剣の形代(つるぎのかたしろ) 142/239 | いささめ

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 鎌倉幕府は源頼朝という上流貴族が鎌倉に滞在し、その上流貴族の周囲に多くの御家人が集まって形作られている組織として誕生している。

 そのトップにある人間が、権大納言も経験した正二位征夷大将軍から正五位下左近衛中将に交替したのである。これから先、鎌倉幕府はどうすればいいのか、鎌倉幕府の御家人達はどうすればいいのか、明確な回答を示すことのできる者はいなかった。

 もっとも困惑を少なくする方法は、これまで源頼朝が果たしてきた職務を源頼家が引き受けることである。位階も役職も低いが、何と言っても源頼朝の実の子であり、後継者であると内外に喧伝されていた人物だ。若さと経験不足は否定できないが、他の者がトップに立つよりは理解を得られやすい。

 中断していた吾妻鏡の記事も、建久一〇(一一九九)年二月六日に、源頼家が左近衛中将に出世したことと、源頼朝の果たしてきた地方の治安維持の役割を源頼家が鎌倉幕府の御家人達を指揮することで果たすよう土御門天皇からの命令があったことからはじまる。

 この命令を受け、政所に北条時政、中原広元、三浦義澄、源光行、三善康信、八田知家、和田義盛、比企能員、梶原景時、二階堂行光、平盛時、中原仲業、三善宣衡が集結し、土御門天皇の命令を遂行することを決めた。

 なお、気になるのは政所が存続していたことである。政所を設置できるのは皇族ないしは三位以上の貴族に限定されており、これまでは正二位の貴族である源頼朝がいたから政所が鎌倉にあっても何ら問題なかったが、今はもう源頼朝がいない以上、本来ならば政所を存続させることはできないはずである。ただ、そのあたりのことはクリアしていたであろう。何しろ鎌倉には中原広元がいるのだ。百戦錬磨の貴族達と対等に渡り合ってきた冷徹な人間が政所別当として君臨しているのである。政所から公文所に変更となるがトップである別当の地位は中原広元が今後も継承するという交換条件を朝廷が提示してきたとしても、職掌を減らすような提案を受け入れるわけはない。中原広元のことだから、上級貴族である人物が突然の死を迎えたため、後継者がまだ上級貴族ではないという貴族の家でも政所は存続しているという論陣を張るのはあり得る話だ。

 源頼朝の後継者が源頼家であるという認識は京都でも成立しており、特に後鳥羽院政でのキーパーソンとなっている土御門通親が藤原摂関家と対抗しうる人物として源頼家を考えたようで、そもそもまだ正五位下である源頼家が左近衛中将に就いたというのはかなり異例な話であった。前例が無いわけではないが、その特権を行使できたのは藤原摂関家だけというのがこの時代の人達の認識であり、源頼家が左近衛中将に就いたのは土御門通親のゴリ押しと見られていた。

 土御門通親の本名は源通親である。一見すると同じ源氏として源頼家を厚遇したのかと思えてしまうが、土御門通親は源氏の中でも名門中の名門である村上源氏、一方、源頼家は村上源氏よりはるかに格下と扱われていた清和源氏。清和源氏にとっての村上源氏とは、同じ源氏ではないかという言葉を主張しても、武力でこの国のトップに立っても、財力を手に入れていても敵わない相手である。村上源氏にとっての清和源氏は利用可能な格下でしかなく、源頼家も土御門通親にとっては駒の一つだったのである。土御門通親は、さすがに源頼朝は利用できるなどという相手ではなかったが、経験の浅い一九歳の源頼家であれば利用可能と考えたのだ。

 

 

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