参議院選挙は、大方の予想通り自民党の歴史的惨敗。形式的には民主党の勝利となったが、結局のところ国民の判断は、民主党支持ではなく、何ともだらしない自民党にムチを打ったと解釈するのが必然であろう。まだ今の民主党ではあまりにも役不足である。参議院選挙だからできた国民の逆襲であり、政権交代にかかわる衆議院選挙では、こうも容易に勝てるとも思えない。民主党も勝利に浮かれてる場合ではない
安倍総理も続投か?否か?安倍氏も中山参与と拉致問題に取り組んでいた時は輝いていた。しかし、その人気を利用され幹事長になったまでは良かったが、総理になってからの人事の失敗、年金問題等の数々の汚点は彼の輝きを薄く濁らせてしまった。もう少し毅然とした態度のとれる人物だと思っていたが… 残念である。
…ということで、この人


“岸信介”

岸信介

佐藤栄作の兄、そして今をときめく、いや今はときめかない安倍晋三の祖父。第56・57代総理大臣“岸信介”である。安倍晋三は祖父を尊敬している。しかし、祖父がA級戦犯容疑者(不起訴)であったが為、色々な事を言われたと言う… だから、尚更祖父を否定できない、尊敬しているのである。
ところで、岸信介…グレーな部分も多かったし、政治的には総理として“60安保”があり、激動の時期を演出してしまった。…が器のでかい政治家だった。これ以上は何も言うことはない。そういう人物もいるってことである。
今回のブログの焦点!平成期になってからは、昭和の時代以前のような、大きな政治家がメッキリ減ってしまった。クリーンにはなって来ているとは思う、しかし優秀な政治家はいるのだが、器を感じられる政治家に乏しい。毅然としたリーダーシップのとれる政治家が現れる事を期待したい。今からもっともっと厳しくなっていく “日本” の為に…

