自分の立ち位置を知る方法とは?? | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

Holger DetjeによるPixabayからの画像

 

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

自分の立ち位置とだけ言いますと、

ちょっと抽象的過ぎて、

範囲自体が、広過ぎてしまうものではありますが・・・・・・・、

 

自分の立ち位置ってものは、

肩書きってものとは、

=では無いとも言えますし、

 

もっと言えば、

 

肩書き=役割って問題も、

決して、そればかりでは無いって事も、

世の常ではありますし、

 

肩書きだけの問題であれば、

所謂、

 

ポジショントークってものが、

先行しガチにもなり、

 

肩書き=責任問題ではあるけれども、

 

肩書き=専門性かどうかって問題には、

甚だ疑問が残るもんでもある事でしょう・・・・・・・・。

 

 

 

即ち、

 

専門性を語る場合においては、

 

その本人の実績の如何ってものが、

問われるもんでもあり・・・・・・、

 

もっと言えば、

 

専門性を語る場合において、

 

その本人が、普段から、

どのような行いを行って、

日々の手頃な結果、もしくは、

小さな結果を、積み上げているのか??って事の、

 

証拠となりうるようなものが、

必要にもなってくるもんではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

 

それの一番わかり易い例としては、

 

普段行っている、仕事の業務、

もしくは、

 

仕事、趣味、生活習慣を問わずに、

「どのようなスキルを持ってして、どのような事を行っているのか??」

 

もしくは、

 

「どのようなスキルを行使し続けているか??」って事を、

提示出来れば、

 

その本人の、

その専門性を語る為、

もしくは、

 

その専門性の、必要最低限の、

納得を得る為の下準備が、整うものでもある事でしょう・・・・・!!

 

 

 

上記の事によって、

理解可能な事っていうのは・・・・・・・、

 

何よりも、

 

その語る本人の、

専門性の高さ、もしくは、深さとも言えるだろうし、

 

勿論、

 

その専門性が高い、もしくは、深い領域まで行っている程、

その信憑性が高まるものでもあり、

 

その方がより良いとは言えるのでしょうが、

 

それでも、

このような、

 

情報発信者の在り方としては、

 

決して、

 

その専門性が高いとは言えなくても、

もしくは、

 

その専門性ってものが、深い領域まで行っているわけじゃあ無くても、

 

それはそれで、

 

何かの専門性ってものを、

語る資格としては、

必要最低限の資格を、持ち得るものともなるのです。

 

 

 

それって言うのは、

結局は、

 

普段から行っている、

もしくは、

 

習慣付けているって事自体が、

 

少なくとも、

 

「話を聞いてみよう。」って意味では、

必要最低限の、信頼を生む事にも繋がるだろうし、

 

まぁ、

少なくとも、

 

当事者の生の意見ってものは、

聞く事が可能になるだろうし、

 

そこが嘘ばかりの相手とは、

はっきり言って、

 

話をすればする程、

 

マイナスの縁気が展開されてしまうとも言えるだろうし、

 

マイナスの価値の循環でもある、

 

負のスパイラルの、入り口にもなりかねないでしょうから・・・・・・・、

 

ビジネスライクなやり取り以外では、

出来うる限り、接点を持たないように心がける事もまた、

 

より良い人生でもあり、生活を、

展開して、謳歌して行く為には、

必要不可欠なものとはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

それらを踏まえて言いますと、

 

自分の立ち位置とは、

結局は、

 

普段から習慣付けている事を、

踏まえた上で、

 

何かの専門性もしくは、

何かのテーマを語っていく事によって、

出来上がって行く、

 

自分でこそ、自分ならではの、

姿勢でもあり、スタンスでもあり、

はたまた、

 

構えのようなものとも言えるものではありますね??

 

 

 

それは結局は、

 

自分の立ち位置とは言いますが、

 

何も、場所や位置取りってものが、

固定化されてしまうものだけじゃあ無くて、

 

本来の意味的に言えば、

 

どのような場所に行っても、

 

もしくは、

 

どのような人たちと関わったとしても、

それを応用・流用させる事によって、

取って行くであろう・・・・・・・、

 

もしくは、

 

取らざるを得なくなるであろう・・・・・・、

 

「在りたい自分。」ってものによって、

決定されて行くものではあるのでしょうね。

 

 

 

そのような、

「在りたい自分。」ってものが、

明確化されていればいる程、

 

その人にとっての、

 

関わる人や、関わる場所によって、

場所や位置取りに関連する、

立ち位置ってものは、

 

絶えず変化するものとも言えるでしょうが、

 

絶えず変化するけれども、

その、

 

「在りたい自分。」ってものには、

一貫性ってものが、生まれる事にはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

それはある意味、

その、

 

「在りたい自分。」ってものを、

逆算的に、現実的に、

導き出しているものとも言えるでしょうし、

 

だからが故に、

そこに、

 

頑張って行く要素が生まれる、

 

頑張らざるを得ない要素が生まれるとも言えますが、

 

