真田幸村

真田幸村

日本歴史上の武勇伝で

この人物に勝るものは

誰一人いないであろう…


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徳川家康を震撼させた…

その男の名は 『真田幸村』


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ただ実際のところ、幸村の活躍は“大阪の陣”のみである、それ以前の真田の武勇は父“真田昌幸”が全てである。こんな話がある。豊臣・徳川の関係が悪化し秀頼の命で真田軍が大阪城へ入城したことを、家康が聞き、家康は体の振るえが止まらなかった…(家康は昌幸に2度大敗を喫している)が、父昌幸が病死しており、子の幸村が入城したことを知り、体の振るえは止まり落ち着いたとされる。それほど、幸村は格下に見られていたと言うことだ。ただ、今まで武功のないことと、九度山の惨めな生活自体が真田幸村を発奮させ、そこに花道を用意してくれた“秀頼”への感謝の意が断然不利な状況下での豊臣方への忠誠を誓うことにつながる。父の武功に追いつけ追い越せそういう気持ちもあったのであろう。しかし冬の陣での活躍で、今度は家康は息子幸村に脅威し、勧誘を始める。10万石を用意しようとしたのだ、しかしそれを幸村は退ける。すると今度は、信濃一国の領土を与えると法外な条件を出してくる、しかし幸村はそれにも応じず、秀頼への忠臣を貫く。少の人数で智略をめぐらし勝利する、真田伝統の戦略を家康は恐れたということである。そして、夏の陣が始まり、豊臣方の配色が濃厚になる中、真田軍は徳川本陣までせまり、家康にほぼ覚悟を決めさせるところまで追い詰めたが、土壇場、数の優劣には及ばず、敗北という形で終止符を迎える。豊臣直参の幸村に対するやっかみもあり、幸村としても大阪の陣は戦い辛い部分もあった、先の冬の陣の幕引きを豊臣方上層部がもう少しキッチリとし、更に夏の陣においても豊臣上層部がしっかりしておれば、結果は変わっていたかもしれない …と思う。


そこで今回のブログの焦点 彼の強者への反骨、彼の武将としての緻密な戦略、そして武人としての誇りは偉大なものであった。実際のところは武士としての死に場所を大阪の陣に求めただけなのかもしれないが、ただそれであっても、彼の利害にとらわれず、死を覚悟してとれる六文銭の旗印を持っての戦いは、失われかけた武士としての尊厳を身を持って現した本物のサムライだったのだろう。ただ数の優劣での戦い方ではなく、智略を張り巡らした彼と彼の父の戦い方にも注目したい。それ以降ダルダルとした江戸が始まるゆえ、ラストサムライの称号は彼に与えてもよいのかもしれない…


真田十勇士の話もあり、幸村は根強い歴史ファンがいるが、十勇士に関しては架空の人物もおり、脚色も濃いので信憑性は少ない。ちなみに私は歴史占いでは“猿飛佐助”型人間であると出ている


真田信繁
一般には真田幸村の名で知られている。武田信玄の家臣、真田幸隆の孫
1575年信繁が9歳の時、真田氏の主家で甲斐国と信濃国を治める武田勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北した。この際、父・昌幸の2人の兄も亡くなったため真田家は昌幸が継ぐこととなり、信繁は父に付き従い甲府を離れ上田に移る。そして信繁も真田を称するようになる。1582年、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻で武田氏が滅亡すると、真田氏は織田信長に恭順した。武田遺領の分割が行われ、真田氏は所領を安堵された。同年信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ、信長という後援が無くなった真田氏は、所領を守るために上杉氏・後北条氏・徳川など周辺の諸大名の傘下に入っては離れてを繰り返した。この際に当主の息子である信繁は、人質として諸大名の下を転々としている(この頃真田氏は徳川家康と所領争いをし、豊臣秀吉の仲介で和解するも、遺恨を残している)。昌幸は最終的に豊臣秀吉の傘下に入ったために秀吉の下に留まり、豊臣氏の恩を受ける。また、信繁は豊臣秀吉の家臣である大谷吉継の娘を正妻に迎えている。
関ヶ原の戦いでは西軍につき敗北し九度山へ。この時はまだ父昌幸が指揮をとっていた。しかし、方広寺事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化、秀頼の命を受け九度山を脱出して大坂城に入城した。しかし信繁自身についてはそれまで真田氏の次男坊として父・昌幸や兄・信之の名声に隠れていたために評価は低く、徳川家康も昌幸ではなく、その息子で無名の信繁が大坂に入ったと知り安堵の表情を浮かべたとされている。
1614年に始まる大坂冬の陣で信繁は、当初籠城に反対し、京を抑え、宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策と決すると、信繁は大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城三日月形のを築き、鉄砲隊を用いて徳川方の攻撃を一身に受けて奮戦した。しかし、この真田丸を造る際、大阪方の他の武将は信繁が徳川方に寝返るための下準備と疑っており、少々ながらも警戒していた。この時は越前松平勢、加賀前田勢等を撃退し、真田昌幸の息子という扱いではなく、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめる事となる。
翌年の大坂夏の陣では、伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で果敢に戦い、一時的に後退させた(道明寺の戦い)。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。豊臣軍は後藤基次や木村重成などの主だった武将が討死し、疲弊していく。信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀君に阻まれ失敗する。豊臣氏の敗色が濃厚となる中、信繁は最後の作戦を立てる。それは豊臣方右翼として真田軍、左翼として毛利勝永軍を四天王寺・茶臼山付近に陣形し射撃戦と突撃を繰り返し家康の陣形に対し本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだった。しかし毛利隊の前面諸将が勝手に射撃を開始してしまった為、作戦を断念せざるを得なくなった。そして正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行した。この突撃については真田軍のみの突撃ではなく左翼から攻める毛利勝永、明石全登らも奮闘し家康本営に肉薄した、勝永は本多勢を蹴散らし、何度か本営に突進したといわれる。真田軍は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田軍の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという)。これにより、奇しくも家康は武田縁の武将に二度馬印を倒されたこととなる。しかし、最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを襲われ、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。享年49。信繁討死の翌日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害、太閤秀吉の誇った大坂城も落城し炎上。ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わり、信繁最後の野望も戦場に消えたのである。