デヴィッド・ボウイが63歳の誕生日を迎えた。
どこからはじめようか?
俺がデヴィッド・ボウイの音楽にはじめて出会ったのは1983年まで遡るが、それ以前は周りの影響もあって、幼少期にはビートルズの音楽に耳を傾けていた。デヴィッド・ボウイの全盛期は1970年代だとよく言われるが、当時ボウイの存在すら知らなかった俺が、思い出など語れるわけはなく、ボウイの前妻であるアンジーの自伝から「思い出」を一部抜粋して紹介したい。
わたしが恋に落ちた男性について描写してみよう。デヴィッド・ボウイとはどのような人物なのか、また、彼はどこからやってきたのか?
彼は、本名をデヴィッド・ロバート・ジョーンズという――「ボウイ」というアメリカ風で少しばかり危険な感じの名前は、英国では珍しくもない郊外出身の歌がうまい少年を魅力的に見せるためにあとでつけられた。デヴィッド・ロバート・ジョーンズは、1947年1月8日の朝9時に、ブリクストンの労働者階級が住む地域で誕生した。
1966年のロンドンは最高にすてきだった。愉快の絶頂にある、世界屈指の大都会だった。
暗闇を脱して光の中に飛びこもうとしている街だった。開放的で自由、楽観的で、何でも受け入れるふところの広さを感じた。咲き乱れる花の中で、人々が笑いざわめき、色があふれかえっているというのが、当時のイメージ。大空襲に傷ついた負け犬、灰色のスモッグに覆われて戦後の苦しみにのたうちまわっていた古いロンドンではない。アートや冒険、崇高なまでに洗練された奇矯さ――これは、英国人ならではのものだ――に満ちたエキサイティングで活気あふれる街だった。
英国全体が昔の栄光や不幸を振り返るのではなく、上を向いて歩いていた。国際的には帝国の日は沈み、終わりのない戦争で血は流され続けていたけれど、国内では失業率が下がり、社会福祉も充実し、労働者はあらゆる分野での改善と自由主義を助成していた。
まるで、文化全体が変化しているようだった。ビートルズとストーンズ、ザ・フーが、古い英国の優雅さや秩序、抑制といった壁に穴をあけ、多くの若者たちがその穴からどっとあふれだした。それまでのメディアのスターは貴族や貴婦人だったり、エリート中のエリートだったりしたけれど、初めて毛並みの悪いポップ・シンガーや、アーティスト、モデル、フォトグラファー、デザイナーなどが、そのルックスやサウンドやスタンスによって彼らに取って代わることになった。ついに、上流階級の話し方ができなくても、もって生まれた権威がなくても、英国社会で認められる時代がやってきたのだ。
息子のジョーは1971年、デヴィッドとのあいだに英国で生まれ、ゾウイと名づけたがのちに名前を変えた。1980年2月8日にデヴィッドと離婚をしてから、ゾウイの親権は父親が握っている。現時点で、ジョーと最後に話をしたのは2年前。彼の父親とはもう10年以上も話をしていない。なんてひどい話。ほんと最低だわ。
あの日から、彼はわたしを完全にシャットアウトし、一言たりとと話をしたことがない。だから、こちらとしては暗闇の中をつっつくしかないのだ。
だからこの辺で、楽しかった頃の話に戻りましょう。
第二次世界大戦で荒廃し、階級闘争に引き裂かれていた50年代の英国は、大西洋を隔てたシャングリラとは似ても似つかない状況にあったのだ。しかし、デヴィッドは普通では考えられないほどの重苦しさとひねくれた心を何重にもまとっていた。10代の反抗期にある少年たちと一緒にいたアメリカのポップ文化――1966年当時に、彼の役割モデルだったボブ・ディランも含む――にのめりこむ前に、彼はテリーの影響を受けて、陰鬱で退廃的な現代文学のスターたち――カフカ、ジュネ、バロウズ、ケルアック、イシャーウッド、デュシャン――に関する基礎知識をものにしていた。そのため、わたしに出会った頃の彼は、すでに偏執的なヴィジョンと陰鬱な物言いを第二の天性として身につけていた。たとえば、Space Oddityや、Wild-Eyed Boy from Freecloudには、彼の世界観がストレートに打ち出されている。
1966年はとてもいい年だった。あの年の春、メアリー・フィネガンのところで週末を一緒に過ごして以来、デヴィッドとの距離が縮まり、夏の日差しの中で、わたしたちの愛は深まり、満開の花を咲かせた。
1970年は、本当にいい一年だった。わたしたちの毎日には、明確な目的意識があった。いろいろな方向にアンテナを向けていたけれど、決して闇雲にそうしていたわけではない。ストレスはほとんど感じなかった。生産的で楽観的、社交的で手応え十分、満足のいく毎日で、楽しかった。
今でも時々胸が痛むことがあるけれど、でもやっぱり最高に楽しい生活だった。まったく、あんなハチャメチャなパーティったらなかった。
―アンジェラ・ボウイ著「The Inside Story デヴィッド・ボウイと私と70’s」より
先述した書籍は、70年代の扉を開けたデヴィッド・ボウイについて書かれており、私的には、現在に至るまでボウイに関連する書籍にはほとんど目を通したつもりでいるのだが、ピーター&レニ・ギルマン著「Alias」には、1972年当時のことが次のように記されている。
