Happy Birthday! David Bowie | In The Groove

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a beautiful tomorrow yea

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2010年1月8日。

デヴィッド・ボウイ63歳の誕生日を迎えた。
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どこからはじめようか?

最初の思い出だって?
目を閉じると耳の震えを感じる。

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俺がデヴィッド・ボウイの音楽にはじめて出会ったのは1983年まで遡るが、それ以前は周りの影響もあって、幼少期にはビートルズの音楽に耳を傾けていた。デヴィッド・ボウイの全盛期は1970年代だとよく言われるが、当時ボウイの存在すら知らなかった俺が、思い出など語れるわけはなく、ボウイの前妻であるアンジーの自伝から「思い出」を一部抜粋して紹介したい。

 わたしがに落ちた男性について描写してみよう。デヴィッド・ボウイとはどのような人物なのか、また、彼はどこからやってきたのか?


 彼は、本名をデヴィッド・ロバート・ジョーンズという――「ボウイ」というアメリカ風で少しばかり危険な感じの名前は、英国では珍しくもない郊外出身の歌がうまい少年を魅力的に見せるためにあとでつけられた。デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月8日の朝9時に、ブリクストンの労働者階級が住む地域で誕生した。


 1966年のロンドンは最高にすてきだった。愉快の絶頂にある、世界屈指の大都会だった。


 暗闇を脱して光の中に飛びこもうとしている街だった。開放的で自由、楽観的で、何でも受け入れるふところの広さを感じた。咲き乱れる花の中で、人々が笑いざわめき、色があふれかえっているというのが、当時のイメージ。大空襲に傷ついた負け犬、灰色のスモッグに覆われて戦後の苦しみにのたうちまわっていた古いロンドンではない。アートや冒険、崇高なまでに洗練された奇矯さ――これは、英国人ならではのものだ――に満ちたエキサイティングで活気あふれる街だった。


 英国全体が昔の栄光や不幸を振り返るのではなく、上を向いて歩いていた。国際的には帝国の日は沈み、終わりのない戦争で血は流され続けていたけれど、国内では失業率が下がり、社会福祉も充実し、労働者はあらゆる分野での改善と自由主義を助成していた。


 まるで、文化全体が変化しているようだった。ビートルズとストーンズ、ザ・フーが、古い英国の優雅さや秩序、抑制といった壁に穴をあけ、多くの若者たちがその穴からどっとあふれだした。それまでのメディアのスターは貴族や貴婦人だったり、エリート中のエリートだったりしたけれど、初めて毛並みの悪いポップ・シンガーや、アーティスト、モデル、フォトグラファー、デザイナーなどが、そのルックスやサウンドやスタンスによって彼らに取って代わることになった。ついに、上流階級の話し方ができなくても、もって生まれた権威がなくても、英国社会で認められる時代がやってきたのだ。


 息子のジョーは1971年、デヴィッドとのあいだに英国で生まれ、ゾウイと名づけたがのちに名前を変えた。1980年2月8日にデヴィッドと離婚をしてから、ゾウイの親権は父親が握っている。現時点で、ジョーと最後に話をしたのは2年前。彼の父親とはもう10年以上も話をしていない。なんてひどい話。ほんと最低だわ。


 あの日から、彼はわたしを完全にシャットアウトし、一言たりとと話をしたことがない。だから、こちらとしては暗闇の中をつっつくしかないのだ。


 だからこの辺で、楽しかった頃の話に戻りましょう。


 第二次世界大戦で荒廃し、階級闘争に引き裂かれていた50年代の英国は、大西洋を隔てたシャングリラとは似ても似つかない状況にあったのだ。しかし、デヴィッドは普通では考えられないほどの重苦しさとひねくれた心を何重にもまとっていた。10代の反抗期にある少年たちと一緒にいたアメリカのポップ文化――1966年当時に、彼の役割モデルだったボブ・ディランも含む――にのめりこむ前に、彼はテリーの影響を受けて、陰鬱で退廃的な現代文学のスターたち――カフカ、ジュネ、バロウズ、ケルアック、イシャーウッド、デュシャン――に関する基礎知識をものにしていた。そのため、わたしに出会った頃の彼は、すでに偏執的なヴィジョンと陰鬱な物言いを第二の天性として身につけていた。たとえば、Space Oddityや、Wild-Eyed Boy from Freecloudには、彼の世界観がストレートに打ち出されている。


