川崎で住んでいた時は、
近所に「川崎市国際交流センター」という立派な建物があって、
そこで私は会議室を借りて韓国語講座を始めたのでしたが、
もう一つ、重要な役割をしてくれたものがあります。
それは「掲示板」の存在です。
国際交流に関することや催しのお知らせ、あるいは
外国人の友達が欲しい人は、センターにハンコを押してもらって、
誰でも貼り紙をすることができたのです。
この掲示板は本当にありがたいものでした。
一般市民が無料で貼り紙ができる場所って意外とないんです。
官公庁のチラシ置き場なら山ほどありますが。
この掲示板のおかげで、ご近所で「人と人との繋がり」をたくさん得ることができました。
掲示板がなかったらどうなっていたでしょう。
人と出会えなくて、何も始まらなくて、
もしかしたら韓国語講座も始められていなかったかもしれません。
最初、韓国語の勉強を再開しようと思ったとき、
私が貼った「日-韓 エクスチェンジ募集」のチラシ。
1999年のことでしたが、このときに知り合った韓国人主婦のKSさんは
だんな様の仕事で日本に来たばかり。
慣れない土地で日本語もわからず、赤ちゃんを抱えて一時はうつ状態になりかけたそうです。
(今は想像もつかないですけどね^^。もう日本語は私よりもよくしゃべるし…(マジで。)
KSさんと私は定期的に会って、いい友達になりました。
お陰でその年の韓能6級にも合格できました。
私が大阪にUターンした今でもつきあいがあります。
この間は大阪まで遊びに来てくれました。一人では初めての旅行だったようです。
初めて新幹線に乗って…。
一生懸命異国の地で生きてきた自分へのご褒美と言ってました。
最初に知り合いになった日本人が私だったので、
最初に見たものを親と思うような感覚で(?^^)慕ってくれているのかな?ㅋㅋ
あ、彼女が私を「オンニ」と呼んでくれた最初の人です。
2000年から国際交流センターの会議室を借りて、
韓国語講座を始めてから、
センター職員さんの紹介でJSさんと知り合いましたが、
彼女もとてもいい人でした。
JSさんを今度は私がKSさんに紹介して、3人でよく遊びました。
私と韓国人のJSさん、KSさんは、絶妙なコンビだったと思います。^^
인복이 많다 と言われることがありますが、自分でもそう思います。
[人福]が多い
イン'ポギ マンタ
2001年には「エクスチェンジ募集」の貼り紙を見て
私の方から連絡したJSMくん。
韓国では日本語学科の学生で、日本に来て日本語学校に通いながらより一層ブラッシュアップを
はかっていました。でもなかなか日本人と知り合う機会がなかったといいます。
彼と知り合えたことも私にとってはラッキーでした。
私がしている講座に遊びに来てくれて、いろんな話をしてくれました。
気さくで明るく、なかなかのイケメンだったので、
授業のあとは「あ~あんな弟がいたらなあ…なんて。息子ですよね~」という声が聞こえました^^。
(今思えば、韓流ブームを予感させる言葉だったかも。)
国際交流の集まりに行っても、「西洋人」ばかりがもてはやされて、
自分たちは蚊帳の外だったと嘆いていた彼。
今は少しは状況は変わったと思いますが、
そういう話を聞くにつれ、
韓国語を勉強している日本人と
日本に来ている留学生、研修生、その他韓国人との「出会いの場」が必要だと感じたものです。
私たちは生きた韓国語を習い、
彼らは日本人の習慣や生活を学び、
お互い助けあえるからです。
JSM君が帰国する前に、元ルームメートのCJK君を紹介してくれましたが、
CJK君も優しく真面目な性格で、時々講座に遊びに来てくれ、
私の仕事の補佐をしてくれました。
そうそう、彼はソン・シギョンに似ていると
韓国の友だちに言われてたそうです。(私はえ~!と否定したけれども、最近似てると思うこともある)
難しい文章が好きだった彼とは、
週に一回、日本の新聞の社説を韓国語に翻訳しあって、
訳し方をお互い検討しながら勉強しました。
CJK君は私を「ヌナ」と呼んでくれた最初の人でした。
またパンマル(ぞんざい語)を強制的に(?)話すよう指導してくれて、感謝しています。
(私は本を読んで韓国語を勉強したタイプなので、パンマルは知っていても使うのが難しかった。)
あ、JSMくんは知り合いの日本人も紹介してくれました。
延大語学堂の卒業生で、今はコリアンフードコラムニストを名乗り
「ハングル練習帳」という本も出版しているH田氏ですが、
何度か彼を中心とした飲み会に参加して(in 新大久保)、
仲間の輪が一層広まりました。
そこで知り合った韓国人のWKRくんは
ワーキングホリディビザで来ていましたが、
アルバイト先の人間関係はかなりキツそうで(イジメみたいな)、
