剣の形代(つるぎのかたしろ) 138/239 | いささめ

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 鎌倉幕府の御家人の一人である稲毛重成は、北条政子の亡き妹を妻としていたことから源頼朝とは義兄弟の関係にあたる。その稲毛重成が、亡き妻を供養するために相模川に橋を架け、その落成記念の供養を開催したのが建久九(一一九八)年一二月二七日のこと。相模川への架橋によって交通の利便性が増すことが期待されるため、落成記念の供養に源頼朝も参列することで源頼朝が直々に来るほどに重要な建設なのだとアピールすることにつながり、供養もイベントとして盛大に執り行われた。

 問題はその帰路で起こった。

 馬に乗って鎌倉へと戻る途中、源頼朝が突然、馬上から崩れ落ちた。

 あまりにも突然の出来事であるために、源頼朝のこのときの様子は様々な人が様々な説を述べている。中にはそもそも落馬などなく、源頼朝が浮気相手の女性のもとに向かい、浮気相手の女性の夫に手を掛けられたという説まである。

 また、吾妻鏡に建久七(一一九六)年から建久九(一一九八)年までの記事が全く無いこともあり、源頼朝のこのときの出来事について吾妻鏡から知ることはできない。厳密に言えば吾妻鏡にこのときの源頼朝の記録もあると言えばあるのだが、それは一三年後の建暦二(一二一二)年のことであり、三代将軍源実朝のもとに相模川への架橋を求める請願が届いたこと、その場所はまさに源頼朝が落馬した場所であり縁起の悪い場所ということで橋を求める人は多いものの橋を架けることができずにいることを記している。さらに記すと、吾妻鏡にあるのは源頼朝が落馬したという記録のみで、その後の源頼朝についての記録は存在しない。吾妻鏡の次の記録は建久一〇(一一九九)年二月であるため、源頼朝の落馬から翌年一月までの様子を吾妻鏡から追いかけることはできない。

 その代わりに記録を見つけることができるのが、京都の貴族の日記である。

 藤原定家の日記によると、源頼朝が亡くなった日付と急死であろうという憶測が記されているだけで死因の詳細は記していない。

 摂政近衛基通の息子である権大納言近衛家実の日記だと、源頼朝は重度の飲水病、すなわち糖尿病になり命を落としたとある。ただし、あくまでも噂であるとして断定はしていない。

 吾妻鏡の三年間の欠落があるため源頼朝の動静は乏しいものとなるが、その乏しい記録から追いかける限りでは、誰一人として建久九(一一九八)年の年末まで源頼朝が亡くなるなど考えていなかったことが読み取れる。ゆえに、源頼朝の死は突然のことであったというのは確実に言える。

 当時の記録から確認できるのは、以下の三点。

 建久九(一一九八)年一二月二七日に源頼朝が落馬し、同時に意識不明の重体となる。

 建久一〇(一一九九)年一月一一日に源頼朝が出家。この時点で鎌倉幕府では源頼朝の死がそう遠くない未来に起こることであるとの共通認識ができあがる。

 建久一〇(一一九九)年一月一三日、源頼朝、死去。享年五三。

 

 

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