 1966年はとてもいい年だった。あの年の春、メアリー・フィネガンのところで週末を一緒に過ごして以来、デヴィッドとの距離が縮まり、夏の日差しの中で、わたしたちの愛は深まり、満開の花を咲かせた。


 1970年は、本当にいい一年だった。わたしたちの毎日には、明確な目的意識があった。いろいろな方向にアンテナを向けていたけれど、決して闇雲にそうしていたわけではない。ストレスはほとんど感じなかった。生産的で楽観的、社交的で手応え十分、満足のいく毎日で、楽しかった。


 今でも時々胸が痛むことがあるけれど、でもやっぱり最高に楽しい生活だった。まったく、あんなハチャメチャなパーティったらなかった。


アンジェラ・ボウイ著「The Inside Story デヴィッド・ボウイと私と70’s」より

先述した書籍は、70年代の扉を開けたデヴィッド・ボウイについて書かれており、私的には、現在に至るまでボウイに関連する書籍にはほとんど目を通したつもりでいるのだが、ピーター&レニ・ギルマン著「Alias」には、1972当時のことが次のように記されている。

 1972年1月、イギリスは陰鬱な空気に包まれていた。政府を率いていたのは、ヨットに乗っている時か、パイプ・オルガンを弾いている時にしか喜びを感じない独裁者、エドワード・ヒースだった。新年早々、炭鉱夫たちが政府に反旗を翻し、ピケ・ラインでの流血騒ぎは、1月中、新聞紙面をにぎわせた。下院では、労働党の議員が、失業者の数が信じがたいことに100万人に達したことを講義し、それに応えた議長が会議を中断させ、大騒ぎになった。 


 皮肉なことに、1971年に入ると、ポピュラー音楽はそのテロリストの手段としての側面を、ますます引っ込めるようになり、1972年には、若者の反逆は完全に鎮まったかに見えた。


と同時に、若者たちは、よりあいまいかつ破壊的な形で、彼らの世代を代表する新しいシンボルを待ち受けているようでもあった。その年の初め、デヴィッド・ボウイはその役を引き受けようと進み始めたのだ。


 1月の半ば、クリスマス直前にリリースされた<Hunky Dory>のレヴューが、音楽誌に載りはじめた。今までになく好意的なもので、メロディ・メイカーは「ボウイのベスト・アルバムというばかりではなく、ここしばらくではもっとも独創的なソング・ライティングである」と評した。さらに、曲作りは「崇高」であり、ボウイは「キャンプの伝道師としての自分をカリカチュア」し、「ミック・ジャガーの後継者」たりうると書いた。ニュー・ミュージカル・エクスプレスは<Hunky Dory>でのボウイは、「めちゃくちゃ最高」と評した。


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1970年から40年もの年月が流れ、昨年10月からロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにおいて、「Beatles to Bowie the 60s exposed」といった企画展が今月24日まで開催されている。「ビートルズからデヴィッド・ボウイまで」と題されたイヴェントには、ミック・ジャガーの未公開写真などを含め150点以上が展示されているようだ。



また、過去に遡れば何枚目になるのかは分からないが、「デヴィッド・ボウイのトリビュート・アルバム」が発売されるのだ。「VOGUE」誌(スカーレット・ヨハンソンが気絶しそうなくらいに素敵な音楽だと、ボウイに近づき、アルバムを発表したことについて)や「Numero」誌(カーラ・ブルーニが、ボウイの<ロックン・ロールの自殺者>はめちゃくちゃ最高だったことについて)のインタヴュー記事もブログで取り上げた。

