんのご自宅である「狎鴎亭(アプクジョン)洞 現代アパート」に、一晩泊めていただけることになった。
語科の先輩ではあるが、お会いするのは初めてだった。
Oさんは同じく先輩のMさんと結婚されて、赤ちゃんがいた。
近くのスーパーにも連れて行ってもらった。
和食の手料理もごちそうになり、本当にありがたかった。

 

Oさんは高麗大の日語日文学科で講師をしていたので、後日
高麗大の学生さんたちと会わせてもらうことになった。

 

翌日からはソウルの今はなき伝説の韓式旅館「雲堂旅館」に連泊した。
理由は安かったから。ちょうど昌徳宮の門の前の路地にあった。

 

「雲堂旅館」をネットで検索すると出て来たサイト…
http://ochiel.sakura.ne.jp/shasinkan/kankoku/index.html
私が行ったのはこれらの写真よりもう少し後の時代かな。

 

ソウルで行ったのは、一応旅行ガイドで(骨董品街)と載っていた仁寺洞ストリート。
今と変わらないあの位置にあった。でも何だか、私たちが買うようなものはなかった。
灰色の街、地味な街だった。

 

あとは景福宮かな。
昌徳宮はその当時は一般立ち入り禁止だった。

 

南大門市場と

 

明洞やロッテ百貨店にも行った。
ロッテリアに入って食べたハンバーガがホッとする味。
韓国料理はもういいって感じだった。
喫茶店に入っても注文取りに来ないで向こうでおしゃべりしてるし
呼んだら呼んだで、ガムをくちゃくちゃしてるような感じだし
出て来たコーヒーは「湯」と「インスタントの粉の入った入れ物」「クリームの粉の入った入れ物」

 

他に行くあてもなく、食べ物の匂いも嫌で、無視されることもあるし、
たしか予定より日程を早めて帰国した。

 

もう一人連絡してあったY先輩には電話で、早めに帰国することになった旨を伝え、
会わずに終わった。

 

9月5日に出国スタンプがあるので、
ソウルには実質、O先輩のお宅でお世話になった日を除くと、
雲堂(ウンダン)旅館で3泊したのかな?
まる3日あれば、当時は十分だった・・・。

 

みろりちゃんとも最後の半日は別行動だった。
友達でも旅行するとケンカするっていうヤツ。


 

・・・・

 

30年前にそんな旅行をしてました。
20歳だったからね、若いから仕方ないです。
よく頑張ったんじゃないかな。

 

韓国に行って、嫌になる人と、好きになる人がいるって、よく言われてましたが
私はどっちでもなかったです。保留、かな? 
文化の違いに逃げ帰ったっていうのも当たってます。

 

でもその翌年も行くんですよね。
毎年夏に、お金を貯めては韓国に通うことになります。
翌年(86年)も、その翌年(87年)も、その翌年(88年)も行きました。88年は短期留学でした。


 

・・・・・

 

(番外編)

 

1985年、初めての韓国旅行。
帰りの便は「初めての飛行機」だった。ドキドキ…
ソウル金浦空港から、大阪伊丹空港までの大韓航空。(仁川も関空もなかった)

 

私たち2人は「搭乗ゲート番号」というのをわかっていなくて
誰もいない出国フロアの適当な所に座り、ここでいいのかな~?と不安げに話し合った。
案の定、時間の直前になってKAL職員さんが慌てて探しに来てくれて、走って移動した
っていうのも、初・飛行機の失敗談として記憶に残っています。