唐津から雲仙温泉へ向かう熱い旅(10)~長崎・出島へ渡る~ | 凝り性 勝之進のこだわり日記

凝り性 勝之進のこだわり日記

★Livin' On A Prayer★Once upon a time Not so long ago・・・ 
 

長崎空港から帰京する前に

観光したのが長崎の出島でした。

長崎市は、以前に訪れたことがあり、
その時に、大浦天主堂やグラバー亭など、
主要な観光地を回ったのですが、
その時、出島に行けなかったのが
とても心残りだったのです。

出島に行かないと、江戸時代と

幕末は語れません。

また、旅行に行く前に読んだ
葉室麟先生の「オランダ宿の娘」と
「星火瞬く」という小説に、

 

出島とシーボルトが沢山出てきた

こともあって、実際に出島に行って

みたいと思っていたのです。

空は快晴。長崎へ向かう車の
表示を見ると、外気温37度。

車から出ると、滅茶苦茶に暑く、
駐車場から出島に行くだけで

汗だくになりました。

それでも、どうしても見たかったのが
商館長であるカピタンの部屋、
商館長次席であるヘトルの部屋、そして、

ケンペル・ツェンベリー記念碑でした。

出島に架けられた橋を渡る時、
これが出島かと胸が高鳴りました。


島に渡ると。中央に弧を描いて
1本の道があり、その両脇に
当時の建物が復元されて立ち並んでいます。

鎖国していた1636年から

1854年頃までの200年以上、

日本にとっては、世界に向かって
開いていた窓は、このちっちゃな
扇形の島だけだったのです。

なんという珍しい島でしょう。

島から出られず、不自由な生活を
強いられたオランダ人達が
「国立の監獄だ」と言ったほど、

強い監視を受けた生活でした。

そして、医学、地理学、動植物学、

オランダ語といった学問は、

ここにあいていた「穴」を通じて

日本に流れ込み、広がっていきました。

輸出品も、わずか1か所、世界に開かれた

「扉」を通じて、値段は不当だったかも

しれませんが、どんどん世界に

流れ出して行ったのです。

モノゴトは、高濃度ら低濃度へと

不可逆的に流れ、戻ることはありません。

 

情報や学問も、高度な所から、

低度の所に流れ、戻ることはありません。

 

鎖国時代、出島は、その全てが通る

穴であり、扉でありました。

 

まさにここ出島が、日本と世界の

まじりあった唯一の場所だったのです。

そうやって考えると、

復元が続く出島を、実際に歩けたことは

なかなか感慨深いことでありました。

それでは何枚か写真を上げます。


◆出島の解説書の表紙。

当時の姿が絵で描かかれています。


 

◆カピタン屋敷

 

◆2階の宴会場。

当時のあかりは蠟燭でした。


◆ヘトル屋敷



◆ケンペル・ツェンベリー記念碑


陽射しが強すぎてよく見えませんが、

この石碑は、シーボルトが1826年に

立てた記念碑で、

 

自分より前に来日した

ケンペル(1690年来日のドイツ人)、

ツェンベリー(1775年来日の

スウェーデン人)という二人の

医者の功績を称えたものです。

陽に照らされた熱い石碑に触れ、

シーボルトが、確かに、ここに

いたことを実感しました。

◆お土産に買った箸置き

出島限定のオリジナル箸置きです。
潮の香りがしますね。。

ーーーーー

さて、10回にわたり書いてきましたが
本稿で、今回の九州旅行記は終わりです。

次回は、恒例のスナップショット集で
完結となります。

読んで頂いた皆様、
ありがとうございました。

     最後まで熱かったです。。。勝之進