日記をつけてからまだ2日目ゆえ、いつまで続くかわかりませんが。

確か4月14日は桜田淳子の誕生日だったな。中学3年のときに品川女子中学(?)にいったもんだ。(当時の世相からするとこれはストーカーに近い) ドラマの天つく天??? たしか佃島が舞台だった・・・・、なつかしい。


ドバイに来てから1週間たった。ほとんど毎日、1食はインド料理、そしてアルコールはなし。金曜日はドバイの休日ゆえに、木曜日は花木となる。ここの従業員を誘ってどこぞの日本料理にとおもったが、安い日本料理屋なんてない。それはそうだな~。ドバイはアラブの金融と原油、建設がこの都市の原動力となり、発展、経済成長を合言葉にそれを下支えしているのはバングラ、インド、パキスタンの労働者たち。あるのは超高級ホテル、リッチなお店か出稼ぎ労働者たちの安宿か、庶民の料理店などなど。エエーイ、ここは行くしかないとホテルRadison Blueの日本料理レストラン’’港’’=Minatoに入った。


聞くところによると最近の日本料理レストランの多くはブッフェスタイルになっているようだ。でも、インド人2名とパキスタン人1名を連れており、一人は酒が飲めず、一人は刺身が食べられず、3人は豚肉がだめだから、このほうが便利だね~。

ビールで乾杯して、前菜、お刺身、てんぷら、しゃぶしゃぶ、鉄板焼き、ごはんに味噌汁、デザートまで。満足だけどついつい食べ放題だと食べ過ぎちゃうんだよね。 おそらく、Weekdayはインド、パキスタン料理、週末が日本食のパターンになるんだろうな。どこかに「居酒屋」があれば教えてもらいたい。



TREKKERの雑記帳-14th04

店構えはやはり高級感ただよう。お客さんはほとんどが白人



TREKKERの雑記帳-14th02

経営は華僑だね。日本料理まで攻め込まれたくないが、日本人の能力不足か・・?



TREKKERの雑記帳-14th01

左 Shehzad君、右 Renjith君 

S君はパキスタン、R君はインド ケララ州出身


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ホテルに帰るとクラブ、ディスコみたいなところに男たちがひしめいていた。

舞台ではインド人女性が、隣の店ではアラブ人女性が踊っていた。とにかくうるさい。この後何があるのだろうか・・・?

朝食 ホテル

昼食 カップヌードル

夕食 港

TREKKERの雑記帳-ブルジィ カリファ038

Burj Khalifa 828m


4月13日(水)

 前日からアポイントをとっていた西アフリカの商社を訪問。担当役員が多忙なため輸出入のドキュメンテーションの担当者がお昼(インド料理)をごちそうしてくれた。皆、転職を重ねスキルアップして今の会社にいる。入社8-10年で取締役のポジションに。この企業の年間の売上高は12億ドル。販売している国々の物価や国民の平均所得を考えれば、国際企業に置き換えると120億ドルと同等の意味がある。

 大昔にインドを出張していた日本人はネクタイをしていたが歓待する人々はワイシャツだけだった。 今、インド系のこの企業を訪問する日本人はユニクロのチノパンと半袖のシャツ一枚、出迎えてくれる人々は皆ネクタイ姿だった。


 生き返りは車で送迎してくれた。帰りの高速道路で828mブルジュ・カリファを撮影。斜めの撮影はご容赦願います。


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朝食 ホテル

昼食 ショッピングモールにあるインド料理でCarlton他3名と

夕食 残業のために買い出しにいけず、日本から持ち込んだおせんべい、柿の種と冷蔵庫に残っていた赤いプラムを3個、ヨーグルト。 とりあえず3kgやせるぞ。!!

