奈良・興福寺 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 興福寺の五重塔は、現在では奈良の象徴でもある。しかし、明治時代には廃仏毀釈のあおりを受け、売りに出されたと伝えられている。その値は、50円とも25円とも言われ、買い主は塔を燃やして相輪などの金具を得ようとしたということであったが、住民の反対で売却は中止されたという。

 塔は天平2年(730)の創建以来、幾度となく焼失し、現在の姿に再興されたのは室町時代の応永33年(1426)である。それは、興福寺が実質上の守護として大和国一円を支配していた頃の事である。

 藤原氏の氏寺興福寺は、7世紀後半、山城国(京都府)に創建された山階寺(やましなでら)を前身とし、平城京遷都に伴って、現在地に移されたと伝えられている。藤原氏が、平安時代に摂関家になると、一層寺勢を強めた。さらに、藤原氏が春日社の神威をも借りて大和国の領有を図ると、興福寺は春日神を鎮守神として春日社の支配を進めた。そして、平安時代後期には、大和国一円に多くの寺領を有するようになった。鎌倉時代には、領内の土豪に僧の身分を与えて衆徒(僧兵)として荘園を支配させ、ついには大和国の実質上の守護となった。折しも、子院である一乗院と大乗院には、摂関家の子弟の入寺が相次いで、門跡と称され、興福寺の実験を握るようになった。そして、両院による支配と強大な僧兵集団を基盤に、興福寺は全盛期を迎えたが、鎌倉末期から南北朝時代になると両院の抗争が激化し、寺勢は衰退した。しかし、室町時代に入ると復興が進められ、焼失した五重塔もその優美な姿を取り戻した。

 金のためなら何をしても良い、ということはありません。過去の遺産は誰のものでもない。ということは、それぞれの時代に生きる人間が、金の力に任せて好き勝手をしてよいということではない。日本人共通の遺産は、国民全体が継承し次世代に橋渡しをしなければならない。一度失ったモノは、二度と手にすることは出来ないのです。