“荒木村重”
荒木村重

信長は

‘光秀’の謀反に対し『是非に及ばず』と言った(口語訳 止む終えず…)

‘久秀’の謀反に対し一度ばかりか、二度までも許そうとした

そして、‘村重’の謀反に対しては…… “驚愕した!”


いずれも信長の“認める男達”ばかりだ


“荒木村重”

有岡城(伊丹城…現JR伊丹駅前)の城主、信長上洛後の家臣の一人である。

村重もまた、突如信長に反旗を翻した。足利義昭や石山本願寺とも近しい関係であったことと、伊丹が秀吉の播磨、光秀の丹波にとって重要な地点であった為、村重の反逆は両者を孤立させることもあり、戦略的にも高山右近や中川清秀などの協力を得、成功の可能性もありと見た為だろう(右近・清秀の寝返りがなければもしかすると…)、更に光秀同様、信長には恥辱を舐めさせられたこともある。

しかし、信長は村重の才能を認めて深く重用していた為、この謀反に“驚愕”し、翻意を促したが、村重はそれに応ずることなく、有岡に篭城の末、脱出し毛利に亡命。有岡に残った妻子一族は末子岩佐又兵衛を除き処刑。その後は千利休とも親交を持ち、茶の道へ。妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」(道端のウンコ)と名乗る。しかし、後に秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」と改名。

今回のブログの焦点! 過去の過ちを許す器量より、過去の過ちに許される器量の方が中々持てないのではなかろうか? 過去の過ちを許すと言われても、自責の念は生涯忘れられない…


信長は、危険であっても有能な人材は全て登用した、家康は有能であっても危険な人物は切り捨てた。この違いをどう解釈するかは読者の自由だが、歴史的には当然前者の方が断然おもしろい。

いつの世も人材登用は重要な… 言わば賭けでもある。


略歴

摂津国池田城主・池田長正の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として池田に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕えた。しかし織田信長が上洛してくるとその配下となる。智勇に優れており、信長からその才を認められて摂津一国を与えられ、茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。のち伊丹城主となる。その後も信長に従って、石山本願寺攻めなど各地を転戦し、武功を挙げた。

しかし、村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻した。一度は翻意し釈明のため安土に向かったが、途次寄った高槻城で家臣の高山右近から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となり、単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、ついで花隈城に移り、最後は毛利に亡命する。有岡城に残された妻子一族は末子の岩佐又兵衛ひとりを除いて、ことごとく京都で処刑された。


松永久秀
戦国時代、下克上と言う名のもとに謀反、反乱、裏切りが繰り返された

その中でも、この男ほど壮絶な最期を遂げた男はいないだろう

“松永久秀”

いわゆる“松永弾正”である

戦国、安土桃山時代期の時代劇では必ず悪の権化である

“仮面の忍者赤影”でも悪だった

でも実際の、久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も信貴山城近郊では名君として慕われている。しかし、教養人で茶湯の長けた部分では名物を多数所持しており名器平蜘蛛茶釜”や、他に“九十九髪茄子”も一時所持し、当時の茶人としての位置づけは非常に高いものであった。その教養と造詣が彼の最期にも大きく大きく影響するのであった。


この男の最期はあまりにも壮絶かつ劇的である!

最期を迎えるまでにも信長を裏切る過程があるが(あとに略歴)、久秀が信長に従って石山本願寺攻めに参加していた天正5年、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令にまたも背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。信長は織田信忠を総大将とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲させた。このとき久秀が所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば信長は助命すると言ってきたが、久秀は断固として拒絶

(織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で“久秀”だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていたことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったと思われる)

この為、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。

そして織田軍の攻撃が始まると、信貴山城天守閣で“平蜘蛛の茶釜”に爆薬を仕込み、そして茶釜と共に自爆した享年68。

歴史上、反乱の上、爆死というのは他に例を見ない

特に、この時代には到底考えられない…  あまりにも壮絶である

信長の強さを認め、更に信長の中に己を見たのか…

ある意味“光秀”をも超える謀反なのかも知れない…

信長が家康に久秀を紹介した時『この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍足利義輝暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である』と言って久秀を紹介したと伝えられている。これは侮辱というよりも、彼に一定の評価を与えていると受け止める方が賢明だろう。

歴史好きの中には、“松永久秀”のファンが意外に多いのも理解できる


今日のブログの焦点! この時代、誰が正義で誰が悪かは正直なところわからない、時代がそういう時代なのだ。しかし、“弾正”の最期をみてもわかるように、歴史に名を残す者の信念には壮絶なものがある


