ときは今、か? | 徳富 均のブログ

徳富 均のブログ

自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 天正10年(1582)5月27日、丹波と山城の国境にそびえる愛宕神社に参籠する武将の姿。男の名は明智光秀。織田信長の重臣の一人である光秀は、信長に備中出陣を命じられ、戦勝祈願に訪れたのである。光秀はここで、二度、三度とくじを引いた。吉凶を占うこと、それは戦を前にした武将の常であったという。明けて28日の連歌興行で光秀は、「ときは今 天(あめ)が下知る 五月哉(さつきかな)」という句を詠んだ。そこには、前夜の迷いを払拭するかのような決意が込められていた。

 6月2日、居城の丹波亀山城を出立し、桂川を渡った光秀が、1万3000の軍に告げた行き先は、備中ではなく「敵は本能寺にあり」。

 明智十兵衛光秀が生まれたのは、享禄元年(1528)とされる。美濃土岐源氏の流れをくむといわれるが、はっきりしない。29歳の頃、美濃の斎藤氏に攻められ明智城を追われた光秀は、諸国を遍歴し、鉄砲の技術や兵法を身に付けたとされる。36歳の頃、越前国の大名朝倉義景に仕官。永禄9年(1566)、朝倉家には前年に自殺した室町幕府の前将軍足利義輝の弟、義昭が寄寓していた。光秀は義昭と親交を結び、朝倉家を辞して義昭の近臣となる。光秀は、幕府の復権を目指す義昭と、美濃で台頭してきた織田信長を引き合わせた。結果、信長は義昭を将軍職につけて天下統一への一歩を踏み出した。光秀は、この信長に自分の将来を懸けた。その後、光秀は、信長の義昭追放や、近江国の浅井長政や朝倉義景討伐に従い、手腕を発揮した。そんな光秀に、信長は西国と都を結ぶ重要地、丹波の攻略を命じた。これには、4年2ヵ月という歳月がかかったが、丹波攻略を果たした。

 茶の湯や連歌を好む思慮深い教養人で、軍事にも明るい光秀を、信長は高く評価。近江滋賀郡5万石や坂本城に加え、天正8年には丹波国29万石を与えた。信長の光秀に対する信頼は絶大で、それは羽柴秀吉をもしのぐほどであったという。だが、丹波攻略から3年後、光秀は信長に弓を引く。

 天正10年6月2日の早朝、信長の宿所、本能寺の門外で鬨(とき)の声があがった。秀吉は備中、柴田勝家は越中と、信長の家臣は各地で敵と対峙しており、本能寺を守るのは、二、三十人。寺は瞬く間に光秀の軍旗「水色桔梗」で埋め尽くされた。

 信長を討った光秀は、すぐに信長の居城だった安土城や、秀吉の本拠地である長浜城を占領し、近江と美濃を支配下に置いた。しかし、光秀の前に立ちはだかったのは、秀吉であった。備中高松城を包囲し、毛利氏との決戦を目前にしていた秀吉は、本能寺の変の報を受けるや毛利氏と和睦。京を目指して約170㎞の距離を2万の兵とともに6日で駆け戻った。その間、光秀は全国の武将たちに書状を出して参陣を促したが、主君殺しの光秀の誘いに応じるものはなく、1万6000の兵で、4万にふくれあがった秀吉軍を迎え討たなければならなかった。決戦の地は、山城国山崎(現・京都府大山崎町)。軍略家の秀吉を前にして、光秀軍は大敗。雨夜の中を逃走、伏見の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りの農民たちに襲われ、深手を負い、「逆順に門無し 大道心源(だいどうしんげん)に徹す 五十五年の夢 覚めて来て一元に帰すー」。光秀は切腹。55年の生涯を閉じた。「本能寺の変」から11日後。光秀が謀反を起こした理由については、信長への怨恨や、天下取りの野望などが挙げられるが、真意は不明である。

 人間関係では、「怨み」や「嫉妬」などは日常茶飯事と言えましょう。そのことで、いちいち争いを起こしていては、命がいくつあっても足りません。しかし、かっとなった本人にすれば、前後の見境もなく「ただ突っ走る」だけなのでしょうが、冷静になった時には必ず後悔するのですから、周囲の人が力ずくでも止めるべきでしょう。後で必ず恩義を感じるようになるはずです。