夜桜 ー上野公園ー


 先週8日の飲み会の後に上野公園を歩きました。昨年の今頃も宴会をやって、当時ニュースステーションの夜桜中継できれいにライトアップされていたのをみて感激し、一年後の再開を皆と誓い、それを実現したものです。東日本大震災で公式の上野公園のお花見イベントは中止になりましたが、それはそれとして若者が懐中電灯やロウソクなどを用意しながらそれぞれのお花見を謳歌していました。やはり春は桜ですよね。江戸時代もこうしてお花見を楽しんだと納得しながら夜桜を楽しみました。


TREKKERの雑記帳-夜桜028

携帯での撮影はフラッシュ機能がなく、単なるLEDによる照明。だから花に近寄っての撮影。



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これは清水観音堂(?)付近のあかりで照らされた桜。清水観音堂とは・・?周りが暗くて初めてその存在を知った。世の中にはこういうことが多々あるよね。



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清水観音堂のライトアップ 出張の無事を祈願しました。


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多少、フラストレーションもたまるので、いただいた写真を添付。首を傾けてごらんあれ。


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翌日からドバイ出張。さて、何が出てくるやら。

これって被災・・・?


 東日本大震災(別の報道では東北・関東大震災とも発せられている。いずれ気象庁?または国が命名するのでしょう。)で旭にある会社は本社工場と事務所、第二、第三冷蔵庫、中国人宿舎が津波により被災した。3・11には避難の後に宿舎に戻れない中国人研修生・実習生(中国人就労者)は一時的に私が居住している会社の社宅に入った。社宅は一戸建てで6畳の和室と15畳程度のリビングがある。そこに約10名の中国人が避難した。残りの約5名は別の社宅で過ごした。確かに水道は止まるし、合計しても20畳程度の家に10人が住むのは酷だったかも知れない。布団は中国人宿舎の2階部分から持ってきたり、社宅にあった布団や私の布団が勝手に使われていた。

 自宅にもどっていた私は3・15からJRとバスを乗り継いで出社し、近くにある機械関係の社長宅に居候しながら仮事務所の立ち上げに奔走した。そうこうしていると震災から3日目くらいから工場の復旧の手伝いをする彼らの態度が急に変わり始め中国に帰るという者が現われ、それが皆に拡がり就業をボイコット。そして5日目の夜、夜逃げするようになんの挨拶も断りわりもなく、自転車で彼らは成田空港に向った。

 直接の原因は福島原発事故による放射能拡散の恐怖心や中国にいる両親から働きかけのようだ。震災により彼らに入る情報の多くは携帯電話によるメールや中国版ツイッターのようなもので、中国から送られる情報や日本国内にいる中国人就労者のネットワークのようなものがあったと思われる。三陸で働く中国人のなかにはなくなった人もいるだろうし、背景はわからないが、海外のなかでもとりわけ中国人の放射能に対する警戒感は強いものがある。また多くが一人っ子ゆえに両親が帰国を強く促したということもあるだろう。

 (日本政府が状況を正確に発信していないのか、それとも海外が一部の報道や推測から原発事故を過大に判断・深刻化させているのかはわからない。ただ、19日の時点で東京にあるフィンランド大使館が広島に移設することを決定したり、ノルウェー・ニュージーランドなどが日本への渡航を自粛させたりしている。そして船会社の一部には東京・横浜を抜港(寄港しない)する決定を下したところもある。中国においてはコンテナー船・コンテナー(中の貨物ではなく)が放射能に汚染させている場合は寄港させないという決定をくだし、事実、電子部品を積んだ航空機から貨物をおろすことを認めなかった事例があった。)

 とにかく、彼らは姿を消した。わずか数日の仮の宿舎であった私の寓居には、彼らが初めて体験した大地震によるストレスや妄想や怒りや不安、そして彼らが日本人ではないという踏み跡とゴミの残骸だけが無惨にも残された。

 ゴミの特徴 

 +作業着、ヘルメット

 +食品 食べかけ、残りかす、汚れた食器、カップラーメン、箸、なぜかサプリメント (就労をボイコットした時点で会社は食事を提供しなかった←当然)

 +衣類、下着(脱ぎかけのパンツまで)、靴、サンダル、タバコの吸殻

 +携帯のアダプター、解説書、津波で使えなくなったパソコン(無念だろうな~。)

 +エロ本

 +冷蔵庫に砂をかんだ伊勢海老2尾、中国料理の調味料、パン、汚れた食器多数 そして最後はおそらく土足であがったのだろう、和室もリビングも砂でざらざらしていた。 


TREKKERの雑記帳-災難001

和室の残骸 リビングはすでに片付けてしまった後に撮影。とっときゃよかった!! (何のため・・?)