その頑張り楽しさや、充実感が伴うそこに成長要素が存在するが故に、

 

それは、客観的には、

努力には映っても、

 

その本人にとっては、

 

RPGゲームのようなものにはなっている事でしょうね・・・・・・・。

 

 

 

 

まぁ、

 

そのRPGゲームのようなものには、

 

筋トレ等の、訓練的なものや、

トレーニング的なものをも、

含まれているでしょうし、

 

そこに数値化出来る要素が存在していれば、

 

例え、

 

現状維持の繰り返しのように見えても、

 

その数値を積み上げて行った結果によって、

それは、

 

主観的に見れば、

成長しているように、見えてきちゃうものでもあるのです。

 

 

 

・・・・・・・し、

 

実際、微差の領域で成長しているはずだろうし、

 

数をこなすって事自体が、

結局は、

 

わかりにくい領域でもある、

 

とても小さな領域、とても細かい領域においての、

成長を実感して行く為には、

必要不可欠な要素にはなってくるのでしょうね。

 

 

 

要するに、

 

そのような、

 

数値化が可能なものを、

数をこなす事って言うのは、

 

一種の結果だろうし、

また、

 

とても小さな領域の進化でもあり、とても細かい領域の進化を測る際には、

 

その数の結果を持ってして、

判断するのが、

一番、確実なものとはなるだろうし、

 

まぁ、

 

何事も、1万時間行えば、

達人の領域に入るとも言うでしょうから・・・・・・、

 

どれだけボンクラで、無能であったとしても(笑)、

 

その数は、

 

必要最低限の、信用を測る際には、

無視出来ないものとなるでしょうが、

 

まぁ、

 

1万時間行う為には、

恐らく、

 

ただただ、単純明快に繰り返すだけじゃあ、

難しいものでもあるだろうし、

 

だからが故に、

 

色んなノウハウやエンタメ的なものが、

売り出されている事でしょうし、

 

その、1万時間を達成する為にも、

 

同じ、単純作業の繰り返しだけじゃあ無くて、

 

試行錯誤を含めた上での、

自分自身を楽しませる、充実させる為の、

やり方があるだろうし、

 

それは、

その、

 

1万時間を達成する専門性を、

更に細分化した上で、

 

専門スキルとして、

分野として分ける、もしくは、

種目として分けて行く・・・・・・・って事にもなってくるのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

 

ただただ、単純作業として認識した上で、

 

それでも、

 

それを行うだけで、楽しさや、充実感が存在するって方は、

 

そのまま繰り返せば良いとも言えるでしょうが、

 

それを分析してみれば、

それは、

 

ただただ、ひとまとまりの全体像として見て、

単純化して見ているに過ぎなくて、

 

実は、

 

それを行っている際には、

 

毎回、テーマを変えて、

別の意識で行っているからこそ、

 

そこに飽きがこないものとも言えるだろうし、

 

もしくは、

 

同じ意識で行う、

もしくは、

 

同じフォームであり、同じ姿勢であり、同じ構えで行っているのに、

 

そこに、

楽しさや、充実感=成長要素が存在するのであれば、

 

それは、

その、

 

同じフォームであり、同じ姿勢であり、同じ構えを、

色んな物事に、応用・流用する事によって、

 

少しづつでも、

場数を増やして行っているからこそ、

 

それでも、

 

新しい視点が出来上がる事によって、

飽きってものが、こないものなのでしょう・・・・・・!!

 

 

 

上記の2パターンの方法論は、

要は、

 

好きな事や、楽しい事を続ける=自分軸を貫くって事に、

他ならないものではありますが、

 

その両方が、ケースバイケースで必要となるだろうし、

 

それを持ってして、

 

他人軸に陥るんじゃあ無く、

 

自分軸として、物事を、推し進めて行ける事にはなるものでしょうし、

 

それを意識的に行う事によって、

 

自分の立ち位置ってものを、

見失うことは無いでしょうね。

 

 

 

 

けれども、

そのような、

 

楽しさベースや、充実感ベースで、

物事を測れる人って言うのも、

 

どうも、

 

人を選ぶ傾向があるものでして・・・・・・、

 

逆に、

 

他人軸ベースで、成長要素を求めて、

物事を測る方が、

 

楽しさや、充実感に、到達する人も結構、

 

多数派として存在していることもまた、

事実なのかも知れません・・・・・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

どちらにせよ、

 

結果的に言えば、

 

楽しい、充実する成長要素を見出す事が可能って点で言えば、

同じではあるのですが・・・・・・・、

 

両方ともに言えるのは、

 

楽しい、充実するで満足するとか、

成長要素を見出して満足するとか、

 

どちらか片一方で、

止まっていては行けないものであるのでしょうね・・・・・・。

 

 

 

両方ともが、

 

その先を追求して行けば、

必ず、

 

繋がって関連するものであると言えますから、

 

楽しい、充実するならそれで、

 

それを分析して、成長要素を見出す必要性があるだろうし、

 

成長要素が存在する物事であれば、

 

