城下町福島 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 西に霊峰安達太良山を仰ぎ、その裾野の春は、紅色桃の花や白いリンゴの花で桃源郷を思わせる。城下町福島の北に見える信夫山(しのぶやま)は、東から順に熊野山、羽黒山、羽山(はやま)と呼ばれる三峰を持ち、平安時代以来、「信夫三山」として信仰された修験の山であった。

 関ケ原の戦い直後の慶長5年(1600)10月、かつてこの地を支配していた伊達政宗は、旧領地奪回を狙って信夫山麓に陣をしき、この地を治めていた会津の上杉景勝軍と戦った。この戦いで羽黒山の修験者たちは政宗に味方したが破れ、一山は衰退し始めたといわれる。

 近世の城下町、福島の誕生は、この地方を領した会津92万石の領主蒲生氏郷(がもううじさと)が、客将であった木村吉清(きむらよしきよ)に5万石を与えたことによる。その後、幕府領となった後、元禄15年(1702)、板倉氏3万石の福島藩が誕生し、幕末に至るまで続いた。小藩ながら、東北地方屈指の養蚕(ようさん)地帯を擁する城下は、江戸や京との生糸取引などの酔って、南奥州有数の商都として発展した。しかし、城下の繁栄を支えた養蚕業は、昭和の大恐慌をきっかけに衰退した。阿武隈川やその支流の摺上(すりかみ)川流域に広がっていた広大な桑畑は、果樹園に生まれ変わり、現在の「くだもの王国」の基礎が築かれることになった。

 摺上川上流の飯坂温泉は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に入湯したという伝承をもつ古湯。白川藩主松平定信も「温泉あしからず」と称え、みちのくの三名湯の一つに数えられた。松尾芭蕉もここで旅の疲れを癒し、明治時代の俳人、正岡子規も宿泊し、「夕立や 人声こもる 温泉(ゆ)の煙り」の句を残した。

 産業は時代と共に、そして周囲の環境と共に大きく変化します。その時に「先を見据え」何をするか、何が必要かを的確に判断しなければなりません。いつまでも「過去の栄光」に拘っていては、将来の大きな禍根となってしまう場合が多いのです。「先見性」「洞察力」「決断力」そして「実行力」が大切なのではないでしょうか。