剣の形代(つるぎのかたしろ) 77/239 | いささめ

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 さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。

 入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そもそも後鳥羽天皇の元には九条兼実の娘である任子が嫁いでおり、文治六(一一九〇)年四月には中宮となっている。なお、後に中宮任子が妊娠していることが判明するが、建久六(一一九五)年三月時点ではまだ判明していない。それでも正式な中宮がいる天皇のもとに入内させるのは難しく、源頼朝の権力でもどうこうなるレベルではないのが実情だ。

 そのあたりのことを理解していない源頼朝ではない。あるいは、源頼朝だからこそ難航するもののチャレンジすることが許されるのであり、そうでなければそもそもチャレンジすることすら許されないとするべきか。

 では、どのようにチャレンジし、難航に立ち向かったのか?

 建久六(一一九五)年三月一四日、源頼朝らが京都へと到着。それから中一日を挟んだ三月一六日の夜、源頼朝が宣陽門院覲子内親王を拝謁した。覲子内親王は後白河法皇と高階栄子との間に生まれた女児であり、後に後白河法皇から長講堂領を相続したことから百八十箇所の荘園領主となったという文句なしの有力者であったが、経済的には有力者であっても政治的権力はお世辞にも大きなものではなかった。何しろこのときまだ数えで一五歳、現在の学齢で行くと中学二年生だ。その年齢で、資産だけはあるものの世の中から無視される人生を過ごしてきたのである。

 そんな宣陽門院を源頼朝は拝謁したのだ。

 後述することになるが、宣陽門院は長講堂領を相続したものの、九条兼実の圧力もあってその全てを漏れなく相続できているわけではなく、この時点でも最低七箇所の荘園が、事実上の非荘園となってしまっていた。かと言って、相手は九条兼実だ。未だ一五歳の少女にできることなどたかが知れている。宣陽門院は抵抗らしい抵抗もできずに黙っているしかなかったのが現状であった。

 というタイミングで源頼朝がやってきた。宣陽門院としては、源頼朝のことを好ましく捉えたであろう。

 なお、拝謁したのは源頼朝一人ではなく、妻の北条政子も一緒である。源頼朝の女癖の悪さを危惧した可能性もあるが、北条政子が娘を後鳥羽天皇のもとに嫁がせようと考えたとき、源頼朝の持つ権力よりも、娘を持つ母の懇願のほうが効力を発揮することもある。

 鎌倉幕府の面々が御所を訪問することができたのは、それから一三日を経た三月二七日になってからのことである。上級貴族でもある源頼朝であるのに、それも宣陽門院覲子内親王への拝謁を経たにもかかわらず、一三日を要したのだ。しかも吾妻鏡にあるのは誰が源頼朝とともに参内したのかという記録であり、源頼朝が内裏でどのような行動を執り、どのような成果を得たのかという記録は無い。

 三月二九日、宣陽門院の母である丹後局こと高階栄子を六波羅に招くことに成功し、大姫を紹介することにも成功した。プレゼントを贈ることで高階栄子の関心を引くことにも成功した。もっとも、高階栄子自身は中原広元を通じて鎌倉方と連絡を取り合う関係であったため、もともと好意的であった関係をさらに好意的にすることに成功したともいえよう。

 

 

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