剣の形代(つるぎのかたしろ) 143/239 | いささめ

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 源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠いものであった。

 特に後鳥羽院の周辺警護の物々しさは際立っており、土御門通親が自らの身を守るために後鳥羽院に身を寄せたのも、土御門通親への不満を増すことにつながるものの身の安全のためにはやむをえないことと納得されてもいた。

 そんな中、建久一〇(一一九九)年二月一一日に左馬頭である源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。名目的には左衛門尉を務めるほどの有力な武官に警護を務めてもらうというものであったが、その中には讃岐守護を務めるほどの有力な御家人である後藤基清もいたことから騒然となった。

 源隆保も土御門通親と同じく、源姓ではあるが清和源氏ではなく村上源氏である。しかし、源頼朝とは全くの赤の他人というわけではなく、源隆保の母と源頼朝の母が姉妹であるため、源隆保と源頼朝とは従兄弟同士にあたる。源頼朝も源隆保が自分と従兄弟同士であることは把握しており、建久六(一一九五)年に上洛したときに源頼朝は源隆保と面会し、源隆保も源頼朝の石清水八幡宮への参詣時に同行している。

 その源隆保が、武士達を自分の元に集めている。

 これが一つの噂を生み出した。

 源隆保が土御門通親の暗殺を狙っているという噂である。

 本当に源隆保が土御門通親の暗殺を企んだのは本当かどうかわからない。だが、このときの京都は土御門通親のことを許さないとする雰囲気が漂っており、どうにかして土御門通親を処罰すべしという空気が生じていたのである。そこに飛び込んできた、源頼朝とは従兄弟同士にあたる人物の突然の武士の招集の知らせ。土御門通親に対する処罰は願うが自分で処罰をするつもりなどはなく、誰かがやってくれないかと考えているところで飛び込んできたニュースは当時の庶民を熱狂させた。

 ただ、執政者としては看過できない状況である。特に、暗殺されるのではないかと噂されている土御門通親と、土御門通親を匿っている後鳥羽院にとっては許容できることではない。

 さらにタイミングの悪いことに、源隆保が自邸に武士を集めた翌日である二月一二日に鎌倉幕府から、京都の混迷を鎌倉でも把握できていること、混迷下において土御門通親を支持する方針であることの書状が届くと、一気に源隆保に対する支持が反発に変わった。土御門通親を積極的に支持するわけではないが、土御門通親への反発心を隠さないと鎌倉幕府の手が伸びてくると恐怖が誕生したことで、土御門通親の暗殺を企んでいると噂されるようになった源隆保に関係することが命の危機につながるようになってしまったのだ。

 

 

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