剣の形代(つるぎのかたしろ) 141/239 | いささめ

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 建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせは京都を混迷に陥らせたらしく、特に土御門通親への反発は強かったようで土御門通親は二二日に後鳥羽院のもとに避難せざるを得なくなっている。

 現在と違ってこの時代の庶民に参政権など存在しないが、だからといって政治に無関心だなどということはない。いつの時代でも人は多かれ少なかれ政治的な意思や意見を持っており、その意思や意見に基づいて行動している。庶民が政治と無縁であると考えているのは民主主義での敗者だけだ。自分の暮らしへの危機感を強めれば強めるほど、政治的な意見を発し、政治的な行動をとるようになる。ただし、組織化されていなければ各々がどうにかしようと動き出し、収拾が付かなくなる。このあたりは関東大震災直後の自警団を思い浮かべていただければ御理解いただけるであろう。平時からすれば物騒で、非論理的で、全く同意できない行動であるが、今から一〇〇年前を思い浮かべるだけで、自警団のような存在を生み出してしまうだけの混迷は、どの時代も、どの社会にも、日常と背中合わせで実在している。そして、あのときと似た混迷は建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせのときにも発生してしまった。源頼朝の突然の死の知らせはまさに危機以外の何物でもなかったのだ。源平合戦とその途中の養和の飢饉、そして木曾義仲の劫略は忘れようとしても忘れることのできない悪夢であり、源頼朝はそれらの悪夢を取り払ってくれた人なのだ。その人が何の前触れもなく亡くなってしまったというのだから、平然していられるほうがおかしい。

 誰もが安寧を求め、誰もが正解を求めようとしているとき、噂は生まれる。一月二四日には土御門通親の右近衛大将拝賀が来月二日に開催されるという噂が流れ、一月二六日にも具体的な噂の内容は不明だが京都市中で噂が跋扈し、多くの庶民がそれぞれに身を守ろうとしたため京都内外が不穏な情勢になった。一月二七日には院中警固に加えて女房らの避難が行われたとあるから、源頼朝の死という大ニュースは相当な混乱を招いたのであろう。

 この動揺のピークは一月二九日に訪れた。今は亡き一条能保とともに京都の守護を担ってきており、このときはたまたま鎌倉に戻っていた掃部頭中原親能が近いうちに上洛し、その後ただちに処置がとられるという噂が流れ、さらに関東から武士達が次々と上洛するという話が広まったことで不穏さは増す一方であった。誰もが混迷に打ち震え、唯一明らかな共通敵として認識できる土御門通親への憎しみが増していく一方であった。土御門通親に対して危害を加えたところで、あるいは土御門通親が命を落としたところで源頼朝が生き返ることなどないのだが、それでも土御門通親への憎しみを集中させていれば不安を一時的にごまかすことができるのだ。土御門通親は命を奪われたわけではないものの、籠もって身の安全を守らなければならなくなったのである。

 藤原定家はこのときの京都市中の庶民の様子を「このところたくさんの人が私財を積んで京都から逃げようとするも、逃げる宛もなく途方に暮れている」とした上で、こう結んでいる。「心中皆臆病か」と。

 藤原定家は臆病と記したが、実際にはそうではない。庶民は政治的な行動を見せはするものの、単独で攻撃的な行動を起こすことは滅多にない。攻撃的な行動を選ぶ集団で、集団になれないなら守備的な行動に終始するのが通例だ。

 なぜか?

 攻撃的な行動というのはその多くが犯罪である。集団心理が働いて暴走することはあっても、個々となったならば、暗殺にしろ、暴行にしろ、それは犯罪であると認識できるし、犯罪に手を染めたあとで生きていけるかどうかを考える余裕も出てくる。後は野となれ山となれという感情にまで陥らない限り、庶民の見せる政治的な行動とは自分の守りに入ることなのだ。攻撃的な行動に対する幻想を持つことはあるが、それは自分以外の誰かがすることであり、自分のすることではないというのが通常だ。

 

 

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