やはり、韓国語を勉強している日本人と
日本語を勉強しに来ている韓国人との出会いの場が重要だと思いました。
私たちのような場(韓国好きが集まっているところ)を知らないと、
日本人の友達が一人もできないまま、楽しい思い出一つもなく
帰国してしまうこともありえそうです。
上記の男の子3人が帰国したあとは
大韓商工会議所から派遣されていた研修生4人組が登場!(2003年)
彼らと知り合ったのも、このうちの一人が国際交流センターの掲示板に貼っていた
「日本人の友だち募集」のチラシがきっかけでした。
懐かしいですね~。
センターのロビーで講座の受講生たちと交流会を持ったり、
高尾山にハイキングに行ったりしました。
さて、こちらに引っ越してきて、また一から教室を構えて、
私も韓国人の友達が欲しかったけれど、ずっといませんでした。
川西には国際交流センターもないし、市民掲示板のようなものも皆無。
それなりに努力は少しはしたのですが、
すぐ音信不通になるというか、縁にはなりませんでした。
基本的にメール送っても返事が来ないと、それ以上追いかけませんし。
韓国人の知り合いが欲しいな~と思いながらも、2年が過ぎました。
と、今年の3月、受講生が韓国人の男の子を教室に連れてきてくれました。
聞くと、「英会話の○○」で同じクラスだそうです。
名前をCYJくんといいます。
彼は日本語教室に通っていますが、もっと幅広い一般の日本人と知り合うために
英会話学校に通い始めたのだそうです。
日本人と知り合うために英会話教室とは!
でもその行動は当たっていました。
そこで運良く韓国語を勉強しているうちの受講生と同じクラスになったということです。
CYJくんも非常に真面目で好感の持てる青年です。
うちの教室に来て、一生懸命メモをとって、日本語を勉強しています。
お互い会話の練習になるので、受講生の方にとっても良いことです。
私がいくら韓国語を話すといっても、ネイティブではありませんので・・・。
それに彼がまだ日本語があまり上手でないのも、
何とか韓国語で意思疎通をしようと努力するので、受講生にとっては良いと思います。
そしてまたCYJくんから友達を紹介してもらい、またその友達が紹介され、
わが教室では韓国人のお友達の輪が徐々に、
急速に広がりつつあります。
縁って本当に不思議ですねえ。
近所に「川崎市国際交流センター」という立派な建物があって、
そこで私は会議室を借りて韓国語講座を始めたのでしたが、
もう一つ、重要な役割をしてくれたものがあります。
それは「掲示板」の存在です。
国際交流に関することや催しのお知らせ、あるいは
外国人の友達が欲しい人は、センターにハンコを押してもらって、
誰でも貼り紙をすることができたのです。
この掲示板は本当にありがたいものでした。
一般市民が無料で貼り紙ができる場所って意外とないんです。
官公庁のチラシ置き場なら山ほどありますが。
この掲示板のおかげで、ご近所で「人と人との繋がり」をたくさん得ることができました。
掲示板がなかったらどうなっていたでしょう。
人と出会えなくて、何も始まらなくて、
もしかしたら韓国語講座も始められていなかったかもしれません。
最初、韓国語の勉強を再開しようと思ったとき、
私が貼った「日-韓 エクスチェンジ募集」のチラシ。
1999年のことでしたが、このときに知り合った韓国人主婦のKSさんは
だんな様の仕事で日本に来たばかり。
慣れない土地で日本語もわからず、赤ちゃんを抱えて一時はうつ状態になりかけたそうです。
(今は想像もつかないですけどね^^。もう日本語は私よりもよくしゃべるし…(マジで。)
KSさんと私は定期的に会って、いい友達になりました。
お陰でその年の韓能6級にも合格できました。
私が大阪にUターンした今でもつきあいがあります。
この間は大阪まで遊びに来てくれました。一人では初めての旅行だったようです。
初めて新幹線に乗って…。
一生懸命異国の地で生きてきた自分へのご褒美と言ってました。
最初に知り合いになった日本人が私だったので、
最初に見たものを親と思うような感覚で(?^^)慕ってくれているのかな?ㅋㅋ
あ、彼女が私を「オンニ」と呼んでくれた最初の人です。
2000年から国際交流センターの会議室を借りて、
韓国語講座を始めてから、
センター職員さんの紹介でJSさんと知り合いましたが、
彼女もとてもいい人でした。
JSさんを今度は私がKSさんに紹介して、3人でよく遊びました。
私と韓国人のJSさん、KSさんは、絶妙なコンビだったと思います。^^
인복이 많다 と言われることがありますが、自分でもそう思います。
[人福]が多い
イン'ポギ マンタ