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最近では、アメリカのレディ・ガガが、デヴィッド・ボウイを崇拝し、音楽のインスピレーションの源だとして言及した発言などが話題をよび、アメリカのティーンの間でもボウイの認知度がすっかり高まってきたようにも思えるのだ。英国のファッションフォトグラファーであるクレイグ・マクディーン撮影によるティルダ・スウィントン真:)の写真も話題となっている。なぜなら、そのスタイルがボウイを意識したショットばかりなのだから・・・「反抗」か。この雑誌の“Rebelは、ボウイの楽曲“Rebel Rebel”からのパクリなのだろう。


ロックという音楽ジャンルに、もしデヴィッド・ボウイが存在していなかったら、現在のロックは退屈な音楽であり続けたと思うし、70年代にボウイが登場し、ロックは進化していったともいえるのだ。その影響力は、音楽の世界だけに限らずとも、モードの世界にも浸透していったともいえる。


ディオール・オムの元クリエイティヴ・ディレクター<エディ・スリマン>の服はロックであり、デヴィッド・ボウイそのままのイメージだった。ジル・サンダーの現クリエイティヴ・ディレクター<ラフ・シモンズ>は、影響を受けたミュージシャンがボウイであることをインタヴューの中で断言し、過去に、自身のランウェイ(ショー)のBGMにボウイの音楽を選択したのだ。トム・フォードの跡を継いだグッチの現クリエイティヴ・ディレクター<フリーダ・ジャンニーニ>は大の音楽(ロック)好きでもあり、数年前のコレクションでグラムロックをイメージしたコレクションを発表している。またアルマーニまでもが、数年前に、オートクチュールライン「ジョルジオ・アルマーニ プリヴェ」のコレクションの中で、ボウイにインスピレーションを受けたコレクションを発表したように、快挙に暇がないのだ。


ところで、気になるトリビュートアルバムの曲目なのだが・・・


EXITMUSIC "Space Oddity"
VIVIAN GIRLS "John, I'm Only Dancing"
MEGAPUSS (Devendra Banhart) "Sound + Vision" (en espanol)
CARLA BRUNI "Absolute Beginners"
LIGHTS "World Falls Down"
VOICESVOICES "Heroes"
DURAN DURAN "Boys Keep Swinging"
CHAIRLIFT "Always Crashing in the Same Car"
ASKA w/ MOON & MOON "African Night Flight"
A PLACE TO BURY STRANGERS "Suffragette City"
POLYAMOROUS AFFAIR "Theme From Cat People"
KEREN ANN "Life on Mars"
SWAHILI BLONDE (feat. John Frusciante) "Red Money"
MARCO BENEVENTO "Art Decade"
CORRIDOR "Be My Wife"
AQUASERGE "The Supermen"
WARPAINT "Ashes to Ashes"
RAINBOW^ARABIA "Quicksand"
WE ARE THE WORLD "Afraid of Americans"
LACO$TE "Within You"
ARIANA DELAWARI "Ziggy Stardust"
PIZZA! "Modern Love"
ST CLAIR BOARD "Secret Life of Arabia"
CAROLINE WEEKS "Starman"
AMANDA JO WILLIAMS "The Man Who Sold the World"
MICK KARN "Ashes to Ashes"
SOULWAX "tba"

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この曲目を見ての感想は、(サルコジ仏大統領夫人である)元スーパーモデルのカーラ・ブルーニ真:上)が選択した曲が、ボウイが1986年に発表した“Absolute Beginners”というのは意外だったね。そもそも、この曲は50年代のロンドンを舞台にした映画「ビギナーズ」のテーマ曲であるのだが、彼女自身、この曲に何か思い入れでもあったのだろうか。ノスタルジックな曲調で英国チャートで1位を獲得した曲とはいえ、不思議な選択にも思えるのだ(笑)。付け加えると、過去に
ボウイの曲をカヴァーしたミュージシャンは星の数ほどいると思うが、その中でも特に良かったのは(ニルヴァーナの)カート・コバーンによる“The Man Who Sold the World”だろうね。


