唐津から雲仙温泉へ向かう熱い旅(2)~鏡山から虹の松原を一望~ | 凝り性 勝之進のこだわり日記

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★Livin' On A Prayer★Once upon a time Not so long ago・・・ 
 

イカを食べた後は、鏡山展望台を
目指しました。

鏡山は、唐津湾を望む284mの
山ですが、山頂に展望台があり、
そこから虹の松原の全景が望めます。

一眼レフでは入り切らないので、
家内のiPhoneでパノラマ写真を
撮ってもらいました。
それがこちらです。

 
快晴の青空の下、クロマツが
虹のように弧を描いて植えられており、

青い海と、緑のベルトのコントラストが
映える、まさに、絶景でありました。

この見事な虹の松原は、
「日本三大松原」の一つでもあります。

あと二つは、世界文化遺産にもなった
静岡県・三保の松原と福井県の
気比の松原です。

ただし、虹の松原は、他の二つとは
全くスケールが違います。

比べてみると、
三保の松原が、7キロ・3万本、
気比の松原が、2キロ・2万本、
であるのに対し、虹の松原は、

4キロになんと100万本!もの
松が植えられており、幅も500mと
圧倒的な厚みがあります。

では、なぜ、これほど多くの
松が植えられたのでしょうか。

通説では、1600年頃の唐津城主・
寺沢広高が新田開発の一環として
植樹を行ったとされています。



確かに、上の写真を見ると、
虹の松原の内陸側に田んぼが
広がっていますが、

唐津8万石といわれた寺沢家の
財力からすると、100万本もの
松を植えてまで新田が欲しかった
わけではないと思います。

下の写真の虹の松原周辺図を見て
考えてみましょう。


勝之進は、この松林は敵の上陸を
防ぐためのものではないかと考えています。

少し、歴史をさかのぼってみましょう。

1591年頃、秀吉は、東松浦半島の
呼子の近くに名護屋城を築かせ、
朝鮮出兵の拠点としました。

その時、寺沢広高は、秀吉の配下として
普請に加わっています。

秀吉軍が、本当に、海を渡って朝鮮半島に
攻め入ったのは1592年5月でした。
(文禄の役)

一時停戦後の1593年には講和交渉が
行われますが、決裂してしまい、
1597年から再び戦闘が開始されます。
 
しかし、1598年に秀吉が死ぬと、
兵は日本に引き上げました(慶長の役)。

この文禄と慶長の役の「間」に当たる
1595年、当時31歳の唐津城主・
寺沢広高は、講和のために朝鮮に渡り、
明からの講和使を迎えています。

この経緯を踏まえると、実際に朝鮮に渡り、
戦争の最前線に行った実体験を持つ広高が、
海岸の守りを固めようと思ったのは
不思議ではありません。

唐津周辺の海岸線を見ると解りますが、
周辺は島ばかりで、船が近づきにくい
地形です。

もし、朝鮮や明が、報復のために
攻めてくるとしたら、まず、
呼子の名護屋城を砲撃し、続いて、
長い砂浜が続く唐津湾から
上陸してくるにちがいありません。

広高は、その時に備え、
海岸に大量の松を植えて、
敵の上陸を阻もうとしたのです。

ただ、敵が攻めてくるから松を植えよう
というと、領民の協力が得られないため、
「新田開発のため」という名目で
植樹をしたのではないでしょうか。
 
それでも心配な広高は、1602年から、
唐津湾に突き出た半島に唐津城を
作り始めます。

鏡山展望台から見た唐津城は
こんな感じに湾に突き出しています。
もう、完全に海岸警護目的ですね。


広高は、自らの死後も、いつ敵が
攻め込んでくるかわからないと思い、
松林を維持するように禁伐の掟を作り、
伐採は死罪という厳しいルールまで
作りました。

広高は、心の中で、
「わしが作ったこの松林で敵を足止めし、
日本と九州を守るのじゃ」と考えていたに
違いありません。
 
こうやって見ると、愛国者・寺沢広高に
とって、虹の松原は、祖国を守るための
「盾」のようなものであった
といえましょう。

その後、亡くなった広高は、
鏡山の麓の鏡神社に葬られ、今も、
敵が攻めてこないか見張っています。

今の日本には、この臨場感と
危機感が足りない気がします。

ともあれ、観光的には、良い天気に
恵まれて、眺めを楽しめました。

熱い旅は続きます。。。

(続く)
 
  名護屋城・唐津城観光は、また今度。。。勝之進