19の午後と20の午前を使い、家を掃除する。こんなゴミを掃除するくらいなら、波に洗われたほうがましだと本当に思った。悲しかった。挙句の果てにオンキョーのステレオが盗まれていた。ゴミはビン長マグロを入れる鉄製の籠(約1.2トンのビン長が入る)2つに投げた。砂だらけ布団も干す気にはならなかった。


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ビン長マグロ、カツオを入れる鉄製の籠、マイナス50℃の世界をイメージできるかな・・?


いちおう、きれいに掃除した。勢いで自分の荷物も一部捨てた。生まれかわるような気持ちで投げた。布団一式を購入した。冷蔵庫のなかは空になった。


友人が努めるITソフトの中国人技術者も中国に帰国した。友人が経営する割烹釜飯の中国人従業員は関西の友人宅を頼って移住した。おそらく首都圏では帰国の手続き・手順は別としても多くの中国人が職場を去ったにちがいない。沈む国を捨てたのか、大いなるチャンスを失ったのか・・・?


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ちなみに津波により多くの伊勢海老が陸に流され、波がひいたときに簡単に伊勢海老を捕獲できたと。かなりの確実で伊勢海老の資源が激減していると思う。


やるせない・・・・? がんばれ日本!!!



東日本大地震


 千葉県旭で勤務していたときに地震の発生がありました。揺れは大きかったものの、会社も工場も無事でした。ただ、外に避難した際に冷蔵庫の内部で荷がくずれたような音はしました。でも、皆元気でした。3時20分ころの茨城県沖を震源地とする地震が旭としてはもっともゆれが大きく、社長も魚を残しながら工場のシャッターを下ろして、一部の社員をつれてた高台に避難しました。

 私は高速バスで自宅に戻ろうとしたのですが、バス停で列を作るも運休の連絡が列を待つ人から流れ、周りの人とタクシーで東京に向うことにしました。5時に旭を出ましたが、渋滞によりなかなか進まず、ついに午前1時頃京葉道路にでる船橋駅付近でタクシーを降りて自宅まで歩きました。

 翌日、会社と連絡をとると、津波により事務所1階、第2冷蔵庫、第3冷蔵庫、本社工場、中国人研修生の宿舎が津波により被害を受けたとの説明があり、その後、第2、第3冷蔵庫の荷物を他の冷蔵庫に移す作業が深夜まで、そして翌日の13日まで続いて行われたようです。

 私の会社は千葉県の旭市にあります。同業社は銚子や茨城県波崎に多く、なんらかの被害を受けていると思います。そして三陸には同じような事業を行う得意先、提携工場、友人が水産加工を営んでいたり、働いているのですが、現在のところ連絡が取れません。ほとんどが海に近い場所に工場があり、とても心配ですし、NHKのニュースを見ても、訪問した際の記憶にあるような地形、地域の映像がながれているのでいたたまれません。

 発生から、今も余震がつづきますが、ニュースを見るたびに被害が大きくなってゆきます。被災された方へお見舞いを申し上げるとともに、友人やご家族、会社関係者、そのご家族の皆さんの安全を祈るばかりです。

 明日は朝一から旭にむかいます。後片付けには遅れて参加しますが、皆の元気が顔が見られればと思います。


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地震直後にはこれほどに被害が広がるとは思いもよりませんでした。





伊豆ヶ岳


 今年の花粉はすごい。とうとう医者にかかり薬を処方されることに。4月下旬まで山はおあずけかな。Jリーグ、プロ野球はまさに開幕、直前のオープン戦に入っているのに。山歩きで花粉に悩まされている人はシーズンオフモードかな・・?

