覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 272/272 | いささめ

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 源頼朝という一個人を軸とする鎌倉方から、征夷大将軍という皇位継承と深く結びついた存在を軸とする鎌倉幕府となったことで、正二位の位階を持つ貴族である源頼朝という個人に由来する鎌倉方の統治機構も、征夷大将軍という存在に由来する統治機構へと昇華させる必要が生じた。

 征夷大将軍の役職を手に入れた源頼朝が最初に手を付けたのが政所の改定である。これまでの政所は正二位の位階を持つ貴族であるために設置が許されている政所であるのに対し、建久三(一一九二)年八月五日を以て征夷大将軍の官職に付随する政所となった。

 政所を構成する役人の面々は八月四日以前と八月五日以降とで違いは無い。しかし、政所の発給する書状の署名は変わることとなった。これまでは源頼朝の名と花押の記載であったが、八月五日以降は政所家司の署名と花押の記載のみとされたのである。ただし、御家人達はこの決定に反発を見せ、千葉常胤や小山朝政といった有力御家人は、鎌倉幕府の発行する書状ではなく、従来の書状を求めた。さすが源頼朝の決定に逆らうことはできないと政所家司の署名と花押だけでは不安だと訴え、源頼朝の署名と花押を記した文書も並行して発行させるといった光景も見られた。つまり、署名と花押以外は全く同じ書状が二枚発行されるようになったわけである。

 源頼朝からすればこれは本意ではない。

 自分が征夷大将軍の官職を獲得したのは、征夷大将軍が官職ではなく地位となること、その地位は源頼朝の身に何かあっても源頼朝の血を引く者が受け継ぐことが可能なこと、現時点で源頼朝に臣従する面々が源頼朝ではなく征夷大将軍という地位へ臣従することで、従来の鎌倉方という枠組みを超え、鎌倉幕府という新たな権力体制となることを目論んだからである。ここで源頼朝個人の署名と花押を求められると鎌倉幕府という新たな組織の前提が崩れてしまうのだ。

 源頼朝には既に跡継ぎとなっている男児がいる。後に源頼家と呼ばれることとなる万寿である。寿永元(一一八二)年生まれであるから数えで一一歳、現在の学齢で行くと小学四年生だ。建久三(一一九二)年時点の源頼朝は四六歳であるから、いかに平均寿命が今より短い時代であるとは言え、自らの老後と死を直視しなければならない年齢ではない。どんなに短く考えてもあと一五年は源頼朝が征夷大将軍であり続けることは可能であり、そのあとで嫡子である万寿が二代目の征夷大将軍となり、万寿の子が三代目の征夷大将軍となるといった形で、征夷大将軍が関東における特別な存在であり、かつ、皇位継承に絡むために朝廷からも手出しできない存在であり続け、鎌倉幕府が日本国における特別な集団となることを源頼朝は意図していた。

 そして、源頼朝のこの意図をさらに強くする人物が建久三(一一九二)年八月九日に誕生した。のちに源実朝と呼ばれることとなる千幡である。万寿の身に何か起こったとしても、万寿の弟である千幡が征夷大将軍の地位を継承することを源頼朝は意図するようになったのである。

 源頼朝は画期的なシステムを構築し、さらに源頼朝のもう一人の後継者候補が誕生したことで、源頼朝は鎌倉の地に永続的な権力を作り上げることに成功したと確信していたであろう。

 だが、源頼朝の手にした征夷大将軍という役職、そして、源頼朝の直系の子孫は、まさに産まれたばかりの千幡こと後の源実朝で終わるのである。その上、鎌倉幕府という権力は源実朝の死後になって完成することとなる。そこに源氏の征夷大将軍はおらず、ただ、鎌倉幕府に仕える御家人達の生き残りがいるだけになるとは、このとき、誰も知らない。

 

 ―― 平安時代叢書第十八集 覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 完 ――

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