天下一の障子紙 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 美濃地方(岐阜県)は、和紙の原料であるコウゾに恵まれ、古来、良質の和紙の産地であった。郡上街道は、美濃の加納宿(岐阜市)から北上し、飛騨の中心地高山に至る約136㎞の道で、宿場町上有知(こうずち・美濃市)一帯は、古代には大海人皇子(後の天武天皇)に仕える役人(舎人)が支配した地とされる。そして、西方の大矢田では、中世後期から「紙市」が開かれた。この紙市の荘園領主は京都下鴨神社近くの宝慈院(ほうじいん)で、美濃和紙を大矢田から京へ運ぶ独占権を近江の商人に与えていた。

 関ケ原の戦いの後、上有知を徳川家康から与えられた飛騨高山の領主、金森長近(かなもり ながちか)は、高山を息子に譲り、長良川河畔に小倉城を築いて、高山と同様、東西に二筋、南北に四筋を通す碁盤目状の城下町を建設。長良川水運による上有知湊を拓き、月に6回、六斎市を開いた。美濃和紙の生産は江戸時代にはさらに活況を呈し、寛政年間(1789~1801)には、コウゾ問屋が13軒もあり、年間4000両を上回る取引が行われたとされる。

 この美濃和紙は幕府や尾張藩の御用紙となり、「天下一の障子紙」と称えられた。

 現代は生活様式が以前とは大きく違い、マンションなどで暮らす各家庭には「障子」や「襖」などはないのかもしれません。さらには、仕事上でも、各自の机上にはパソコンが用意され、「ペーパーレス」化が進んでいるようです。また、書籍なども「電子書籍」がかなりの量を数えているようで、生活スタイルは大きく変化しています。しかし、どうしても「紙」でなければならないものもあるでしょう。書道における「毛筆」は、やはり「紙」の上に墨を乗せ、描かれた「漢字」なり、「ひらがな」の形と墨の滲み方との微妙なバランスは、見る者に美しさを与えてくれます。これなどは、やはり芸術です。もっとも、最近では、学校でもあまり筆を持つ授業は行われなくなっているようで、寂しい次第です。