東廻航路(ひがしまわりこうろ) | 徳富 均のブログ

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「浜通り」とも呼ばれる陸前浜街道は、水戸から仙台まで、その道筋のほとんどが太平洋に面している。平潟(北茨城市)、四倉(よつくら・いわき市)、荒浜(亘理町)などの港が点在するが、これらは近世に沖合を走っていた東廻航路の、積み出し港あるいは避難港としての役割を果たしていた。北の相馬藩、仙台藩、盛岡藩、津軽藩はもちろん、比較的江戸に近い磐城平藩でも、もっぱらこの東廻航路を利用して米などを江戸に運んだ。なぜなら、陸路より輸送費が大幅に安値だったから。

 近世の交通史は海運を抜きにしては語れない。その象徴が、白い木綿の大きな帆を張った千石船である。千石船は室町時代から登場するが、本格的になったのは戦国時代から江戸時代にかけてである。それまでの船の帆は筵(むしろ)だったので、木綿布になって、運べる荷物の量も速度も格段に増えた。千石は一万斗で、一俵が約四斗とすると、千石船一艘で二千五百俵の米が運べ、実際には、1700~1800石ほど積める船もあった。馬の背なら一頭せいぜい三俵ほど。この千石船を使って、東廻航路は仙台を中心とした奥州の米を江戸に大量に運んだ。『武江年表(ぶこうねんぴょう)』の寛永9年(1632)の条には「今に江戸三分の二は奥州米の由なり。その頃、金一両にて七石四斗なり」と記されている。当時、江戸の人口は約30万人。その生活を支えている米の大部分を東廻航路で運んでいた。

 東廻航路は一般には、仙台と江戸を結ぶ航路と思われがちだが、正確には東北地方の日本海側から北の津軽海峡を廻り、太平洋を南下して江戸に至るルートである。これに対して西廻航路は、東北や北陸地方の日本海側から西廻りに赤間関(下関)を経て「天下の台所」大坂に入り、さらに江戸までのルートを指す。最終目的地はいずれも江戸であった。

 この近世の二大定期航路を刷新、整備したのが、河村瑞賢(ずいけん)と言われている。寛文10年(1670)、幕府は河村瑞賢に命じて、幕府直轄領だった信達(しんだつ)地方(現・福島市周辺)の廻米に携わらせている。ここは、元は米沢藩上杉氏の領地だったが、減封により幕府の直轄領となり、城米を江戸に運ぶ必要が生じた。瑞賢は阿武隈川を整備、開削し、舟で米を河口の荒浜へ運び、太平洋を南下し江戸へ城米を届けた。この東廻航路の成功で、翌年、幕府は瑞賢に西廻航路の整備も命じた。

(注)城米(じょうまい)とは、もともとは戦国大名が、軍事に備えて城に蓄えた米のこと。幕府は直轄地の年貢米を江戸に集め、諸藩も江戸藩邸に滞在する大名や家臣のため、あるいは販売のため江戸に廻米する必要性が生じ、幕府の米を城米、諸藩の米を蔵米と区別して呼ぶようになった。

 

 近世の海運の発展は、戦国期から近世にかけて行われた天下統一の過程と密接に関係している。豊臣秀吉、のちには徳川家康によって天下の権力が中央に集中したため、諸大名と家臣は、大坂、のちには江戸に結集して長期間滞在しなければならなかった。このため国許からは、兵糧米を定期的に送らなくてはならなかった。やがて三代将軍家光の時代に参勤交代が制度化され、大名や家臣、さらには町人が住む江戸の人口は大幅に増加し、米の大消費地となった。さらに東廻航路の大きな特徴は、運んだ米が食糧であると同時に、通貨としても使われた点にある。江戸時代初期、幕府は全国に通用する貨幣をもってはいなかった。そこで使われたのが米である。たとえば、人足には一日五合の米を支給、馬一頭使うと一日一升の米といった具合。そして人々は、食糧とした米の残りを市場にもっていき、日用品と交換した。これは、寛永通宝が定着、全国に通用するようになる寛文年間(1661~73)頃まで続いた。このように、東廻航路は江戸市民を支える「米」を大量に運んだ大動脈であった。

 東廻航路の中でも、仙台から江戸へ運ぶ廻米がいかに重要な役目を果たしていたかを伝える有名なエピソードがある。江戸時代後期に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」である。東北地方の飢饉により仙台米が危ないという情報を入手した幕府は、大坂町奉行に米の買い占めを命じる。そのため大坂では米不足が生じて、餓死者まで出た。これに怒った大坂奉行所の元与力大塩平八郎が乱を起こした。つまり、仙台米は江戸の米相場を決める基準の米であり、江戸の人々にとって最も主要な「糧」であった。

以上は、渡辺英夫氏(執筆当時は、秋田大学教育文化学部教授)の「奥州米を運んだ東廻航路は、幕藩体制を支えた大動脈」です。

 輸送、運送は「陸」から「海」に変わり、費用も安く、大量輸送も可能になり、社会は大きく変わってきました。現在では、航空機という空の輸送で、時間も短縮されてきました。今後の変化、発展が人類にどのような変化をもたらすのでしょうか。興味は尽きませんが、人間の寿命は限りがありますので、数十年単位で物を見なければなりません。それでも、近年の変化は大きく、早いものですから、それで満足しなければならないでしょう。