岸信介 きし のぶすけ 1896年 - 1987年
昭和期の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。第61代~第63代内閣総理大臣・佐藤栄作は弟。現首相安倍晋三は外孫に当たる。
戦前、満州で権力を握り、その後東條内閣商工大臣。戦後にA級戦犯容疑で逮捕され収監されたが、アメリカの方針が反ファシストから反共に転換したことから恩赦され政界復帰。総理在任中に日米安全保障条約への反対運動で総辞職したが、政界引退後も自民党内に影響力を持ち続け、「昭和の妖怪」の異名を持つ。政治姿勢は「タカ派」と評される。又統一教会や児玉誉士夫との密接な関係もあった。
生い立ち
山口市に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる。中学三年の時婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。第一高等学校 (旧制)を経て、1920年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。我妻栄、三輪寿壮や平岡梓(作家・三島由紀夫の父)たちとは同期だった。高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄とは常に成績を争った。他の高校からやってきた者たちは2人の俊英ぶりに驚かされたという。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めるが岸は官界へ進み、農商務省を選択した。1930年代初め、北一輝の門下生となる。
日本の傀儡・満州国時代
1936年には、事前に商工省時代の部下である椎名悦三郎を送り込んで準備させておいた後、満州国国務院実業部総務司長に就任。計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5カ年計画」を実施。満州国時代には、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介など、軍部・財界の知己を得た。文官として公式には満州第二のであったが、事実上の「満州国の統治者」である「二キ三スケ」のひとりである。岸は後に「満州国は私の作品」と述べており、満州で果たせなかった夢を戦後の日本で実現させようとすることになる。戦後の高度経済成長に一役買った満州人脈には政界では椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、国鉄総裁になった十河信二らがおり、他に経済企画庁、通産省にもいた。
商工次官就任
1939年、商工次官に就任する。間もなく、総務庁次長に就任。 1940年に発足した第2次近衛内閣に商工大臣として入閣を進められたが、辞退。商工大臣には阪急電鉄オーナーである小林一三が就任する。
東條政権入閣
1941年に発足した東條内閣に、商工大臣として入閣し、東條内閣にいる間は太平洋戦争中の戦時経済の元締となった。1942年のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出す。1943年、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃止され、軍需省へと改組された。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東條との関係に溝を生じさせた。1944年にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸内府と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の打倒と、戦争終結内閣実現の工作が密かに進められた。同年には、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條に対して、木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は要求を受け入れ、内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否し、内閣総辞職を主張する。東條の側近である四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ、「叩き斬ってやる!!」と恫喝するも岸は折れず、更に申し合わせていた重臣らが入閣を拒否。やむなく東條は、7月18日内閣総辞職を決意した。1945年、翼賛政治会から替わった護国同志会を率いる。
戦犯容疑者から復権まで
1945年に太平洋戦争が終結すると、故郷・山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に笹川良一、児玉誉士夫らと共に収監される。しかし、冷戦の激化に伴い、アメリカが対日政策を大きく転換。戦後の日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、右翼であってもアメリカの反共に協力的な人物を復権させたため、岸は戦犯不起訴となり、東條ら7名の処刑の翌日の1948年12月23日に釈放されるが、「公職追放」に遭う。収監中、佐藤栄作に手紙で「軍人は情けないものでいつ殺されるか震え上がっているが、私は夢精ばかりして困る。自分で下着を洗うのが情けない」と書き送り、後年も80歳を過ぎてなお愛人を囲い、朝からステーキを食するという「昭和の妖怪」らしいエピソードを残している。1952年、長女洋子が毎日新聞社記者の安倍晋太郎と結婚する。同年、公職追放が解除されると、4月には「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、「日本再建連盟」を設立、自ら会長に就任した。1953年、日本再建連盟の選挙大敗によって自由党に入党、「自由党」公認候補として衆議院選挙に当選。主な右翼と同盟を結び抜け目なく中央舞台へ進んだ。1954年吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発し、自由党を除名される。11月に鳩山一郎と共に「対米自立、自主憲法制定」などを掲げて、「日本民主党」を結成し、幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同し、これによっていわゆる「55年体制」が到来する。1956年 自民党総裁選に立候補するが、鳩山一郎に敗れる(岸4票、鳩山394票)。
岸内閣誕生
956年 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れる(岸251票、石橋258票) が、外務大臣として石橋内閣に入閣する。2ヶ月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務める。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名され、第4回党大会・総裁公選で第3代自由民主党総裁に選出される。石橋内閣が総辞職すると、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。1958年に衆議院を解散。第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、第57代内閣総理大臣に就任し、第二次岸内閣が発足する。当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改定案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争において、日教組を封じ込める策として、教職員への勤務評定の導入を強行した。すると、これに反発する教職員により、いわゆる「勤評闘争」が起こった。この他には、最低賃金制や国民年金制度といった社会保障制度の導入も実施した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張。
60年安保騒動
岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意する。しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどる。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼る。連日デモ隊に包囲され、大統領来日の準備をするために来日した特使、ハガティ新聞係秘書(大統領報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎに。国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生する。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の三人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワー米大統領の訪日を中止せざるを得ない状況となった。岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳はこれを拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。天皇が調印した。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
日韓国交回復
内閣を辞職した岸であったが、その後も政界に強い影響力を持ち、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国とか関わりをもったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。日韓国交回復後、韓国には経済協力のために日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。岸・椎名・瀬島らは日韓協力委員会を作り、後に韓国利権と指摘される日韓癒着疑惑につながる。また、彼らは日韓の反共政策を支持した「統一教会」にも好意的で、教祖文鮮明が「国際勝共連合」を結成することにも協力している。当時、野党である社会党は北朝鮮を支持しており、日本の二大政党が共に朝鮮半島と癒着関係を持つに至った。
晩年
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。1972年第3次佐藤内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙う。自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆する。1979年の衆議院解散を機に、派閥を福田赳夫に譲り、政界を引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され、日本人初の国連平和賞を受賞。晩年は、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し、積極的な発言を続けた。死ぬまで自民党内での影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕とも呼ばれた