覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 117/272 | いささめ

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 源義経の行方は未だわからずにいる。文治二(一一八六)年五月六日には京中で源義経捜索が始まったが、それでも見つからずにいる。

 文治二(一一八六)年五月一〇日、捜査の手は前摂政近衛基通、そして後白河法皇のもとにも及んだ。近衛基通が、あるいは後白河法皇が、源義経や源行家を匿っているという風聞が広まったのだ。後白河法皇にしても近衛基通にしても全く身に覚えのない話であるが、これだけの地位にある人でも捜査の手から免れることができないというアピールとしては役に立った。

 そのアピールが功を奏したのか、五月一二日、捜索対象者の一人の潜伏先が判明した。場所は和泉国。その地の在長官人の邸宅内に源行家が潜んでいることが判明したのである。ただちに北条時定と常陸坊昌明の両名の指揮する軍勢が和泉国に向かい源行家の捕縛を試みた。

 源行家は自分の隠れ家に捜査の手が及んでいることを知って背後の山へと逃れ、山の中にある民家の二階へと逃げた、と吾妻鏡にはある。この時代に二階建ての民家など考えられないこと、また、源行家の潜伏先と推定される場所の古記録によると、民家有無はともかく、その土地に近木堂という寺院があったことが推定されることから、民家ではなく寺院の二階に籠もったのであろう。

 潜伏先の邸宅から源行家がいなくなっていることを確認した北条時定らは周囲を捜索し、すぐに源行家が潜伏している建物を発見し、建物を軍勢で包囲した。

 普通なら、もはや逃げることはできないと考えるものであるが、源行家はそうは考えない。この苦境下でも逃げることはできると考え懸命に抵抗するも、逃走を図ろうとする源行家を常陸坊昌明が捕らえ、最後の抵抗もむなしく源行家は捕らえられ、翌日に捕縛された息子の源光家とともに淀の赤井河原まで連行され、そこで親子ともども斬首された。

 源行家とその息子が打ち首となったことの報告はただちに京都へと送られたが、後白河法皇は終始無関心のまま摂政九条兼実のもとに報告するように言い、九条兼実もまた自分は預かり知らぬことと返答するのみであった。

 後白河法皇や九条兼実にとっては無関心でいられることでも、鎌倉の源頼朝にとっては最高の吉報となる。源義経がまだ見つかっていないことは気がかりではあるが、厄介極まりない存在であった源行家がもういないのである。

 源平合戦における源行家は、以仁王の令旨を各地に源氏に届けるところまでは価値を持っていたが、それ以降は疫病神とするしかなかったと断言できる。源行家自身は自己の栄達を考えての選択と行動であったろうが、その全てが源氏の勢力を分散し、余計な争いを生み、失わせる必要のない命を無駄に奪っていたのである。

 源行家は首が胴体から切り離されるその瞬間まで自分のやったことに何かしらの問題があるとは思いもしなかったであろう。よく言われることであるが、組織構成における意欲の有無と能力の有無とのマトリクスにおいて、最優先で仲間に加えるべきは意欲なき有能者、仲間に加えても意味のあるのは意欲ある有能者、仲間にしても害を成さないのは意欲なき無能者。意欲ある無能者は問答無用で組織から追放せねばならない。源行家は意欲ある無能者であった。源行家の不幸は、自分で自分のことを無能者だと気づいていなかったことである。

 

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