冒頭でも記したとおり、ボウイとの70年代の思い出はないのだが、最も記憶に残る私的な思い出といえば、20年前の1990年5月、東京ドームでのボウイのコンサートに2日連続で足を運んだこと。1回目はアリーナ席最前列で、2回目は随分後ろの席だったように記憶している。そのとき、隣の見知らぬ女の子が双眼鏡でステージ上のボウイをずっと覘いていたので、俺が「よく見える?」と話掛けたと思うのだが、彼女から「よく見えますよ~、どうぞ」と言われ、双眼鏡を借りたように記憶している。コンサートの終了後、帰り際に、水道橋の喫茶店かどこかで、その女の子とお茶したと思うのだが、偶然にも俺と同い年で、早稲田大学の学生(誤解のないように、俺は早稲田じゃないけれど)だったように記憶している。あの頃の俺は若かった(笑)。


その後、ニューヨークでボウイがよく足を運んでいたエセックスハウス内の高級フレンチレストラン「Les Celebrites」に、私的に何度も足を運んだり、店内にあるボウイのポートレイトも特別に見せてもらったりした。ここでのシャンパン・ディナーについては、過去のブログでメニュー付きで紹介している。そんな思い出深いレストランは、その後アラン・デュカスのレストランに衣替えし、ニューヨークで最も高額なフレンチレストランとして存在したのだが受け入れられず、現在は違うレストランに・・・。


ところで、アンジーは、1969年にキング・クリムゾンのレセプションでボウイと出会い、1970年3月20日に結婚し、翌年の5月28日に息子ゾウイが誕生したのだ。そして、10年後の1980年に離婚している。


今年はボウイにとって、離婚後30年目となる節目の年にあたり、もうそろそろ音楽活動を再開するにはいいタイミングじゃないのかな、と私的に考えている。参考までに、ボウイの大親友であるミック・ジャガ1943年7月26日生まれで、今年で66歳となる。


また、映画「ムーラン・ルージュ」の中では、マッシヴ・アタック(英国で1986年に結成)はボウイとのコラボレーション曲を2001年に発表したことは記憶に新しいが、彼らの5枚目となるアルバムが7年振りに来月いよいよリリースされる。


デヴィッド・ボウイが1971年に“The Man Who Sold the World”をリリースした当時、ローリング・ストーン誌はボウイについて、「デヴィッド・ボウイの音楽は面白くもあり、背筋がゾクッともする経験だ。ただし、その精神分裂症的な側面にもしっかり耐えられるリスナーに限られる」と評し、アルバムジャケットに関しては、「魅惑的で、どぎまきするほどローレン・バコールに似ている」と書いたのだ。


Happy Birthday!

David Bowie


Have a nice weekend !


【追記】ロンドン繋がりで・・・


周知のとおり、世界最大の金融街とは、「ニューヨーク(アメリカ)」「東京(アジア)」「ロンドン(ヨーロッパ)」の三大都市に位置しており、証券取引所があるのは、ニューヨークが「ウォール街」、東京が「兜町(中央区日本橋)」、ロンドンが「ロンバード街(通称:シティ)」。東京では、千代田区、中央区、港区が都心3区と呼ばれている。

美食の都は、ミシュランガイドが示すとおり、東京パリニューヨーク。国別では、フランス日本イタリアだ。

モードの都は世界三大コレクションが開催されるミラノパリニューヨーク

芸術の都は、世界三大美術館があるニューヨーク(メトロポリタン美術館)ロンドン(大英博物館)パリ(ルーヴル美術館)

世界三大建築家といえば、フランク・ロイド・ライト(アメリカ)ミース・ファン・デル・ローエ(ドイツ)ル・コルビュジエ(フランス*正確にいえばスイス人なのだが)だ。

前置きが長くなってしまったのだが、世界一の人口を誇る中国とか、世界一の高さを誇るドバイのブルジュ・カルファには私的には何の魅力も感じられないのだ、ファストファッションやファストフード、ルイ・ヴィトンのように・・・。腹を空かした学生が、ファストフードや食べ放題の店に群がるのとは対照的に、オトナの男女は量よりもむしろ質を重要視しているように思えるのだ。量を重視する人は、大概太っている。

