雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう) | 徳富 均のブログ

徳富 均のブログ

自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 雨森芳洲(1668~1755)は、寛文8年(1668)に近江国の医師の家に生まれた。12,3歳の時に京都に出て医学の修行をしていたが、ある時、次のような話を聞いて医師を志すことを断念したと回顧している。それは、「書を学ぶ時には多くの神を無駄に費やすが、医学を学ぶ時には多くの人命を費やす」というものであった。つまり、薬の調合を誤って何十回となく失敗して心を痛めて、初めて名医と呼ばれるようになるというのである。

 そこで、医師になることを諦(あきら)めた芳洲は、江戸に出て、藤原惺窩(ふじわらせいか)の京学派の流れをくむ木下順庵(1621~1698)の門雉塾(もんちじゅく)に入門した。

 元禄2年(1689)、芳洲22歳のとき、木下順庵の推挙によって対馬藩の宗義真に仕えることになった。そこで、芳洲は、暫くの間江戸藩邸に詰めたが、その後、長崎で1年間中国語を学んだ後の元禄6年(1693)、対馬に赴任した。芳洲に与えられた役職は、単なる儒者ではなく、朝鮮方佐役という朝鮮との外交に当たる外交官であった。

 元禄15年(1702)、芳洲は初めて釜山に渡り朝鮮語の学習の必要性を知り、翌元禄16年から釜山の草梁倭館(そうりょわかん)に足掛け3年間滞在して、朝鮮の方言や風習、人情に至るまで学んだ。そして、芳洲は自己の経験から、朝鮮との外交交渉において通訳を担当する「通詞(つうじ)」の役割が重要であると考え、その養成に関して次のように述べている。

「人に寄候而は言語さえよく通候へは相済候と存候へとも、いささか以左様にては之無く候。人もよろしく才覚之有、義利を弁へ、上之事を大切に存候者にて之無候而は、誠の御用に立候通詞とは申難、必定害には成候とも利益之有間敷候」

 つまり、単に朝鮮語が話せるというだけでは役に立たず、学識が豊かで人格の優れた人物でなくては通訳として役に立たないと言っている。そして、通詞に必要なものとして、これまでの両国の交渉の来歴や相手国の風俗、習慣から人情を理解するとともに、相手国の人々が畏敬の念を覚えるに十分な人格的な魅力を備えた人物でなければならないと。

 通訳だけでなく、相手と交渉するためには、相手方の十分な理解が必要であると共に、相手に畏敬の念を持たせることが必要でしょう。単に、力ずくで交渉しても、それでは成功率は低いだけです。やはり大切なのは、高い知識と人格、それに教養ではないでしょうか。