略歴

三好長慶の右腕として仕える。長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、長慶は久秀の才能を早くから見抜き、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。

その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が畿内を平定すると摂津滝山城主に任ぜられ、のち大和国信貴山城に移って居城とする。興福寺を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・三好義興と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。そして多聞山城を築城して移り住んだ。長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長し、久秀は主家の実権をめぐって対立する安宅冬康(長慶の弟)を長慶に讒言して、謀殺させた。冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。長慶が没すると、久秀は長慶の養子・三好義継を傀儡として三好三人衆と共に三好家を専断するようになった。長慶の死後、三好三人衆とともに三好義継の後見人となり、幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した(永禄の変)。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。1566年に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、1567年には三好三人衆とその同盟者の筒井順慶と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した(上芝の合戦)。10月、三好三人衆が立てこもった東大寺を攻撃して大仏殿を焼き払った。ただし、フロイスの「日本史」には三好方のキリシタンが放火したと記述されている。1568年、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。1570年、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、近江朽木谷の領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・足利義昭の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。1573年には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・武田信玄が病死して武田軍が甲斐に撤退し、織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、三好義継が河内若江城で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ

“片山東熊”

あまり知られた名前ではないが、

入試等では赤で太字の重要人物である。

今回は今ひとつ、話的にはおもしろくない。

名前はおもしろいが…


しかしあまり知られていない、

知る人ぞ知る有名重要人物として


紹介しようと思います。

片山東熊


日本近代建築の基礎を作り、日本の歴史上重要な人物が3人いる(日本史教科書的に)、まずお雇い外国人であった鹿鳴館で有名な“ジョサイア・コンドル”そして、その弟子“片山東熊”、日銀や東京駅を設計した“辰野金吾”である。建築物としては、“コンドル”や“辰野金吾”の方が個人的には好きなのだが、特に辰野金吾は“奈良ホテル”や“浜寺公園駅”など身近な建築物や温泉旅館なども設計している。しかし今回は中でも人間臭いエピソードを残す“片山東熊”にスポットをあてようと思う。


片山東熊(かたやまとうくま、嘉永61220日(1854118日)~1917年(大正6年)1024日)は明治期に活躍した建築家である。山口生まれ。工部大学校の建築学科第1期生。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか、公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。日本人建築家の養成を行うべく来日した、ジョサイア・コンドルの最初の弟子である。彼は工部省の役人であり、長州閥で“山県有朋”に可愛がられたこともあって、建築物が公的なものが多く特に宮廷建築を主としている。東宮御所いわゆる“赤坂離宮”、現“迎賓館”は彼の代表する建物だが…

ここで一つのエピソード。この赤坂離宮建設の為、欧米視察まで行ない心血注いで完成させたが、その報告をしに“明治天皇”のところへ行ったが、明治天皇に一言『贅沢すぎる』と言われその後、病に伏したという話がある。

赤坂離宮は日本で唯一のネオバロック様式の洋風建築物であり、本館の彩鸞の間(さいらんのま)室内はアンピール様式で、白い天井と壁は金箔が施された石膏の浮彫りで装飾されており、10枚の鏡が部屋を広く見せている。広さは約160m²。花鳥の間の室内はアンリー2世様式であり、腰壁は茶褐色のジオン材を板張りしていて重厚な雰囲気を醸し出している。広さは約330m²。まさに“贅沢”そのものである。


そこで今回のブログの焦点! あまり知られていないが、日本史の項目としては重要人物。こういう着眼点もおもしろいのではないか?ちょっとしたウンチクに役立てていただきたい。ここで紹介しとかないと一生出会えない人物かも…


ジョサイア・コンドル(Josiah Conder1852928 - 1920621日)はロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、辰野金吾・片山東熊ら、創生期の日本人建築家を育成し、日本近代建築界の基礎を築いた。のち民間で事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。


お雇い外国人(おやといがいこくじん)とは、幕末以降、明治初期に、日本の政府や各府県、民間において殖産興業のため欧米の技術や学問、制度の輸入のために、雇用した欧米人のことである。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)  エドワード・S・モース ウイリアム・スミス・クラーク ベルツ フルベッキ ボアソナード  ケプロン フェノロサ

キヨソネを知ってますか?

実は教科書の本文にはあまり載らず、教科書などに掲載の肖像画を描いた、イタリアからの印刷技術を指導する為の“お雇い外国人”…それが“キヨソネ”です。

教科書の肖像画の下に「キヨソネ画」って描いているのを見かけます

余談ですが“ビゴー” って知ってますか?