 2月下旬に花粉前の最後の山行 伊豆が岳の縦走路を歩いた。一般向けとはいえ、登り合計1000m、下り1105mと標高の割にはアップダウンがあり、歩いた距離も確か12kmほどあった。テーマは湯豆腐だったが、前夜の帰宅が遅く豆腐は買えずじまい。近くのコンビニでも売り切れだったので、西武池袋線池袋駅近くのコンビニで調達、ホッとー。


正丸駅    08:39

伊豆が岳 10:00

古御岳    10:34

高畑山    11:00

中の沢の頭 11:15

天目指峠   11:34

子の権現   12:05 昼食 湯豆腐ーキムチ鍋ーうどんすき

子の権現発 14:23

吾野駅    15:45


TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳001

途中がなく、もう伊豆ヶ岳 標高851m


TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳002


TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳004

逆光なれど、フラッシュをたいて。最近覚えた裏技・・?


TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳005

たぶん 古御岳  830m


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高畑山 695m


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中の沢の頭 単なる証拠写真になってしまった。



TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳008 TREKKERの雑記帳-伊豆ヶ岳010

いろいろと由来やら伝説やら・・・・。

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天目指峠


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この手のモニュメントがなぜか山道近くに。ここで湯豆腐、ここから少しづつキムチ鍋に変化して、最後はうどんで締めた。山中で2時間も宴会をしている人はそうはいない。


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子の権現 創建は832年とかなり古い。腰から下の病に霊験をいただけると。


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埼玉県指定天然記念物 子の権現の二本杉 もとは子の大権現が食事に使った杉の箸を地面に差したものが根付いて大樹になったという。:;:;:;:



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なぜ セミの一生なのだろう。でも成虫になるまでかなりの時間を要するということを初めて知った。


帰りは高田馬場の’清龍’で一杯。清流だったか、清竜だったか? 学生時代に池袋の’せいりゅう’によく行った記憶がある。 湯豆腐と煮込みとライスを頼んで湯豆腐が入っている鍋に煮込みとライスを入れてつまみにしてよく飲んだ。畳がボロボロだったな~。多分、一人2千円もかからなかったと思う。


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権現水産のイワシの干物は有名。社長はセコイが。

オスロ 


でもその前に

Norway ノルウェー


ノルウェー王国  Kingdom of Norway

人口  485万人

首都  オスロ

元首  ハーラル5世国王

政体  立憲君主国

民族  ノルウェー人 サーメ人

宗教  プロテスタント

通貨  クローネ


 その首都オスロの人口は約57万人で驚くほど少ない。人口が500万人と国全体が少ないこともあるし、オスロ都市圏(日本の首都圏)には100万を超える人々が住んでいるので、もちろんノルウェーの中心ではあるが。

 オスロは1624年の大火により甚大な被害を受けてデンマークのクリスチャン4世により復興され、街はクリスチャニアに改称された。訪れたクリスチャンスンドもおそらく4世の名前から由来したものだろう。1814年にデンマークとの連合が解消され、1925年にオスロという名前にもどされた。

 ノルウェーに出発する日は成田にも雪が降り、さぞノルウェーは寒かろうと思ったが、実際には到着地Alesundは雨であった。メキシコ湾流が南から温かい海水を運んでくるので想像していたより暖かい。南西の風が吹くと暖かく曇りがちで、北西の風が吹くと気温が下がると。

 オスロの物価は高い。税金の掛け方にもよるのだろうが、タバコは800円、生ビールは中生くらいで1000円。食事、ホテルの宿泊日は単純な比較はできないが、大よそ日本の倍くらいの感覚。GDPもEUのブリュッセルやルクセンブルグに次ぐ高さだ。


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Karl Johan gateから王宮を望む。日本の銀座通りかな?



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Karl Joan の銅像 


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王宮前 首都の人口も少ないが、観光客も少ない。皆さんオーロラ見学で北に行ったか?