1972年1月、イギリスは陰鬱な空気に包まれていた。政府を率いていたのは、ヨットに乗っている時か、パイプ・オルガンを弾いている時にしか喜びを感じない独裁者、エドワード・ヒースだった。新年早々、炭鉱夫たちが政府に反旗を翻し、ピケ・ラインでの流血騒ぎは、1月中、新聞紙面をにぎわせた。下院では、労働党の議員が、失業者の数が信じがたいことに100万人に達したことを講義し、それに応えた議長が会議を中断させ、大騒ぎになった。
皮肉なことに、1971年に入ると、ポピュラー音楽はそのテロリストの手段としての側面を、ますます引っ込めるようになり、1972年には、若者の反逆は完全に鎮まったかに見えた。
と同時に、若者たちは、よりあいまいかつ破壊的な形で、彼らの世代を代表する新しいシンボルを待ち受けているようでもあった。その年の初め、デヴィッド・ボウイはその役を引き受けようと進み始めたのだ。
1月の半ば、クリスマス直前にリリースされた<Hunky Dory>のレヴューが、音楽誌に載りはじめた。今までになく好意的なもので、メロディ・メイカーは「ボウイのベスト・アルバムというばかりではなく、ここしばらくではもっとも独創的なソング・ライティングである」と評した。さらに、曲作りは「崇高」であり、ボウイは「キャンプの伝道師としての自分をカリカチュア」し、「ミック・ジャガーの後継者」たりうると書いた。ニュー・ミュージカル・エクスプレスは<Hunky Dory>でのボウイは、「めちゃくちゃ最高」と評した。
1970年から40年もの年月が流れ、昨年10月からロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーにおいて、「Beatles to Bowie the 60s exposed」といった企画展が今月24日まで開催されている。「ビートルズからデヴィッド・ボウイまで」と題されたイヴェントには、ミック・ジャガーの未公開写真などを含め150点以上が展示されているようだ。
また、過去に遡れば何枚目になるのかは分からないが、「デヴィッド・ボウイのトリビュート・アルバム」が発売されるのだ。「VOGUE」誌(スカーレット・ヨハンソンが気絶しそうなくらいに素敵な音楽だと、ボウイに近づき、アルバムを発表したことについて)や「Numero」誌(カーラ・ブルーニが、ボウイの<ロックン・ロールの自殺者>はめちゃくちゃ最高だったことについて)のインタヴュー記事もブログで取り上げた。
最近では、アメリカのレディ・ガガが、デヴィッド・ボウイを崇拝し、音楽のインスピレーションの源だとして言及した発言などが話題をよび、アメリカのティーンの間でもボウイの認知度がすっかり高まってきたようにも思えるのだ。英国のファッションフォトグラファーであるクレイグ・マクディーン撮影によるティルダ・スウィントン(写真:上)の写真も話題となっている。なぜなら、そのスタイルがボウイを意識したショットばかりなのだから・・・「反抗」か。この雑誌の“Rebelは、ボウイの楽曲“Rebel Rebel”からのパクリなのだろう。
ロックという音楽ジャンルに、もしデヴィッド・ボウイが存在していなかったら、現在のロックは退屈な音楽であり続けたと思うし、70年代にボウイが登場し、ロックは進化していったともいえるのだ。その影響力は、音楽の世界だけに限らずとも、モードの世界にも浸透していったともいえる。
ディオール・オムの元クリエイティヴ・ディレクター<エディ・スリマン>の服はロックであり、デヴィッド・ボウイそのままのイメージだった。ジル・サンダーの現クリエイティヴ・ディレクター<ラフ・シモンズ>は、影響を受けたミュージシャンがボウイであることをインタヴューの中で断言し、過去に、自身のランウェイ(ショー)のBGMにボウイの音楽を選択したのだ。トム・フォードの跡を継いだグッチの現クリエイティヴ・ディレクター<フリーダ・ジャンニーニ>は大の音楽(ロック)好きでもあり、数年前のコレクションでグラムロックをイメージしたコレクションを発表している。またアルマーニまでもが、数年前に、オートクチュールライン「ジョルジオ・アルマーニ プリヴェ」のコレクションの中で、ボウイにインスピレーションを受けたコレクションを発表したように、快挙に暇がないのだ。
ところで、気になるトリビュートアルバムの曲目なのだが・・・
EXITMUSIC "Space Oddity"
VIVIAN GIRLS "John, I'm Only Dancing"
MEGAPUSS (Devendra Banhart) "Sound + Vision" (en espanol)
CARLA BRUNI "Absolute Beginners"
LIGHTS "World Falls Down"
VOICESVOICES "Heroes"
DURAN DURAN "Boys Keep Swinging"