(答えは名前をクリックして下さい、この絵を描いた人です。教科書で見た事あるでしょう。「漁夫の利」という作品で日清戦争の風刺です。)

キヨソネもこんなスタンスで教科書に登場します

あえてキヨソネの略歴は描きませんが、ここでは彼が描いて波紋を呼んでいる一枚の肖像画について述べましょう


西郷隆盛
この超有名な肖像画は当然「西郷隆盛」です。

この絵は‘キヨソネ’が描いたものです。しかし、西郷どんは大の写真嫌い。龍馬の写真は数多く残っていますが、西郷隆盛の写真は不確定なものが一枚残っているだけで、ほとんど残っていません。歴史の時代から考えてもキヨソネと西郷隆盛とは面識はありません。…ということは、この肖像画はどのようにして描かれたものなのか?最近メディアでも取りだたされ少しだけ知られる話ではあります。実は西郷どんに似ていると言われた二人、実の弟“西郷従道”と従兄弟である“大山巌”の写真をモチーフにモンタージュ的に描いた肖像画なのです。

従道の目元に

西郷従道

がっしりしていた従弟・大山巌の顔つきを合成したものです
大山巌
上の写真は二人とも壮年期の写真であり、今一つ似てないですが、この二人をモチーフに描かれたのは事実です。それを象徴するエピソードも残っています。上野の西郷さんは、上の肖像画のままの雰囲気ですが、この銅像の落成式で、銅像の西郷さんの顔を見た西郷夫人、糸子さんは内の人と違うと叫んだそうです。


下の写真をクリックして拡大して見てください

ど真ん中後ろで、はすに構えたエラの人物

これが西郷隆盛ではないかと言う説もあります

でもこれが西郷どんなら、イメージかなり違うでしょ…
維新


今回のブログの焦点!歴史において先入観は非常に厄介なもの、

一回ついてしまったイメージは中々拭い去れない。

しかし真実は一つ、惑わされてはならない。

ただ、その真実がはっきりしないのも歴史…

惑わされ、悩まされてこそ歴史なのかもしれない…

エルトゥールル号遭難事件


エルトゥールル号

日韓共催WorldCupが行なわれ、その時“トルコ”の快進撃があったこともあり、少しはクローズアップされた日本の感動の歴史です


『日本人216名を救ったトルコ航空機』
イラン・イラク戦争が始まった1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を優先に乗せ、残りの席をトルコの人達に配分した。タイムリミットの1時間15分前のことであった。残ったトルコの人達は陸路トルコへ帰ったと言うから凄い。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」


エルトゥールル号遭難事件とは
エルトゥールル号は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、日本へ派遣されることとなった。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。しかし、エルトゥールル号は出港以来積もり積もった艦の老朽や物資・資金不足は限界に達していた。遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側は台風の時期をやり過ごすようにと勧めるも、制止を振り切って帰路についた。遭難事件はその帰途に起こった。1890(明治23)916日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。灯台守の通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され生還することができた。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おきしゅう)に伝えられ、沖は神戸港の外国領事館に援助を求めて生存者を神戸の病院に搬送させるよう手配するとともに、県を通じて日本政府に通報した。知らせを聞いた明治天皇はこの遭難に大いに心を痛め、政府として可能な限りの援助を行うよう指示したと伝えられる。こうして遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、品川湾から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちはオスマン帝国の首都イスタンブルに送り届けられた。エルトゥールル号の遭難はオスマン帝国の国内に大きな衝撃を呼び、新聞で大きく報道されるとともに、遺族への弔慰金が集められた。またこのとき、新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、当時のトルコの人々は遠い異国である日本と日本人に対して好印象を抱いたといわれている。 日本でもエルトゥールル号遭難事件は衝撃的なニュースとして伝わり、政府を通じて多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。茶道宗徧流の跡取り、山田寅次郎もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本の民間からエルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集まった義捐金を自ら携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに渡り、遭難者家族に手渡した。


エピソード2

日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続けて、同じくロシアの南下圧力にさらされる日本に対する親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。このとき日本海軍の英雄東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を子供につけることが流行したという。


エピソード3

イランイラク戦争の時の、なぜ『トルコ』助けてくれたか?の疑問に、
日本のダメ新聞社、朝日新聞は「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していることなどが影響しているのではないか」と、恥ずかしいあて推量を書いている

今日のブログの焦点! 日本人は自国の歴史を知らなすぎる
『トルコ』の人達に一礼し謝らねばならない
更に言えば、ついこの間まで『トルコ』と言えば『風呂』だった…情けない