細井平洲(ほそい へいしゅう) | 徳富 均のブログ

徳富 均のブログ

自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 細井平洲(1728~1801)は、尾張国知多郡生まれで、折衷学の中西淡淵(たんえん)に学び、長崎に行き中国語を学んだ。宝暦元年(1751)に江戸に行き中西淡淵の叢桂社(そうけいしゃ)で教えた後、私塾嚶鳴館(おうめいかん)を開いた。

 平洲によれば、「天地自然の道」は君主の道徳的な精進と民衆への教化を通して実現される。したがって、君主と家臣は民衆の手本となるべき厳しい道徳実践が要求される。また、民衆にはそうした「君主の恩」に応える道徳を説いた。平洲は明和元年(1764)に米沢藩の江戸藩邸で上杉鷹山(1751~1822・米沢藩九代藩主になったのは明和4年で、鷹山17歳の時)を前に次のように説いたという。

「君徳とは何をいふや。爵位の貴きにも驕(おご)り給はず、国郡の富にも奢(おご)り給はず。君は万民の父母となり給はねば、天に奉ずる職分に違(たが)い、祖先に受け嗣(つ)ぐ孝道に背くといふところを、露の間も忘れ給はず」。

 鷹山(ようざん)は、この時にはまだ、14歳であったが、平洲の月6回の定例講義を通して、近い将来、米沢藩の藩主に就任する心構えを学んだ。さらに平洲は、講義の中で、

「忠諫(ちゅうかん)の言をみち引、柔弱の佞媚(ねいび)の臣を遠ざけ、面諛(めんゆ)の言をふせぎ、先祖の功業を失はぬように子孫の興衰をはかりて、老を敬し幼を憐れみ、孝悌の人を賞し、鰥寡(かんか)孤独の民を恵み、郡有司の賢否を審(つまび)らかにして、小過をゆるし成功を励まし、封内風俗の美悪を一身の苦世話に持給ひて、明け暮れにたゆみ怠り給ふ心なきを君徳とは申すなり」

と言う。

 鷹山は、安永4年(1775)4月に米沢「興譲館」を開設した。開設にあたり、鷹山は、平洲に興穣館運営の基本方針を尋ねた。それに応え平洲は、藩士教育の基本として、「安上利民の政」を遂行しうる武士の徳性の涵養を主張。つまり、上に立つ者は自分一人の安逸を忘れ、民のために心血を注ぐ政治を実践するためにも、政治に先立って君主が徳を貴ぶ「有徳君主」でなけれならない。君主の徳が仁政として民に「恩恵」をもたらすとき、民はその「恩恵」を「応受(おうじゅ)」して「承順(しょうじゅん)」の心を表すようになるという。

 さらに平洲は、「師長(教師)」に対しても、

「人を教ゆるものは人と共々に善事を致したく、人と共々に悪事は致さぬ様にと心得申し候」

というように、教師が自ら実践することの重要性を説いている。上に立つ者への「自己規律」を求めている。

 現代は、政治家も教師も、企業で働く人々も、自分に甘く、他者に厳しい人が多いのではないでしょうか。