覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 119/272 | いささめ

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 鎌倉までやってきた静御前が、四月上旬に鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したことは既に述べた通りである。

 この時代の流行の最先端である白拍子が鎌倉にいることは鎌倉の面々、特に、あまり上品ではない方面で血気盛んな男どもの興味を引き、言い寄る男が数多く現れ、白拍子の舞を見せろと言ってきたが、静御前が妊娠していることが判明した以上無理をさせることはできないと判明し、北条政子の肝いりで一度だけ鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露させることにした。これで文句はないだろうという目論見である。そして、以後の静御前は北条政子の影響下に置かれると決まった。

 それから一ヶ月以上を経た文治二(一一八六)年五月一四日、静御前の宿所に突然、工藤祐経、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤原邦通といった御家人たちが酒を持って現れた。彼らとて静御前が妊娠していることを知っているし、言い寄ろうとするのがいたら北条政子に睨まれることも知っている。彼らとてそれは知っている。

 忘れてはならないのは、静御前が一人で鎌倉にやってきたのではなく母と一緒にやってきたこと、そして、静御前の母の磯禅師は、白拍子を誕生させた人物であるとは断定できないものの、かなり早い段階から白拍子として活躍してきた人物であるということである。今で言うと母親が有名なタレントでその娘もタレントであるという母娘と考えていただければわかりやすいであろう。

 彼らは、静御前ではなく、静御前の母の磯禅師に会いにやってきて、磯禅師に白拍子の舞を見せてくれと頼み込んできたのだ。酒を持ち込んで。

 ここまでであれば北条政子も、いい気はしないであったろうが黙っていることもできたであろうと言える。だが、酒の勢いで梶原景茂が静御前を口説いたとあれば話は別だ。静御前は、自分が源頼朝の弟の妾であるとし、源義経が叛旗を翻してしまったせいで流浪の身とならなければあなた方などと一緒に酒の席にいることもありえないと一喝、それだけならまだしも口説こうとするなど何を考えているのかと答えたのである。

 梶原景茂は梶原景時の三男で、文治二(一一八六)年時点では二九歳である。これぐらいの世代の鎌倉武士は、自分達が源平合戦の勝者であり、自分達に敵対する存在には勝者の権限を行使できるという思いを隠せなかった。つまり、何をしても許されるという思いがあったのだ。それを静御前は否定したのである。

 この後で梶原景茂らに対してどのような処遇が下されたのかの記録は無い。ただ、お世辞にもこれで梶原景茂の評判が上がることは無かったであろう。もっとも梶原景茂個人は父と違って純然たる武人としての評価を獲得しているので、戦場限定ではあるものの、汚名返上には成功しているようである。

 なお、静御前にはこの後でもう一度、勝長寿院で静御前が白拍子の舞を披露している。このときは源頼朝の娘の大姫の懇願によるものであり、さすがに北条政子も娘の願いを無碍にはできなかったようである。

 

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