覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 118/272 | いささめ

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 相変わらず源頼朝は、京都とその周辺で何が起こっているのかの情報を、当時としては最速の、しかし、現在の感覚ではかなりのタイムラグを経た状態で獲得している。

 役職は有していないものの従二位の位階を持っているので、京都から遠く離れた鎌倉であっても源頼朝のもとに京都からの公的な情報が届く。広義で捉えれば京都から日本全国に送り届ける情報が相模国鎌倉郡にも届くということでもあるが、現実的には有力者のもとに公的な情報を届けるということになる。つまり、源頼朝は朝廷からの公的な情報を黙っていても受動的に受けられる立場にあるのだが、源頼朝はそのような悠長な態度など選ばない。公的な情報を受け取ったときにはもう私的に情報を得ており、事前に得ていた私的な情報と後からやって来る公的な情報との突合をするという手間をかけるものの、どのような公的情報が届こうと泰然としている。

 文治二(一一八六)年五月一三日に京都から届いた情報もその中の例の一つと言える。この日の鎌倉に到着したのは京都市内で強盗が多発していることを伝える知らせであり、発したのは後白河法皇である。

 いかに源頼朝が京都の貴族達に院政からの決別を促す書状を送ったとは言え、また、後白河法皇が敗北を受け入れなければならないという運命を突きつけられていたとは言え、院政には一つの大きなメリットがある。議政官の審議に掛けるより早く、事実上の指令を出せるのだ。法的には退位した皇族が私的な感想を述べるだけということになっているからできることであるが、京都で起こっている問題を遠く離れた鎌倉にいる源頼朝に対して伝えるとしたならば、何だかんだ言って院宣が最速になる。

 ここまでならどうということはない。強盗多発を情報として伝えるのは当たり前だ。

 しかし、その後を読むと尋常ならざる書状となる。後白河法皇は、北条時政が京都を離れてから京都の治安が著しく悪化しているとして、北条時政に京都に戻ってきてもらうことを求めたのだ。治安回復のために比叡山延暦寺に軍勢出動を求めたが延暦寺からの回答は僧兵の派遣を拒否するというものである。言いたいことは理解できる。治安回復を考えれば北条時政が京都に居た頃のほうが良かったのだし、比叡山延暦寺からの回答も満足いくものでは無かった以上、北条時政のいた頃に戻してほしいというのは理解できる。

 ただ、後白河法皇は源義経を利用して何をしたのかを考えると、北条時政を京都に戻すという選択肢を選ぶことはできない。

 後白河法皇は独自の軍事力を欲していた。源義経は答えの一つであったが失敗した。比叡山延暦寺の僧兵に頼ろうとして失敗したとも書状に記した。しかしここで、北条時政が京都に戻って独自の軍事力を持ってくれれば、源頼朝の義父であるために鎌倉方の軍事力を期待できる上、北条時政自身は暴走するところがあってもそれなりに結果は出していたのだから、後白河院の持つ独自の軍事力として計算できる可能性もあったのだ。

 これがもし、何の前触れもなく送り届けられた書状であったならば源頼朝とて多少の動揺は見せたであろう。だが、源頼朝はそのような甘い算段の通用する人物ではなかった。後白河法皇の目論見は見抜いていたし、もっと言えば、既に情報として掴んでいたことを公的な知らせとして確認しただけである。

 源頼朝からの返答は、拒否である。

 既に一条能保を京都に送り込んでいるし、武門について言えば北条時定が京都に残っている。そして、北条時定は源行家を討伐した実績を持っている。この両名が京都に滞在し続けるほうが北条時政を京都に戻すよりも適任だと答えたのだ。

 

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