“へうげもの”とは…

滑稽な、おどけたという方言である

‘古田織部’の好みによる織部焼は「ひょうげもの」とよばれるゆがみ、ひずみの美を重視した大胆な意匠によって個性を主張している


“古田重燃”

秀吉関白就任後、

“織部正(従五位下)”

位階が与えられる
へうげもの


武将としても織部は堅実に戦歴を重ねたが、武勲と言うよりも外交上の功績に負うところが少なくない。しかし彼をここまで有名に下のは信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者としての名声である。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休の弟子で利休七哲に挙げられる(他細川忠興・高山右近・芝山宗綱・瀬田正忠・蒲生氏郷 ・牧村利貞である。織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある)。織部が信長に一目おかれたのも個性的であり、その個性を十分に生かすことによって美的領域の逸した側面があったからであろう。壮年は利休の地位を継承し、豊臣家の筆頭茶人となった(秀吉は「利休の茶は町人の茶である。町人茶をば武家風、大名風に改革せよ」と織部に命じた。)その後も多くの大名たちの指導にあたり、大名茶を確立する一方、焼き物や茶室にもすぐれた才能を発揮した。朝鮮出兵後、家康との関係が政治的には密接になるが、侘びさびの解らぬ家康とは双方ともに馬が合うわけも無く、茶の湯を通しての朝廷、貴族、寺社、経済界との交流、果ては全国の大名にすら多大な影響力を与える存在になったため家康陣営から次第にその影響力・存在観を危険視されるようになり、最終的には“夏の陣”のあと切腹を命じられ、家財全て没収、一族全てに処罰という厳しい結果となる。しかし、織部の最期は「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに自邸で切腹した。

何とも男らしい男“古田織部”… 

最期の最期まで興に生きた男前だ

そこで、今回のブログの焦点! 

『君も“へうげて”生きてみないか?』



へうげもの


略歴
天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれる。織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。1567年、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕えた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年に結婚、妻せんの兄は摂津茨木城主中川清秀であった。清秀は当時の織部より身分の高い人物であり、信長が織部にある程度目をかけていたことがうかがえる。1576年には山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。その後も秀吉の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年秀吉が関白になると、織部正(従五位下)の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。その後、九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して活躍した。

1582年から千利休の書簡に織部の名前が見える。この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。1591年に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉の視線を恐れる中、織部と細川忠興のみが堂々と、利休の見送りを行った。その後利休の地位を継承するように、豊臣家の筆頭茶人となった。

1600年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。しかし師・利休と同じように権威に対しての反骨精神も旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通しての朝廷、貴族、寺社、経済界との交流、果ては全国の大名にすら多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康陣営から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615年の大坂夏の陣のおり、家来の木村宗喜が豊臣氏に内通し京に放火(混乱に乗じて家康暗殺を意図したとも)しようとしていたという疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられ、主君である織部も豊臣氏と内通、戦後に豊臣秀頼の遺児国松を匿ったなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後に切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害した。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。木村宗喜も処刑されている。大坂夏の陣の段階では徳川方が圧倒的優勢で豊臣方の滅亡は避けられない状況であり、この時期に敢えて織部が謀反を企てたとは考えにくい状況である。以前から織部(の権勢)を危険視していたと思われる家康陣営が、木村宗喜の一件を口実に織部を処断したと考えるのが自然である。また、織部にしてみれば、家康個人または徳川風と「趣味が合わない」事は決定的である。秀吉時代に対する郷愁も併せ、数寄者の美学が天下相手に最後の反骨行動、と捉えるのは織部を高評価し過ぎであろうか。

自らの趣味嗜好を確立させ、一つの流派に育て上げた。職人陶工らを多数抱え、彼らに創作活動をさせた。織部焼、織部流の創始者である。

参議院選挙は、大方の予想通り自民党の歴史的惨敗。形式的には民主党の勝利となったが、結局のところ国民の判断は、民主党支持ではなく、何ともだらしない自民党にムチを打ったと解釈するのが必然であろう。まだ今の民主党ではあまりにも役不足である。参議院選挙だからできた国民の逆襲であり、政権交代にかかわる衆議院選挙では、こうも容易に勝てるとも思えない。民主党も勝利に浮かれてる場合ではない
安倍総理も続投か?否か?安倍氏も中山参与と拉致問題に取り組んでいた時は輝いていた。しかし、その人気を利用され幹事長になったまでは良かったが、総理になってからの人事の失敗、年金問題等の数々の汚点は彼の輝きを薄く濁らせてしまった。もう少し毅然とした態度のとれる人物だと思っていたが… 残念である。
…ということで、この人


“岸信介”