2001年には「エクスチェンジ募集」の貼り紙を見て
私の方から連絡したJSMくん。
韓国では日本語学科の学生で、日本に来て日本語学校に通いながらより一層ブラッシュアップを
はかっていました。でもなかなか日本人と知り合う機会がなかったといいます。
彼と知り合えたことも私にとってはラッキーでした。
私がしている講座に遊びに来てくれて、いろんな話をしてくれました。
気さくで明るく、なかなかのイケメンだったので、
授業のあとは「あ~あんな弟がいたらなあ…なんて。息子ですよね~」という声が聞こえました^^。
(今思えば、韓流ブームを予感させる言葉だったかも。)
国際交流の集まりに行っても、「西洋人」ばかりがもてはやされて、
自分たちは蚊帳の外だったと嘆いていた彼。
今は少しは状況は変わったと思いますが、
そういう話を聞くにつれ、
韓国語を勉強している日本人と
日本に来ている留学生、研修生、その他韓国人との「出会いの場」が必要だと感じたものです。
私たちは生きた韓国語を習い、
彼らは日本人の習慣や生活を学び、
お互い助けあえるからです。
JSM君が帰国する前に、元ルームメートのCJK君を紹介してくれましたが、
CJK君も優しく真面目な性格で、時々講座に遊びに来てくれ、
私の仕事の補佐をしてくれました。
そうそう、彼はソン・シギョンに似ていると
韓国の友だちに言われてたそうです。(私はえ~!と否定したけれども、最近似てると思うこともある)
難しい文章が好きだった彼とは、
週に一回、日本の新聞の社説を韓国語に翻訳しあって、
訳し方をお互い検討しながら勉強しました。
CJK君は私を「ヌナ」と呼んでくれた最初の人でした。
またパンマル(ぞんざい語)を強制的に(?)話すよう指導してくれて、感謝しています。
(私は本を読んで韓国語を勉強したタイプなので、パンマルは知っていても使うのが難しかった。)
あ、JSMくんは知り合いの日本人も紹介してくれました。
延大語学堂の卒業生で、今はコリアンフードコラムニストを名乗り
「ハングル練習帳」という本も出版しているH田氏ですが、
何度か彼を中心とした飲み会に参加して(in 新大久保)、
仲間の輪が一層広まりました。
そこで知り合った韓国人のWKRくんは
ワーキングホリディビザで来ていましたが、
アルバイト先の人間関係はかなりキツそうで(イジメみたいな)、
やはり、韓国語を勉強している日本人と
日本語を勉強しに来ている韓国人との出会いの場が重要だと思いました。
私たちのような場(韓国好きが集まっているところ)を知らないと、
日本人の友達が一人もできないまま、楽しい思い出一つもなく
帰国してしまうこともありえそうです。
上記の男の子3人が帰国したあとは
大韓商工会議所から派遣されていた研修生4人組が登場!(2003年)
彼らと知り合ったのも、このうちの一人が国際交流センターの掲示板に貼っていた
「日本人の友だち募集」のチラシがきっかけでした。
懐かしいですね~。
センターのロビーで講座の受講生たちと交流会を持ったり、
高尾山にハイキングに行ったりしました。
さて、こちらに引っ越してきて、また一から教室を構えて、
私も韓国人の友達が欲しかったけれど、ずっといませんでした。
川西には国際交流センターもないし、市民掲示板のようなものも皆無。
それなりに努力は少しはしたのですが、
すぐ音信不通になるというか、縁にはなりませんでした。
基本的にメール送っても返事が来ないと、それ以上追いかけませんし。
韓国人の知り合いが欲しいな~と思いながらも、2年が過ぎました。
と、今年の3月、受講生が韓国人の男の子を教室に連れてきてくれました。
聞くと、「英会話の○○」で同じクラスだそうです。
名前をCYJくんといいます。
彼は日本語教室に通っていますが、もっと幅広い一般の日本人と知り合うために
英会話学校に通い始めたのだそうです。
日本人と知り合うために英会話教室とは!
でもその行動は当たっていました。
そこで運良く韓国語を勉強しているうちの受講生と同じクラスになったということです。
CYJくんも非常に真面目で好感の持てる青年です。
うちの教室に来て、一生懸命メモをとって、日本語を勉強しています。
お互い会話の練習になるので、受講生の方にとっても良いことです。
私がいくら韓国語を話すといっても、ネイティブではありませんので・・・。
それに彼がまだ日本語があまり上手でないのも、
何とか韓国語で意思疎通をしようと努力するので、受講生にとっては良いと思います。
そしてまたCYJくんから友達を紹介してもらい、またその友達が紹介され、
わが教室では韓国人のお友達の輪が徐々に、
急速に広がりつつあります。
縁って本当に不思議ですねえ。