平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~ 124/359 | いささめ

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歴史小説&解説マンガ

 治承四(一一八〇)年一〇月六日、もはや誰も邪魔する者のいなくなった相模国鎌倉に源頼朝がたどり着いた。先月まで鎌倉を実効支配していた山内首藤経俊は既に逃走しており、鎌倉に住む住人はいつでも源頼朝を迎え入れる準備ができていたが、実際に源頼朝の軍勢を見ると予想を遙かに上回る光景であることに気づかされた。

 まず軍勢の数が例を見ないものであった。武士の隊列が延々と続き、軍勢の終わりが見当つかないほどであった。

 さらに、軍勢の先頭を行く騎馬上の武者に驚かされた。ついこの間まで源頼朝と戦っていたはずの畠山重忠が先頭なのである。源頼朝はかつての敵でも味方になったなら全て許す人であるとの評判は聞いていたが、実際に味方になっている光景を目の当たりにしたことで鎌倉の民衆は源頼朝の言動一致を知ることとなった。

 ただ、あまりにも上手くいきすぎる鎌倉入りは源頼朝に思わぬ現実を突きつけることとなった。住まいがないのだ。源頼朝は民家を借りて一時的な宿泊所にすることとしたがそれでも足りない。吾妻鏡は源頼朝が入ってきたときの鎌倉を元々辺鄙なところで漁師と百姓しか住んでいる人がいなかったと記しているが、これは源頼朝の業績をより大きく見せるための誇張であり、実際には相模国における最大規模の都市であったことが他の記録や発掘から判明している。ただ、最大規模は相模国の中ではという条件がつき、源頼朝が入ってきたときの鎌倉に源氏の軍勢を収容しきる能力が無かったのはそのとおりである。

 鎌倉で一夜を過ごした後、源頼朝はまず由比ヶ浜にある鶴岡八幡宮を遠くから拝み、次いで亡き父である源義朝が亀谷に築いていた邸宅跡を見に行った。父の邸宅跡を自分も鎌倉における本拠地とする予定であったからである。しかし、既に亡き父を供養するための御堂が建設されていた上に、父の頃とは比べものにならない大軍勢を率いている身となっている。御堂を移転させたところで鎌倉における自らの本拠地とするには狭すぎた。

 源頼朝は鎌倉の改造に取りかかった。

 真っ先に手を付けたのが、鎌倉の南部の由比ヶ浜にあった鶴岡八幡宮を鎌倉の北部に遷御することである。都市鎌倉の大規模建設計画がここに始まったのだ。

 

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