岸信介

佐藤栄作の兄、そして今をときめく、いや今はときめかない安倍晋三の祖父。第56・57代総理大臣“岸信介”である。安倍晋三は祖父を尊敬している。しかし、祖父がA級戦犯容疑者(不起訴)であったが為、色々な事を言われたと言う… だから、尚更祖父を否定できない、尊敬しているのである。
ところで、岸信介…グレーな部分も多かったし、政治的には総理として“60安保”があり、激動の時期を演出してしまった。…が器のでかい政治家だった。これ以上は何も言うことはない。そういう人物もいるってことである。
今回のブログの焦点!平成期になってからは、昭和の時代以前のような、大きな政治家がメッキリ減ってしまった。クリーンにはなって来ているとは思う、しかし優秀な政治家はいるのだが、器を感じられる政治家に乏しい。毅然としたリーダーシップのとれる政治家が現れる事を期待したい。今からもっともっと厳しくなっていく “日本” の為に…

岸信介 きし のぶすけ 1896年 - 1987年
昭和期の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。第61代~第63代内閣総理大臣・佐藤栄作は弟。現首相安倍晋三は外孫に当たる。
戦前、満州で権力を握り、その後東條内閣商工大臣。戦後にA級戦犯容疑で逮捕され収監されたが、アメリカの方針が反ファシストから反共に転換したことから恩赦され政界復帰。総理在任中に日米安全保障条約への反対運動で総辞職したが、政界引退後も自民党内に影響力を持ち続け、「昭和の妖怪」の異名を持つ。政治姿勢は「タカ派」と評される。又統一教会や児玉誉士夫との密接な関係もあった。
生い立ち
山口市に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる。中学三年の時婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。第一高等学校 (旧制)を経て、1920年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。他の高校からやってきた者たちは2人の俊英ぶりに驚かされたという。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めるが岸は官界へ進み、農商務省を選択した。1930年代初め、北一輝の門下生となる。
日本の傀儡・満州国時代
1936年には、事前に商工省時代の部下である椎名悦三郎を送り込んで準備させておいた後、満州国国務院実業部総務司長に就任。計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5カ年計画」を実施。満州国時代には、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。文官として公式には満州第二のであったが、事実上の「満州国の統治者」である「二キ三スケ」のひとりである。岸は後に「満州国は私の作品」と述べており、満州で果たせなかった夢を戦後の日本で実現させようとすることになる。戦後の高度経済成長に一役買った満州人脈には政界では椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、国鉄総裁になった十河信二らがおり、他に経済企画庁、通産省にもいた。
商工次官就任
1939年、商工次官に就任する。間もなく、総務庁次長に就任。 1940年に発足した第2次近衛内閣に商工大臣として入閣を進められたが、辞退。商工大臣には阪急電鉄オーナーである小林一三が就任する。
東條政権入閣
1941年に発足した東條内閣に、商工大臣として入閣し、東條内閣にいる間は太平洋戦争中の戦時経済の元締となった。1942年のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出す。1943年、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃止され、軍需省へと改組された。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東條との関係に溝を生じさせた。1944年にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸内府と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の打倒と、戦争終結内閣実現の工作が密かに進められた。同年には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は要求を受け入れ、内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職を主張する。東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れず、更に申し合わせていた重臣らが入閣を拒否。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。1945年、翼賛政治会から替わった護国同志会を率いる。
戦犯容疑者から復権まで
1945年に太平洋戦争が終結すると、故郷・山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監される。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカが対日政策を大きく転換。戦後の日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、右翼であってもアメリカの反共に協力的な人物を復権させたため、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日の1948年12月23日に釈放されるが、「公職追放」に遭う。収監中、佐藤栄作に手紙で「軍人は情けないものでいつ殺されるか震え上がっているが、私は夢精ばかりして困る。自分で下着を洗うのが情けない」と書き送り、後年も80歳を過ぎてなお愛人を囲い、朝からステーキを食するという「昭和の妖怪」らしいエピソードを残している。1952年、長女洋子が毎日新聞社記者の安倍晋太郎と結婚する。同年、公職追放が解除されると、4月には「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、「日本再建連盟」を設立、自ら会長に就任した。1953年、日本再建連盟の選挙大敗によって自由党に入党、「自由党」公認候補として衆議院選挙に当選。主な右翼と同盟を結び抜け目なく中央舞台へ進んだ。1954年吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発し、自由党を除名される。11月に鳩山一郎と共に「対米自立、自主憲法制定」などを掲げて、「日本民主党」を結成し、幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同し、これによっていわゆる「55年体制」が到来する。1956年 自民党総裁選に立候補するが、鳩山一郎に敗れる(岸4票、鳩山394票)。
岸内閣誕生
956年 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れる(岸251票、石橋258票) が、外務大臣として石橋内閣に入閣する。2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され、第4回党大会・総裁公選で第3代自由民主党総裁に選出される。石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。1958年に衆議院を解散。第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、第57代内閣総理大臣に就任し、第二次岸内閣が発足する。当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改定案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争において、日教組を封じ込める策として、教職員への勤務評定の導入を強行した。すると、これに反発する教職員により、いわゆる「勤評闘争」が起こった。この他には、最低賃金制や国民年金制度といった社会保障制度の導入も実施した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張。
60年安保騒動
岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意する。しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどる。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼る。連日デモ隊に包囲され、大統領来日の準備をするために来日した特使、ハガティ新聞係秘書(大統領報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎに。国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生する。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の三人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワー米大統領の訪日を中止せざるを得ない状況となった。岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳はこれを拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。天皇が調印した。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
日韓国交回復
内閣を辞職した岸であったが、その後も政界に強い影響力を持ち、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国とか関わりをもったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。日韓国交回復後、韓国には経済協力のために日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。岸・椎名・瀬島らは日韓協力委員会を作り、後に韓国利権と指摘される日韓癒着疑惑につながる。また、彼らは日韓の反共政策を支持した「統一教会」にも好意的で、教祖文鮮明が「国際勝共連合」を結成することにも協力している。当時、野党である社会党は北朝鮮を支持しており、日本の二大政党が共に朝鮮半島と癒着関係を持つに至った。
晩年
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。1972年第3次佐藤内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙う。自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆する。1979年の衆議院解散を機に、派閥を福田赳夫に譲り、政界を引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され、日本人初の国連平和賞を受賞。晩年は、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し、積極的な発言を続けた。死ぬまで自民党内での影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕とも呼ばれた

阿弖流爲

アテルイと読みます

ご存知でしょうか?

人名です

日本史上有名なのは、彼を討った坂上田村麻呂です。そうです。征夷大将軍に任命されて、蝦夷征伐に行った坂上田村麻呂の敵対の蝦夷軍の将、それが阿弖流爲(アテルイ)です。続日本紀では悪鬼として書かれています。朝廷方が書いた日本書紀に始まる六国史の内の『続日本紀』に書かれて在ることゆえ、当然逆賊ということになりますからね。今回のブログの焦点! 私の言いたいことは簡単なことです。坂上田村麻呂は日本の歴史上ヒーローです、が方や阿弖流爲(アテルイ)は歴史上は悪鬼です。でも単純に考えて見てください。蝦夷(当時は東北地方を指す)で平和に暮らしていた人々に、西国から急にやってきて武力で侵攻。そこで、立ち上がった阿弖流爲(アテルイ)。でもそれは必然であり、どっちが悪かは明白。現在に置き換えて見ましょう。地方分権の声が上がる中 中央に対する地方の自立を肯定するのは一般社会では常識。(地方への財源と権限が曖昧な為、まだまだ程遠いが…) 民主主義の無い時代において、権力者が武力を使うのは、当時の時代背景からは致しかたないところではあるかも知れないが、この場合東北で暮らしてきた人達にとってはたまったもんじゃない阿弖流爲(アテルイ)は救世主だったに違いない。大体この後、この征夷大将軍と言う名をもらうが為、どれだけの戦が行なわれてきたか、そしてこの征夷大将軍と言う名はいかがなものか、まして江戸時代になると征夷と言う意味に全く意味をなさなくなる。蝦夷を征討するということイコール将軍? 正義と悪の歴史的な異論は果てしなく多い。ただ一言付け加えると、坂上田村麻呂は中々の優れ偉人である、この時代に珍しく蝦夷軍を完全討伐という形ではなく被害増大を防ぐ為、降伏を受け入れ、討伏という形で京に連れ帰っている。…がしかし結果、朝廷はこれを許さず彼等を処刑してしまったが…

真田幸村

真田幸村

日本歴史上の武勇伝で

この人物に勝るものは

誰一人いないであろう…


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徳川家康を震撼させた…

その男の名は 『真田幸村』


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ただ実際のところ、幸村の活躍は“大阪の陣”のみである、それ以前の真田の武勇は父“真田昌幸”が全てである。こんな話がある。豊臣・徳川の関係が悪化し秀頼の命で真田軍が大阪城へ入城したことを、家康が聞き、家康は体の振るえが止まらなかった…(家康は昌幸に2度大敗を喫している)が、父昌幸が病死しており、子の幸村が入城したことを知り、体の振るえは止まり落ち着いたとされる。それほど、幸村は格下に見られていたと言うことだ。ただ、今まで武功のないことと、九度山の惨めな生活自体が真田幸村を発奮させ、そこに花道を用意してくれた“秀頼”への感謝の意が断然不利な状況下での豊臣方への忠誠を誓うことにつながる。父の武功に追いつけ追い越せそういう気持ちもあったのであろう。しかし冬の陣での活躍で、今度は家康は息子幸村に脅威し、勧誘を始める。10万石を用意しようとしたのだ、しかしそれを幸村は退ける。すると今度は、信濃一国の領土を与えると法外な条件を出してくる、しかし幸村はそれにも応じず、秀頼への忠臣を貫く。少の人数で智略をめぐらし勝利する、真田伝統の戦略を家康は恐れたということである。そして、夏の陣が始まり、豊臣方の配色が濃厚になる中、真田軍は徳川本陣までせまり、家康にほぼ覚悟を決めさせるところまで追い詰めたが、土壇場、数の優劣には及ばず、敗北という形で終止符を迎える。豊臣直参の幸村に対するやっかみもあり、幸村としても大阪の陣は戦い辛い部分もあった、先の冬の陣の幕引きを豊臣方上層部がもう少しキッチリとし、更に夏の陣においても豊臣上層部がしっかりしておれば、結果は変わっていたかもしれない …と思う。