それを、

 

努力とか、死に物狂いで、

借金を背負っているが如く、

命を狙われているが如く行うんじゃあ無くて・・・・・・(苦笑)、

 

成長要素が存在するのであれば、

 

それは、楽しさや、充実感が存在していて当たり前と思って、

そのように行って行く必要性がある・・・・・・って事でもある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

ま、

単純明快に言っても、

 

成長したのに、成長した実感が存在しているのにも関わらずに、

 

苦しそうな人とか、

鬼のような形相の人って言うのは、

 

ちょっと何かがオカシイものでもあり、

 

何処かに、

嘘が存在しているのもまた、

 

当たり前でしょうが、

 

まぁ、

 

マトモな人間であれば、

それは、

 

隠す事自体が、難しいものでもあり、

 

要は、

 

成長の実感と言う意味での、

経験不足な人であるとも言えるだろうし、

 

もしくは、

 

成長の実感を得るまで、

そ〜と〜苦しみ続けてきた、

ちょっと悲しい人なのかも知れませんね・・・・・・・。

 

 

 

・・・・・・とは言うて見たもの、

それも、

 

個人的に、一人から行うスキルであれば、

別に、

 

人にアピールする必要性もありませんし、

 

自分で把握した上で、

それを続けて行けば良いとも言えるでしょうが、

 

まぁ、

 

その楽しさや、充実感ってものは、

確実に、

周りの人には伝わっている事でしょう・・・・・・!!

 

 

 

それは、

勿論、

 

その行為自体が、万人にとって、

 

楽しさや、充実感に繋がるかどうか如何よりかは、

 

その感情自体が、伝染するとも言えるでしょうか。

 

 

 

その感情を持ってして、

 

「何を行うか??」って問題は、

その当人の問題であるとも言えるだろうし、

 

まぁ、

 

同じ行いをトレースするのであれば、

 

その成長要素にフォーカスした上で、

数を重ねる事により、

 

成長を実感し、楽しさや、充実感を、

湧き上がらせるって事が、

重要になり、

 

そのサイクルを繰り返す事によって、

 

それを行うだけで、

楽しい、充実するって事に、

なってくるものではあるのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

また、

楽しさや、充実感ってものは、

ただ単に、

 

その強さだけを求めるものでも無いものかも知れません。

 

 

 

即ち、

 

「それがあるか無いか??」って事が、

重要な要素でもあり、

 

ただ単に、

 

その強さだけを求めて、

 

それが長続きしないとか、

それを再現する事自体が難しい状態であれば、

 

それは、

何処か、過剰な状態であるのかも知れません。

 

 

 

過剰な刺激を求め続けると、

どんどん、

 

その楽しさでもあり、充実感ってもの自体の、

感度の敷居が高くなる事によって、

 

「それがあるか無いか??」の、

無い領域が、広がって行く事にもなっちゃう事でしょうから・・・・・・・、

 

それの強さ如何よりかは、

 

それの持続力とか、再現性にこそ、

拘る必要性があり、

 

正に、

 

0→1の領域を、繰り返すようなサイクルが、

相応しいものとはなるかと。

 

 

 

まぁ、

単純に数値化してみましたが、

 

果たして、

 

1で楽しいとか、充実しているとか、

思えるかどうかは、

僕自身も疑問が沸くものでもありますし(苦笑)、

 

それは、ある種の、

 

達人の領域の話にもなっちゃうので、

 

0→3もしくは、0→5くらいにしておいた方が、

無難なのかも知れませんが・・・・・(笑)。

 

 

 

3もしくは、5を目指して再現し、

尚且つ、

それを持続させて行くイメージでしょうか。

 

 

 

ある意味、

 

集中力との勝負ではありますが、

 

少し休めば、

 

また、再現していけるものでしょうし、

 

楽しさや、充実感ってものは、

 

それを実際に感じて、

表現としてアウトプットして行けばいくほど、

それをまた、再現し易くなって行くものでもあるでしょうし、

 

要は、

 

楽しさや充実感の、敷居が低くなって行くものでもあるだろうから、

 

楽しさ、充実感と言った、

感情先行の人も、

 

成長要素先行の人も、

 

どちらの場合においても、

 

楽しさや充実感を、噛み締めれるような、

表現=アウトプットが望まれるものでもあるでしょうから、

 

人がど〜こ〜言うよりかは、

 

主観的に、

 

しっくりくる、表現=アウトプットが望ましいものとなるでしょうし、

 

それを真似から入る人であっても、

 

求めて行くのは、

 

例え、

 

真似から入ったとしても、

自分でこそ、自分ならではの表現=アウトプットとはなる事かと。

 

 

 

要は、

 

細かい部分や、細部の部分には、

ある種のテキトーさが必要になるとも言えるでしょうが、

 

そのテキトーさにこそ、

 

数をこなした上での、

テクニックが宿って行くものかと。

 

 

 

 

一体、何の話をしているのか、

良くわからない事になってきましたので、

この辺で・・・・・・(笑)。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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