次は丸亀城です。
勝之進は、かねてより、現存12天守制覇を
目指して国内旅行をしてきましたが、
丸亀城は、最後に残った12番目の城でした。
ラスト4城の足取りは、犬山城、備中松山城、
丸岡城、丸亀城という順で巡ってきて、
今回の旅行で、念願のコンプリート!
というわけです。
そんな思い入れたっぷりの丸亀城を
観光して参りましょう。
(多門櫓が接続していたため、
西側1階に装飾がない)
◆まず、丸亀城の歴史から振り返りましょう。
ちょっと長いです。
◆関ヶ原の戦いの3年前の1597年、
讃岐国12万6千石の藩主・生駒親正
(いこまちかまさ1526~1603、
家紋:波切り車)は亀山に築城を開始し、
約6年かけて石垣や城郭を築き、
山頂に丸亀城を作りました。
◆親正は信長と秀吉に仕えた武将であり、
関ヶ原では西軍に組したものの、
息子の一正が東軍に参戦したため、
生駒家の所領は安堵されました。
◆江戸幕府が開かれると、1615年に
一国一城令が出され、讃岐国では高松城が
残されることにが決まり、丸亀城は、
廃城扱いになりますが、城そのものは
壊されませんでした。
◆戦国を時代を生きながらえた生駒家は
親正の後は正俊、高俊と襲封しますが、
高俊が暗愚であったことから藩政が乱れ、
家老の対立がお家騒動に発展して、
世に言う生駒騒動(1640年)が起きます。
◆幕府の裁定により、高俊は、家中取締り
不行き届きとして出羽に流され、
代わりに肥後の山崎家治が入城します。
◆1643年、山崎家治は、幕府から、
銀300貫を貰い受け、丸亀城の再建に
着手します。一国一城の時代に、
築城が許されたのは、非常に珍しい
出来事でありました。
おそらく、その理由は、山崎家治が
大坂城築城にも関わった築城の名手
だったからです。
幕府は、海運上の要衝の地である
丸亀に城を作らせて、讃岐の国と
海上交通を安定させようと考えた
のでしょう。
◆山崎家治(家紋:檜扇に四つ目結)は、
丸亀城を立派な城にしようと心血を注ぎ、
信じられないくらいに大量の石を
積み上げ、後に「石垣の城」といわれる
城郭を築いていきました。
◆しかし、家治は、1648年、
城が完成する前に亡くなってしまい、
後を継いだ俊家も1651年に亡くなり、
その後を継いだ3歳の治頼も1657年に
7歳で亡くなり、丸亀藩山崎家は
わずか三代で無嗣断絶で改易と
なってしまいます。
◆あともう少しで竣工完成という中、
1658年、京極高和(家紋:平四つ目結紋)
が丸亀藩主となると、最後のピースである
天守閣が作られ、1660年に、遂に
丸亀城は完成します。
天守閣の壁の中から万次三年(1660年)と
書かれた祈禱札が見つかったことが
証拠になっています。
◆建設が開始された1600年ごろから
数えると60年の時を経て完成したことに
なりますね。
◆その後、長い年月が流れ、明治維新後の
城取り壊しの流れの中で、一部の櫓や城門は
取り壊されたものの、天守閣は破却を免れ、
また、幸いにも第二次世界大戦の戦禍にも
会わず、完成から364年後の今も
丸亀城は65メートルの亀山山頂に
聳え立っているのです。
◆備中松山城と同様、壊そうとする者の
気力を失わせるほどに石垣がすごかった
のでしょう。
◆ということで、長い前置きを終え
写真をはっていきます。
◆鏡石。左の💛型の石に触ると
願いが叶うとか。おそらく犬島石。
◆見返り坂。斜度10度、150mの直線坂
◆「扇の勾配」。美しい曲線です。
(露出に失敗してうまく撮れていません)
一番下の石垣から本丸の石垣までは
三段、約66メートルもあり、
国内で最も高い石垣とされています。
上から見ると高さがわかります。
排水溝もちゃんとあるぞ。
◆三の丸の下から見上げた天守閣。
◆これでもか、と石垣が積まれています。
◆高さ15m、三層三階造り、
12天守の中では最小の層塔型天守。
シャチホコの下の瓦には
京極家の四つ目結紋が輝く
◆天守閣内の急階段。勝之進は
弁慶の泣き所をぶつけてしまい、
青痣ができた。。。
◆天守閣最上階は天井張り無し。
昔の梁の木組みが剝き出しで見える
貴重な城。昔の道具箱が梁の上に
置いてあって面白い。
通し柱がないのも特徴。
◆2018年の大雨で崩れた石垣の
復旧工事の様子。
もうしばらくかかりそう。
これにて、現存12天守、制覇でござる。
よく行きましたね。。。勝之進