
(20年ぶりに延世大学校図書館正面にかけられた、李韓烈くんを描いた絵)
「ハンニョリを返せ!」
今からたった20年前の1987年6月8日、民主化を求める学生デモとそれに対抗する機動隊の催涙弾が日常茶飯事だった頃、構内デモに続く正門前デモの際に、催涙弾に当たって亡くなった延世大生です。
私と同世代。
私と同世代。
時代が変わり、今の韓国の学生はどう感じるでしょうか。ふ~んって感じかな。
それはそれで仕方ないと思います。
それはそれで仕方ないと思います。

(1987年6月 ソウル市庁前)
翌年にソウルオリンピックを控え,全斗煥(チョン・ドゥファン)が、
「国民の直接選挙は不可=独裁を続ける」と言い出したことに、それまで我慢してきた国民が激怒。
李韓烈くん(延世大生)と、それより少し前の朴鐘哲くん(警察で拷問死・ソウル大生)
の事件をきっかけに、全国的な規模でデモが広がりました。
学生ばかりではなく、一般市民も参加しての大きなうねりでした。
の事件をきっかけに、全国的な規模でデモが広がりました。
学生ばかりではなく、一般市民も参加しての大きなうねりでした。
これは日本のニュースでも連日大きく報道されていました。
毎日ドキドキしながらテレビを見守りました。
なにかが変わるかもしれない。
それともまた銃で市民を撃つ?まさかね・・・。
毎日ドキドキしながらテレビを見守りました。
なにかが変わるかもしれない。
それともまた銃で市民を撃つ?まさかね・・・。
それまでは徹底的な弾圧をしてきた軍事政権も、翌年のソウルオリンピックを控え
国際イメージを考慮してか、ついに折れ、→6.29民主化宣言。
大統領は国民が直接選挙で選ぶことになりました。
国際イメージを考慮してか、ついに折れ、→6.29民主化宣言。
大統領は国民が直接選挙で選ぶことになりました。
韓国が徐々に民主化されていくのはこれ以降です。
今は当然のようにある言論の自由も、こうして勝ち取ったのでした。(6月抗争)
今は当然のようにある言論の自由も、こうして勝ち取ったのでした。(6月抗争)

(1987年6月 釜山市西面ロータリー)
当時の学生の雰囲気はこんな感じでした。
真面目で純粋で、自分たちが世の中をよくするんだという気概に満ちていました。毎日誰かがデモしていて警察にひっぱられたという話を聞きました。ひょんなことから彼らの中に紛れ込んで数ヶ月を暮らした私は、彼らの「熱さ」がある意味うらやましかったです。
真面目で純粋で、自分たちが世の中をよくするんだという気概に満ちていました。毎日誰かがデモしていて警察にひっぱられたという話を聞きました。ひょんなことから彼らの中に紛れ込んで数ヶ月を暮らした私は、彼らの「熱さ」がある意味うらやましかったです。
(マスクは催涙弾の刺激から気管や粘膜を守るためのものです。催涙弾の成分は風にのって流れてくるので、遠くにいても、クシャミ・鼻水・涙が出ました。)
彼らはよく議論していました。
ほとんど聞き取れなかったけれど・・・。
白熱した議論をしながら、時たま私に「わかる?」と声をかけてくれ、
私が笑って首を横に振るのを見て微笑んでから
また議論に戻るといった感じでした^^。
全然私に気を使わない様子が逆にありがたかったです。
話を聞いているのが韓国語の勉強になるんだよ!と言いながら笑っていた彼らは
今はもう40代。
386世代(民主化抗争でがんばった世代)はその後急速にしぼんでしまったとか
揶揄されながら。
ほとんど聞き取れなかったけれど・・・。
白熱した議論をしながら、時たま私に「わかる?」と声をかけてくれ、
私が笑って首を横に振るのを見て微笑んでから
また議論に戻るといった感じでした^^。
全然私に気を使わない様子が逆にありがたかったです。
話を聞いているのが韓国語の勉強になるんだよ!と言いながら笑っていた彼らは
今はもう40代。
386世代(民主化抗争でがんばった世代)はその後急速にしぼんでしまったとか
揶揄されながら。