CHAIRLIFT "Always Crashing in the Same Car"
ASKA w/ MOON & MOON "African Night Flight"
A PLACE TO BURY STRANGERS "Suffragette City"
POLYAMOROUS AFFAIR "Theme From Cat People"
KEREN ANN "Life on Mars"
SWAHILI BLONDE (feat. John Frusciante) "Red Money"
MARCO BENEVENTO "Art Decade"
CORRIDOR "Be My Wife"
AQUASERGE "The Supermen"
WARPAINT "Ashes to Ashes"
RAINBOW^ARABIA "Quicksand"
WE ARE THE WORLD "Afraid of Americans"
LACO$TE "Within You"
ARIANA DELAWARI "Ziggy Stardust"
PIZZA! "Modern Love"
ST CLAIR BOARD "Secret Life of Arabia"
CAROLINE WEEKS "Starman"
AMANDA JO WILLIAMS "The Man Who Sold the World"
MICK KARN "Ashes to Ashes"
SOULWAX "tba"
この曲目を見ての感想は、(サルコジ仏大統領夫人である)元スーパーモデルのカーラ・ブルーニ(写真:上)が選択した曲が、ボウイが1986年に発表した“Absolute Beginners”というのは意外だったね。そもそも、この曲は50年代のロンドンを舞台にした映画「ビギナーズ」のテーマ曲であるのだが、彼女自身、この曲に何か思い入れでもあったのだろうか。ノスタルジックな曲調で英国チャートで1位を獲得した曲とはいえ、不思議な選択にも思えるのだ(笑)。付け加えると、過去にボウイの曲をカヴァーしたミュージシャンは星の数ほどいると思うが、その中でも特に良かったのは(ニルヴァーナの)カート・コバーンによる“The Man Who Sold the World”だろうね。
冒頭でも記したとおり、ボウイとの70年代の思い出はないのだが、最も記憶に残る私的な思い出といえば、20年前の1990年5月、東京ドームでのボウイのコンサートに2日連続で足を運んだこと。1回目はアリーナ席最前列で、2回目は随分後ろの席だったように記憶している。そのとき、隣の見知らぬ女の子が双眼鏡でステージ上のボウイをずっと覘いていたので、俺が「よく見える?」と話掛けたと思うのだが、彼女から「よく見えますよ~、どうぞ」と言われ、双眼鏡を借りたように記憶している。コンサートの終了後、帰り際に、水道橋の喫茶店かどこかで、その女の子とお茶したと思うのだが、偶然にも俺と同い年で、早稲田大学の学生(誤解のないように、俺は早稲田じゃないけれど)だったように記憶している。あの頃の俺は若かった(笑)。
その後、ニューヨークでボウイがよく足を運んでいたエセックスハウス内の高級フレンチレストラン「Les Celebrites」に、私的に何度も足を運んだり、店内にあるボウイのポートレイトも特別に見せてもらったりした。ここでのシャンパン・ディナーについては、過去のブログでメニュー付きで紹介している。そんな思い出深いレストランは、その後アラン・デュカスのレストランに衣替えし、ニューヨークで最も高額なフレンチレストランとして存在したのだが受け入れられず、現在は違うレストランに・・・。
ところで、アンジーは、1969年にキング・クリムゾンのレセプションでボウイと出会い、1970年3月20日に結婚し、翌年の5月28日に息子ゾウイが誕生したのだ。そして、10年後の1980年に離婚している。
今年はボウイにとって、離婚後30年目となる節目の年にあたり、もうそろそろ音楽活動を再開するにはいいタイミングじゃないのかな、と私的に考えている。参考までに、ボウイの大親友であるミック・ジャガーは1943年7月26日生まれで、今年で66歳となる。
また、映画「ムーラン・ルージュ」の中では、マッシヴ・アタック(英国で1986年に結成)はボウイとのコラボレーション曲を2001年に発表したことは記憶に新しいが、彼らの5枚目となるアルバムが7年振りに来月いよいよリリースされる。
デヴィッド・ボウイが1971年に“The Man Who Sold the World”をリリースした当時、ローリング・ストーン誌はボウイについて、「デヴィッド・ボウイの音楽は面白くもあり、背筋がゾクッともする経験だ。ただし、その精神分裂症的な側面にもしっかり耐えられるリスナーに限られる」と評し、アルバムジャケットに関しては、「魅惑的で、どぎまきするほどローレン・バコールに似ている」と書いたのだ。
Happy Birthday!
