剣の形代(つるぎのかたしろ) 137/239 | いささめ

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 鎌倉幕府の圧力が利いて興福寺の強訴が鎮静化した。

 この事実は朝廷に、そして後鳥羽院政に対する一つの現実を突きつけることとなった。

 鎌倉幕府の武力はどうあっても無視できなくなっているという現実である。

 この現実と向かい合うために採るべき選択肢は三つ。

 一つは鎌倉幕府からの要望に譲歩する。

 二つ目は鎌倉幕府に対する配慮を示す。

 三番目は鎌倉幕府に頼らぬ道を探る。

 この三つは併存できる。

 ただし、三つのうち一つは検討の段階で止まっていたはずである。一番目の鎌倉幕府からの要望、すなわち、源頼朝の娘である三幡の入内である。なお、建久九(一一九八)年時点では入内に対する朝廷からのアクションは確認できず、次年度の記録から、検討の段階で止まっていると推測できる。つまり、この時点では断言できない。

 残る二つは断言できることである。建久九(一一九八)年一一月二一日、鎌倉幕府に対する配慮として、源頼家が従五位上から正五位下へと昇叙したのである。なお、このときに源頼家を左近衛中将へ昇進させるという案も出たようであるが、右近衛権少将留任となっている。

 そして三つ目であるが、これは悪手であった。土御門天皇の大賞会も終わった一一月二七日、摂政近衛基通が興福寺の僧綱以下三〇名を御所に集め、和泉守平宗信に対して播磨への配流と命じると同時に、大衆の強訴を煽った僧である玄俊も佐渡への配流とするという処分を示したのである。なおこの段階では朝廷の正式な処分ではなく後鳥羽上皇の示す院宣であり、正式な朝廷からの裁決は一二月にまでずれ込んだ。もっとも、時期がずれ込んだだけで院宣の内容が覆されるようなことはなく、一二月一六日に平宗信が配流、さらに一二月二〇日には興福寺の別当を雅縁に交替するという策に出た。ちなみに、雅縁は土御門通親の兄であり、後鳥羽上皇の近臣の僧侶の一人でもある。

 こうして色々とあった建久九(一一九八)年も、何だかんだ言って平穏に終わる、そう誰もが考えていた。

 関東でのビッグニュースさえなければ文字通り平穏であったろう。

 建久九(一一九八)年一二月二七日、源頼朝、落馬。意識不明の重体となる。

 

 

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