平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~ 123/359 | いささめ

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 治承四(一一八〇)年一〇月五日、源頼朝の軍勢はいったん現在の東京都北区王子に向かい、源氏方として起ち上がったくれた豊島氏の邸宅を訪問した後で武蔵国の国衙へと歩みを進めた。

 武蔵国府は無主の地となっており、源頼朝は労せず国府に入ることができた。討伐軍結成の時点で平知度が武蔵守に任命され討伐軍の一員として向かっているとの情報が飛び込んできていたため、武蔵国司を勤める者が不在になっていたのである。本来であれば、これまでの国司は新任の国司が赴任してきたのちに業務引き継ぎをしてから帰京するものであるが、その前提が崩れてきて、新しい国司が任命されたと知ったらただちに帰京する、あるいはそもそも本人が赴任するのではなくそれも代理である目代もくだいを送るだけで済ませて本人は国司としての政務に関与しないというケースも珍しくなくなっていた。このとき武蔵国の国司は国府にいなかったが、武蔵国ではそれが通常態にすらなっていた。

 平知度が武蔵守に任命して源頼朝討伐軍に加えたのは、その通常態を正状態に戻す目的もあった。これを源頼朝の軍勢の側から見れば従う必要の無い国司がやって来ることを意味する。新しい国司が平家である以上、以仁王の令旨に従えば討ち取られるべき対象である。従うどころか討伐すべき存在だ。

 そうでなくとも武蔵国は在地の武士団のトップ層が在庁官人として武蔵国の政務に当たる光景が日常化し、そのための組織である留守所が成立するまでになっていたほどだ。また留守所のトップとして総検校職が成立し、秩父重綱がその職に就任して以来、代々秩父氏のトップが武蔵国留守所総検校職を担当するのが慣例化した。日本国六八ヶ国のうち留守所総検校職という職務が成立しているのは武蔵国と大隅国の二ヶ国だけであり、武蔵国はかなり特殊な統治事情があったといえる。要は、国司が国司としての政務をまともにとることができず、在地の武士団の微妙なパワーバランスで成り立っていたのが武蔵国だ。

 それでも留守所総検校職は武蔵国内の統治業務で莫大な成果を残した。特に治安維持については莫大な功績を残した。武蔵国内は多くの武士団が点在していたが、その全ての武士団が留守所総検校職の権威を認め、留守所総検校職の指令に基づいて軍事行動を起こすこともあったのだ。秩父一族にはそれだけの権威が存在していたのである。

 だが、ここに一つ大問題があった。誰が秩父一族のトップであるかという大問題である。そもそも秩父という苗字自体が武蔵国秩父郡に本拠地を築いていることから生まれた苗字であり、正式には平姓である。平姓の者が本拠地としている土地の地名を自らの苗字にするようになった結果、秩父郡から離れて別の土地に本拠地を築くようになればなるほど新しい苗字が生まれる。

 たとえば、本作でこれまで登場している苗字の武士のうち、畠山氏、河越氏、豊島氏、渋谷氏、小山田氏、そして、江戸氏は全て秩父一族であり、正式には平姓である。

 源頼朝が隅田川を挟んで対峙している江戸重長に対し、江戸重長が武蔵国の棟梁であり、源頼朝がもっとも頼りにしている武蔵国の武士は江戸重長であると言った。その言葉は嘘ではなく、治承四(一一八〇)年一〇月五日、源頼朝は家臣に加わったばかりの江戸重長に武蔵国府を任せ、在庁の指揮権である留守所総検校職に補任した。嘘偽りなく江戸重長を武蔵国の武士の中のトップであると源頼朝が認めたのである。秩父一族の内部における争いを源頼朝は強引に抑えつけたということになるが、昨日までの敵を許した上に争いを鎮静化させたということで、源頼朝の評判を上げる効果を生み出した。

 

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