そこで今回のブログの焦点 彼の強者への反骨、彼の武将としての緻密な戦略、そして武人としての誇りは偉大なものであった。実際のところは武士としての死に場所を大阪の陣に求めただけなのかもしれないが、ただそれであっても、彼の利害にとらわれず、死を覚悟してとれる六文銭の旗印を持っての戦いは、失われかけた武士としての尊厳を身を持って現した本物のサムライだったのだろう。ただ数の優劣での戦い方ではなく、智略を張り巡らした彼と彼の父の戦い方にも注目したい。それ以降ダルダルとした江戸が始まるゆえ、ラストサムライの称号は彼に与えてもよいのかもしれない…


真田十勇士の話もあり、幸村は根強い歴史ファンがいるが、十勇士に関しては架空の人物もおり、脚色も濃いので信憑性は少ない。ちなみに私は歴史占いでは“猿飛佐助”型人間であると出ている


真田信繁
一般には真田幸村の名で知られている。武田信玄の家臣、真田幸隆の孫
1575年信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国と信濃国を治める武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北した。この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い甲府を離れ上田に移る。そして信繁も真田を称するようになる。1582年、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。同年信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉氏・後北条氏・徳川など周辺の諸大名の傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている(この頃真田氏は徳川家康と所領争いをし、豊臣秀吉の仲介で和解するも、遺恨を残している)。昌幸は最終的に豊臣秀吉の傘下に入ったために秀吉の下に留まり、豊臣氏の恩を受ける。また、信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎えている。
関ヶ原の戦いでは西軍につき敗北し九度山へ。この時はまだ父昌幸が指揮をとっていた。しかし、方広寺事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、秀頼の命を受け九度山を脱出して大坂城に入城した。しかし信繁自身についてはそれまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。
1614年に始まる大坂冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城三日月形のを築き、鉄砲隊を用いて徳川方の攻撃を一身に受けて奮戦した。しかし、この真田丸を造る際、大阪方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめる事となる。
翌年の大坂夏の陣では、伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で果敢に戦い、一時的に後退させた(道明寺の戦い)。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していく。信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀君に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまった為、作戦を断念せざるを得なくなった。そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃については真田軍のみの突撃ではなく左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。真田軍は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田軍の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという)。これにより、奇しくも家康は武田縁の武将に二度馬印を倒されたこととなる。しかし、最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。享年49。信繁討死の翌日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わり、信繁最後の野望も戦場に消えたのである。

葛飾北斎


葛飾北斎

言わずと知れた浮世絵版画の第一人者

世界的にも影響を及ぼした日本人の

一人である

富士を題材にした、有名な『富嶽三十六景』をはじめ数多くの作品を残しているが、この作品を見て欲しい 『諸国名橋奇覧』の“三河の八つ橋”である 

(クリックして拡大)
三河の八つ橋

何か気付く点はなかろうか?…




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葛飾北斎

1760年 - 1849年、江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師の一人である。森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。葛飾派の祖となり、ゴッホなど印象派絵画の色彩にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

その功績は海外で特に評価が高く、1999年雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に日本人でただ一人、ランクインした。



橋、風景等は遠近法が使われているが、不思議なことに人物に関しては全て同じ大きさに描かれている。更に言えば笠や蓑の茶色が妙に浮き上がって見える…   

そうです。 一番右の蓑から笠を一つずつ線でつないでいくと“北斗七星”が浮かび上がるのです。

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北斗七星

“北斎”は数度名前を変えているが、“北斎”直前は“辰政”。 “北”と“辰”、北辰とは北極星、又は北斗七星なり。古くからの妙見信仰は真言密教の仏様であり北極星又は北斗七星を象徴として天空の中心をつかさどる仏様の「妙見さん」として信仰されてきましたが、北斎も妙見信仰者の一人でありました。


どうしても歴史というもの、自分の得意分野に偏ってしまいます

とは言え…できるだけ時代をまんべんなく書き綴ろうと努力してきましたが、

興味の薄い時代を書き綴るのは難しい…