“へうげもの”とは…
滑稽な、おどけたという方言である
‘古田織部’の好みによる織部焼は「ひょうげもの」とよばれるゆがみ、ひずみの美を重視した大胆な意匠によって個性を主張している…
“古田重燃”
秀吉関白就任後、
“織部正(従五位下)”の
武将としても織部は堅実に戦歴を重ねたが、武勲と言うよりも外交上の功績に負うところが少なくない。しかし彼をここまで有名に下のは信長、秀吉、家康、秀忠に仕えた武将でありながら、天下一の数寄者としての名声である。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。千利休の弟子で利休七哲に挙げられる(他細川忠興・高山右近・芝山宗綱・瀬田正忠・蒲生氏郷 ・牧村利貞である。織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある)。織部が信長に一目おかれたのも個性的であり、その個性を十分に生かすことによって美的領域の逸した側面があったからであろう。壮年は利休の地位を継承し、豊臣家の筆頭茶人となった(秀吉は「利休の茶は町人の茶である。町人茶をば武家風、大名風に改革せよ」と織部に命じた。)その後も多くの大名たちの指導にあたり、大名茶を確立する一方、焼き物や茶室にもすぐれた才能を発揮した。朝鮮出兵後、家康との関係が政治的には密接になるが、侘びさびの解らぬ家康とは双方ともに馬が合うわけも無く、茶の湯を通しての朝廷、貴族、寺社、経済界との交流、果ては全国の大名にすら多大な影響力を与える存在になったため家康陣営から次第にその影響力・存在観を危険視されるようになり、最終的には“夏の陣”のあと切腹を命じられ、家財全て没収、一族全てに処罰という厳しい結果となる。しかし、織部の最期は「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに自邸で切腹した。
何とも男らしい男“古田織部”…
最期の最期まで興に生きた男前だ
そこで、今回のブログの焦点!
『君も“へうげて”生きてみないか?』
略歴
天文13年(1544年)、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれる。織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。1567年、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕えた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年に結婚、妻せんの兄は摂津茨木城主中川清秀であった。清秀は当時の織部より身分の高い人物であり、信長が織部にある程度目をかけていたことがうかがえる。1576年には山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。その後も秀吉の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年秀吉が関白になると、織部正(従五位下)の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。その後、九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して活躍した。
1582年から千利休の書簡に織部の名前が見える。この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。1591年に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉の視線を恐れる中、織部と細川忠興のみが堂々と、利休の見送りを行った。その後利休の地位を継承するように、豊臣家の筆頭茶人となった。
1600年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。しかし師・利休と同じように権威に対しての反骨精神も旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通しての朝廷、貴族、寺社、経済界との交流、果ては全国の大名にすら多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康陣営から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615年の大坂夏の陣のおり、家来の木村宗喜が豊臣氏に内通し京に放火(混乱に乗じて家康暗殺を意図したとも)しようとしていたという疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられ、主君である織部も豊臣氏と内通、戦後に豊臣秀頼の遺児国松を匿ったなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後に切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害した。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。木村宗喜も処刑されている。大坂夏の陣の段階では徳川方が圧倒的優勢で豊臣方の滅亡は避けられない状況であり、この時期に敢えて織部が謀反を企てたとは考えにくい状況である。以前から織部(の権勢)を危険視していたと思われる家康陣営が、木村宗喜の一件を口実に織部を処断したと考えるのが自然である。また、織部にしてみれば、家康個人または徳川風と「趣味が合わない」事は決定的である。秀吉時代に対する郷愁も併せ、数寄者の美学が天下相手に最後の反骨行動、と捉えるのは織部を高評価し過ぎであろうか。
自らの趣味嗜好を確立させ、一つの流派に育て上げた。職人陶工らを多数抱え、彼らに創作活動をさせた。織部焼、織部流の創始者である。