東京の「石原慎太郎都知事(77歳)」とニューヨークの「マイケル・ブルームバーグ市長(68歳)」は有名だと思われるが、ロンドンの「ボリス・ジョンソン市長(45歳)」は日本ではほとんど知られていない存在だろうか。

世界三大都市は、常に進化し続けている街ではあるのだが、年末年始にボリス・ジョンソン市長の“A GLOBAL CITY BOUNCES BACK”といったコラムに目を通してみると、急ピッチで再開発が進められ、街中に変化と発展をもたらしている、とロンドンの大改造計画について言及しているのだ。
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そんなロンドンに、ヨーロッパ一となる超高層ビルディング「ロンドン・ブリッジ・タワー」(写真:上)が、2012年に完成予定なのだ。注目すべき点は、設計を担当したのが、イタリア人建築家のレンゾ・ピアノだということだろうか。彼を知らない人のために付け加えておくと、銀座のメゾンエルメスを設計した建築家だ。2012年の夏には、ロンドン・オリンピックが開催されるが、世界中から人々が集中するそんな時期に、俺は敢えて足を運びたいとは思わない。

ボリス・ジョンソン市長のコラムの中で、気になった部分を一部抜粋して紹介したい。
 第三者機関が認めるところでは、ロンドンの金融業界は多くの問題を抱えてはいえるが、ニューヨークの金融業界よりは景気後退を乗り切りやすい状況にある。

 しかも、金融はロンドン経済の一部にすぎない。世界の6大法律事務所のうち4つはロンドンを拠点にしている。保健科学の研究でも世界をリードしているし、一流大学の数は他のどんな首都より多い。メディアや文化、芸術部門は世界一とは言わないまでも、欧州一の影響力を誇っている。

 とはいえ、躍進を続けるには初歩的なミスを避け、いくつかの重要な基本事項を押さえておく必要がある。

 われわれは今後もロンドンがビジネスと企業家精神にあふれる街であり続けるため、さまざまな条件を維持するよう努めなければならない。このことを念頭に、ヘッジファンドとプライベート・エクイエティ(未公開株)に対する規制を強化するEUの法案に反対していくつもりだ。これらの法案はロンドンだけではなく、ヨーロッパのためにもならない。企業や人材のEU離れにつながるだけだろう。

 最高税率の引き上げにも断固反対する。高い税金は自発性をしぼませ、富の創造者を追い払う。70年代にも80%を超える法外な税率が導入されたが、うまくいかなかった。現在も同じだ。

 五輪に向けて今後1000日間、ロンドンでは市内全域で地域整備が進む。通りや広場、公園の質を高めて、街の外観も雰囲気も向上させる。レンタル自転車制度や自転車用高速道路(ロンドン中心部まで自転車で直接、安全に速く行ける)も新設する。数千本の植樹や、電気自動車など二酸化炭素排出ゼロの車を大幅に導入する計画もある。

 われわれはロンドンをクリーンでグリーンで安全で、交通の便がいい小都市の魅力と、大都市の活力や野心や文化的多様性を併せ持つ街にしたい。世界一暮らしやすく、そしてビジネスをしやすい街に必ずなれるはずだ。
私的には、彼の「富の創造者を追い払う」と言った言葉が印象的だった。70年代前後の英国からは、ビートルズからデヴィッド・ボウイまで有能なミュージシャンが多数誕生していったわけだが、皆が皆揃って、国外に移住したのには理由があるのだろう。最終的な行先は、皆ニューヨークなのだ。行き先が、パリやミラノ、東京ではないことは確かなのだが、あらゆる意味で、東京の未来が心配にもなってくる。

