エルトゥールル号遭難事件
日韓共催WorldCupが行なわれ、その時“トルコ”の快進撃があったこともあり、少しはクローズアップされた日本の感動の歴史です
『日本人216名を救ったトルコ航空機』
イラン・イラク戦争が始まった1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。そこに2機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を優先に乗せ、残りの席をトルコの人達に配分した。タイムリミットの1時間15分前のことであった。残ったトルコの人達は陸路トルコへ帰ったと言うから凄い。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミもわからなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」
エルトゥールル号遭難事件とは
エルトゥールル号は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、日本へ派遣されることとなった。横浜港に入港したエルトゥールル号の司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。しかし、エルトゥールル号は出港以来積もり積もった艦の老朽や物資・資金不足は限界に達していた。遠洋航海に耐えない老朽ぶりをみた日本側は台風の時期をやり過ごすようにと勧めるも、制止を振り切って帰路についた。遭難事件はその帰途に起こった。1890年(明治23年)9月16日夜半、エルトゥールル号は折からの台風による強風にあおられ、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になる大惨事となった。このとき、樫野埼灯台下に流れ着いた生存者は、数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせた。灯台守の通報を受けた
エピソード2
日露戦争が日本の勝利に帰すと、長らくロシアから圧力を受け続けて、同じくロシアの南下圧力にさらされる日本に対する親近感を高めていたオスマン帝国の人々は、東の小国日本の快挙としてこれに熱狂した。このとき日本海軍の英雄東郷平八郎提督にちなんでトーゴーという名を子供につけることが流行したという。
エピソード3
イランイラク戦争の時の、なぜ『トルコ』助けてくれたか?の疑問に、
日本のダメ新聞社、朝日新聞は「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化していることなどが影響しているのではないか」と、恥ずかしいあて推量を書いている
今日のブログの焦点! 日本人は自国の歴史を知らなすぎる
『トルコ』の人達に一礼し謝らねばならない
更に言えば、ついこの間まで『トルコ』と言えば『風呂』だった…情けない