剣の形代(つるぎのかたしろ) 136/239 | いささめ

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 後鳥羽院政に武力無し。

 この知らせが広まっただけでも、およそ五〇年間、はじめは平家の武力の前に、その後は鎌倉方の武力の前に沈黙させられていた寺社勢力の武装デモが勢いづくようになった。

 朝廷内の理論上の武力のトップである左近衛大将は関白近衛基通の息子である二〇歳の権中納言近衛家実であるため、朝廷が武力を発動させることも困難とするしかない。

 後鳥羽上皇が院宣を発して比叡山延暦寺の問題を解決してからわずか一〇日後には、奈良の興福寺の大衆が和泉国司の流罪を求めて武装蜂起する予定であるとの通達が飛び込んできた。何しろ武装蜂起の理由が和泉国における後鳥羽上皇の熊野詣における負担への反発であり、その負担を負わせた和泉国司を流罪にしろというのだから、武装蜂起自体は物騒であるものの、要求そのものはムチャクチャと評するほどのものでもない。和泉国での問題なのにどうして大和国の奈良からニュースが飛び込んできたのかであるが、その理由は単純明白で、負担させられた土地の中には奈良の興福寺の所有する荘園も含まれていたのだ。

 これは院政というシステムの常であるが、大問題が起こったときに矢面に立たされるのは、治天の君たる上皇や法皇ではなく、朝廷である。さすがに未だ幼い土御門天皇が矢面に立つことはないが、朝廷の貴族達が矢面に立たされることとなる。

 このときも内裏において何度も議場が繰り返され、権大納言土御門通親、権中納言検非違使別当源通資、参議源兼忠、参議葉室宗頼の四人が軸となり、さらにここに権大納言藤原頼実、権大納言吉田経房、権中納言四条隆房らも定期的に加わって興福寺の動きを牽制するための話し合いが行われた。

 さすがにこの状況下では後鳥羽上皇も出歩くことはできず、建久九(一一九八)年一〇月三日には予定していた蓮華王院の惣社祭への御幸を取りやめている。

 このとき鎌倉の源頼朝がどのような思いでいたのかは吾妻鏡の欠落によって詳しく知ることはできないが、慈円の愚管抄によると、問題解決のために三度目の上洛を九条兼実に打診していたことが読み取れる。目先の解決でなく抜本的な解決を源頼朝は考えていたのであろう。しかし、議定に吉田経房が絡んでいるとはいえ、朝廷の下した選択は興福寺に対する譲歩である。

 建久九(一一九八)年一〇月一六日、和泉守平宗信の解官と、平親宗の和泉国知行国の権利剥奪が宣告された。これで朝廷としては騒乱を未然に収束させることができたと考え、後鳥羽上皇も問題は解決したと考えて一〇月二〇日に延暦寺の鎮守である日吉社に御幸したのである。

 ところが、後鳥羽上皇が日吉社への御幸に発った翌日である一〇月二一日に興福寺から返ってきたのは、平宗信の国司罷免ではなく平宗信の流罪を求めるというものであった。その上、平宗信の流罪が受け入れられないのであれば一一月一日に強訴を決行するという最終通告まで寄せられたのだ。

 結論から記すと、興福寺からの最終通告は白紙撤回された。

 ただし、白紙撤回の理由は朝廷と興福寺との間で妥協案が成立したからではない。遠く離れた鎌倉から興福寺に対して最後通告が送られたからである。名目は、土御門天皇の大嘗会が控えている以上、強訴は取りやめるべきであるという主張である。その名目は興福寺が黙り込むに充分であったが、理に従ったわけではない。後鳥羽上皇が鎌倉幕府との関係を築き上げるのに失敗しているのは事実でも、鎌倉幕府が騒擾を黙って見ているわけではないという圧力が奈良まで届いたのである。

 

 

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