前回のブログで紹介したように、1960年代のロンドンは最高に素敵な、愉快の絶頂にある、世界屈指の大都市だったのだ。ビートルズやストーンズが台頭した保守的な60年代から、70年代への扉を開け、性の革命を起こしたともいえるのが、他でもないデヴィッド・ボウイその人だったのだ。その後、ロックスターは現れず、2008年に世界で最も稼いだバンドがストーンズであるといった事実が、それを証明しているかのようだ。

ところで、日本では1980年代から1991年までバブル」の絶頂にあったわけだが、それを高校生の頃から経験したのは現在30代後半以上(37歳以上)の人々だろうし、それよりも若い人々は、バブルがハジけた1991年以降の「失われた20年」に生きてきて、大学を卒業する学生の半分ほどが未だ就職先も決まらないといった緊急事態に陥っているのだ。

コミュニケーションツールが直接の会話ではなく、メールばかりというのも一種の病気だろうし、それゆえか、草食系という訳の分からない言葉まで登場する時代であり、結婚しない男女の数は増え続けている。俺が大学生の頃は携帯電話など存在しなくて、デートの約束は専ら女の子の自宅に電話していた一方で、現代社会ではテクノロジーの進歩で、コミュニケーションツールが増えたといっても、恋愛に関しては、基本的には何も変わっていないように思えるのだ。アメリカで理想の男性像と崇められいたタイガー・ウッズが、品行方正でなかったことが明らかになり、ある意味、私的に共感を覚えたものだが、あそこまでいくと完全な病気だろうな(笑)。俺も理想の男ではないのだけれど・・・。

バブルについて触れられたコラムもあったので、一部抜粋して紹介したい。
 忘れた頃に膨らんで、突如はじけるバブル。この愚かなマネーの狂乱に人はなぜ懲りないのか。それはバブルが人の心に根差しているからだ。

 バブルが膨らむのは、世界はこんなによくなったという景気いい話を大勢の人々が信じたときだ。つい最近、世界を席巻した株式と不動産のバブルも、世界中で市場が膨らみ、価格は永遠に上がり続けるという浅はかな信念によってあおられた。

 人間は動物だ。動物だから、おいしい話には弱い。そして動物だから群れを成す習慣がある。バブルが膨らみ始めると、みんな一番おいしそうな話に群がる。バブルがはじけても、同じ方向に走り続ける。

 ネットはITバブルの形成と今回の金融危機に一役買った。いずれはツィッターフェースブックのような新しい社会メディアが次なる市場の狂乱を演出し、あるいはネットが市場に予想外の影響を及ぼすことになるだろう。

 私たちは過去の過ちから何かを学べないのだろうか。幸いにして学んでいる人もいる。例えば若者。人は若い時期の経験から最も大きな教訓を学ぶものだという。

 一方で、正しい情報に目を向けず、あるいは目を向けるまでに時間がかかる人たちもいる。しょせん経済学は不完全な科学であり、脱線することも多い。現にほんの数年前までは、市場は何でも知っていると言わんばかりの「効率的市場仮説」が幅を利かせていたのである。

 今回の金融危機を経験して、ようやくその考え方も変わりつつある。20カ国・地域(G20)首脳会議の場でも、バブルへの警告が発せられている。これで数年はバブルの拡大にブレーキがかかるかもしれない。しかし、バブルがなくなることはない。

――ロバート・シラー(イェール大学経済学部教授)
浅はかな信念って何だろう? しょせん経済学が不完全な科学だとしても、具体的に解決策くらい述べて欲しかったね。例えるならば、胡散臭い民主党政権と何ら変わらないようにも思えてくるのだ。コーヒーやシャンパンをいただきながら、ソファに横たわって斜め読みするには最適で、面白いコラムに違いはないのだけれど。

年始の挨拶で、石原東京都知事が言われた「今年は、なかなか厄介な年になりそうです」の一節が、不思議なことに、時が経つにつれ、的を射た発言のようにも思えてくるのは俺だけだろうか(笑)。

私的には、「ロンドン」という都市は、東京とニューヨークに次いで好きな街だ、ね。