モスクワ線の思い出 | 東京Crew倶楽部 ~客室乗務員(CA)の世界~

東京Crew倶楽部 ~客室乗務員(CA)の世界~

フライトにまつわることからCAたちのプライベートまで♪ 元ベテランチーフパーサーが語っています

スチュワードになって1年を過ぎた頃

上司に呼び止められた

「君にはモスクワ線を飛んでもらう」

 

モスクワ線が自主運航(1970年3月)になる

それは聞いていた

こちらはまだ新人の身

「えぇ~、私が・・・ですか」

 

ソ連政府は我が社に対して

60名の客室乗務員のみにビザを発給

ソ連ビザがない乗務員はモスクワ線を飛べない

 

当時、客室乗務員は

男女合わせて700~800名(現在8000名)

 

そんなことで、その年は

明けても暮れてもモスクワ線乗務

 

東京ーモスクワを乗務したら

モスクワで2,3泊

次の東京から来る便でパリかロンドンまで乗務

夕方に着いて

翌日朝にはモスクワへ向けて出発

またモスクワで宿泊

 

東京を出発して

東京に戻ってくるのに1週間

 

そして定宿はウクライナホテル

 

クレムリン広場(当時)

 

当時のソ連は社会主義の国

ホテル従業員は国家公務員みたいなもの

利用客に対して笑顔で挨拶などなし

それ何!っていう感じ

 

サービスという概念がまったくない国(当時)だった

 

ウクライナホテルは見るからに

ゴシック調の立派な外観

 

でも部屋に入ってビックリ

木製のベッド

マットは中央がへこんだまま

寝ると身体が沈み込んでしまう

 

一番ビックリしたのはトイレットペーパー

真四角にカットされた

薄い油紙みたいなものが置いてある

それをくしゃくしゃにして柔らかくして

お尻を拭く

 

次の乗務から

トイレットペーパーは持参

モスクワ線乗務に欠かせない必需品

 

他国のことは言えないかもしれない

日本も、貧しい時代は新聞紙で拭いていた

 

一番困ったのは食事

アメリカのホテルみたいに

気軽に食事できるコーヒーショップがない

あるのは正式なダイニングルームか

各階にある簡易的な食事ルーム

おばちゃんが貧弱なトーストにゆで卵

そして酢漬けニシンみたいなものを出してくれる

 

ダイニングでも食事をしてみた

ロシア料理は一度でいいかな

 

次回からは

日本で食料品や調理具を調達

生野菜から米まで持ち寄って

誰かの部屋に集まりみんなで料理

バスルームが炊事場

 

現地の食料品店に行っても

限られたものしか売っていない

とにかく食料不足

 

ソ連の人たちも同じ

食料を調達するのに苦労

 

ところがドルショップに行くと品物がある

でも現地通貨ルーブルは使えない

そこで闇ドルが横行

 

タクシーに乗ると運転手が

ドルを高く買うよと言ってくる

公定レートで交換するより2、3倍ルーブルが来る

 

でもルーブルを持っていても

買えるものがない

ホテルの土産物屋でマトリョーシカを買うぐらい

ひとつだけよい買い物ができたかな

それはチェコグラスのコップ

飾ってもよし、使っても頑丈で割れにくい

 

物資不足なので

チップ代わりに日本製品をあげると喜ばれた

ベッドメイキングのおばちゃんやボーイには

「スパシーバ」(ありがとう)と言いながら

チューインガムとかタバコとか百円ライター

 

スチュワーデスがストッキングをあげたら

飛び上がって喜んでいたらしい

 

もちろん1ドル紙幣も喜ばれた

でも当時の1ドルは360円

チップであげるにはちょっと・・・

 

70年代はそんな感じの国だった

 

1980年代中頃

ゴルバチョフ大統領はペレストロイカ政策

社会主義から自由経済へ

西側の資本もソ連に入り込んでいった

そしてエリツィン大統領による市場経済体制に移行

 

1991年にソビエト連邦からロシア連邦へ

ベルリンの壁が取り除かれた

 

T・K ♂

 

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「ショートヘアのみ・・・70年代後半までは」