David Bowie
Have a nice weekend !
【追記】ロンドン繋がりで・・・
そんなロンドンに、ヨーロッパ一となる超高層ビルディング「ロンドン・ブリッジ・タワー」(写真:上)が、2012年に完成予定なのだ。注目すべき点は、設計を担当したのが、イタリア人建築家のレンゾ・ピアノだということだろうか。彼を知らない人のために付け加えておくと、銀座のメゾンエルメスを設計した建築家だ。2012年の夏には、ロンドン・オリンピックが開催されるが、世界中から人々が集中するそんな時期に、俺は敢えて足を運びたいとは思わない。
第三者機関が認めるところでは、ロンドンの金融業界は多くの問題を抱えてはいえるが、ニューヨークの金融業界よりは景気後退を乗り切りやすい状況にある。
しかも、金融はロンドン経済の一部にすぎない。世界の6大法律事務所のうち4つはロンドンを拠点にしている。保健科学の研究でも世界をリードしているし、一流大学の数は他のどんな首都より多い。メディアや文化、芸術部門は世界一とは言わないまでも、欧州一の影響力を誇っている。
とはいえ、躍進を続けるには初歩的なミスを避け、いくつかの重要な基本事項を押さえておく必要がある。
われわれは今後もロンドンがビジネスと企業家精神にあふれる街であり続けるため、さまざまな条件を維持するよう努めなければならない。このことを念頭に、ヘッジファンドとプライベート・エクイエティ(未公開株)に対する規制を強化するEUの法案に反対していくつもりだ。これらの法案はロンドンだけではなく、ヨーロッパのためにもならない。企業や人材のEU離れにつながるだけだろう。
最高税率の引き上げにも断固反対する。高い税金は自発性をしぼませ、富の創造者を追い払う。70年代にも80%を超える法外な税率が導入されたが、うまくいかなかった。現在も同じだ。
五輪に向けて今後1000日間、ロンドンでは市内全域で地域整備が進む。通りや広場、公園の質を高めて、街の外観も雰囲気も向上させる。レンタル自転車制度や自転車用高速道路(ロンドン中心部まで自転車で直接、安全に速く行ける)も新設する。数千本の植樹や、電気自動車など二酸化炭素排出ゼロの車を大幅に導入する計画もある。
われわれはロンドンをクリーンでグリーンで安全で、交通の便がいい小都市の魅力と、大都市の活力や野心や文化的多様性を併せ持つ街にしたい。世界一暮らしやすく、そしてビジネスをしやすい街に必ずなれるはずだ。
忘れた頃に膨らんで、突如はじけるバブル。この愚かなマネーの狂乱に人はなぜ懲りないのか。それはバブルが人の心に根差しているからだ。
バブルが膨らむのは、世界はこんなによくなったという景気いい話を大勢の人々が信じたときだ。つい最近、世界を席巻した株式と不動産のバブルも、世界中で市場が膨らみ、価格は永遠に上がり続けるという浅はかな信念によってあおられた。
人間は動物だ。動物だから、おいしい話には弱い。そして動物だから群れを成す習慣がある。バブルが膨らみ始めると、みんな一番おいしそうな話に群がる。バブルがはじけても、同じ方向に走り続ける。
ネットはITバブルの形成と今回の金融危機に一役買った。いずれはツィッターやフェースブックのような新しい社会メディアが次なる市場の狂乱を演出し、あるいはネットが市場に予想外の影響を及ぼすことになるだろう。
私たちは過去の過ちから何かを学べないのだろうか。幸いにして学んでいる人もいる。例えば若者。人は若い時期の経験から最も大きな教訓を学ぶものだという。
一方で、正しい情報に目を向けず、あるいは目を向けるまでに時間がかかる人たちもいる。しょせん経済学は不完全な科学であり、脱線することも多い。現にほんの数年前までは、市場は何でも知っていると言わんばかりの「効率的市場仮説」が幅を利かせていたのである。
今回の金融危機を経験して、ようやくその考え方も変わりつつある。20カ国・地域(G20)首脳会議の場でも、バブルへの警告が発せられている。これで数年はバブルの拡大にブレーキがかかるかもしれない。しかし、バブルがなくなることはない。
――ロバート・シラー(イェール大学経済学部教授)