王宮衛兵の交替式に遭遇。

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もう少し派手は演出でも良かったな~と思う。そして長かった~。さぶ~。


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衛兵と並んで写真を撮るのは自由だと思う。話しかけても彼らは話を禁じられているとガイドブックにはあるが、実際には顔を動かさずに少しだけ話しをしていた。彼は3ヶ月前にこの衛兵となった。右はそのお母さん。三ヶ月ぶりに郊外から息子に会いにきたそうでとても嬉しそうに話してくれた。 衛兵は(たぶん)寒いので時々右に行ったり、左に行ったりして体を動かしていた。




アーケシュフース城  オスロ市庁舎前のフェリー乗り場から港湾内を撮影 夕暮れどき

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オスロ市庁舎 ノーベル平和賞の授賞式が行われる。


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ノーベル平和センター 中には中国人人権活動家の劉暁波氏関連の展示がいっぱい。 気にいった記念品があったのだが、カードが使えずに購入できなかった。


 物価が高いので移動、入場料やコーヒーなどでも結構お金を使う。お土産もとくに気に入ったものがなければ買う必要はないのでは。同じ価値のものは日本で約半額だから! 

 国立美術館はなんと無料!ムンクの「叫び」を叫ぶまねをしてしっかとみたぞい。そのほか、ゴーギャン、ピカソ、モネ、セザンヌなど数多くの絵が収蔵、陳列されている。多くの学生がデッサンではあるが模写していたね。

 日照時間が短く、曇りがち、そして寒いノルウェー。精神的にここに住むのはタフでなければならないが、春が来てフィヨルドの山々が緑に覆われたときに人々は一気に喜びを爆発させるんだろうね。夏にこなければノルウェーを語る資格はないか~。


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今でも海運が需要な産業なのだ。バイキング発祥の地。






フィヨルド Fjord


 フィヨルドってなんだ・・?  フィヨルドはノルウェーの西部海岸線一帯に位置する氷河によって形成されたU字谷が沈水して形成されたもの。リアス式海岸が通常の山地・河谷が沈水して形成されたものだが、フィヨルドは寒冷地に多く形成される。

 何万年もの時間をかけて数千メートルも降り積もった雪が融けずに氷になり、その重みで山の斜面をすべり、底にある地面を深く削り深い谷を造る。そして氷河時代がおわり、氷が融けて海面が上昇、深い谷が海に沈み、今の様相があらわれた。だからノルウェーの5大フィヨルド ガイラングル、ノール、ソグネ、ハダンゲル、リーセはとりわけ夏はそれは美しい景観を見せるが、小さな町の海岸線も一応フィヨルドということになる。(^^)



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Alesundの市内から最寄りの水産工場に行く途中の車内から。この山はノルウェーのサバ、ニシン、アジ、鮭にかかわる人は皆、見たことがあるのでは?? 漢字の「山」ここからきた???



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Alesundのフェリー乗り場の防波堤から。この写真をFacebookに掲載したら、おまえはノルウェーにいるのかと問い合わせが? なぜわかるか? と聞いたら It is a small world. との返信あり。


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Bacalao工場の前の景色



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AlesundからChirstiansundに行く途中のドライブイン。道路が凍結していて歩くのが怖かった。まるでスケートリンク。 sundはフィヨルドで削られた山と山の間の峡谷や運河のこと意味するらしい。


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だから、この写真の池、湖のような水面はsund


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フェリー乗り場からただの山なんだけど、なんとなく氷河をイメージする一枚


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外洋に面していないので船はほとんど揺れないし、高速船


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対岸の小さな村


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欧州らしく、村にはかならず教会がある。


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訪問した際の日照は10時ー15時半程度。短い旅程であったが、薄日がさすと皆、喜んだ。

滝子山 -秀麗富嶽十二景-



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 5日に今年初めての山行、山梨県大月市にある滝子山に行ってきました。

節分を迎えてあたたかくなり、立春でまさしく春が来たような暖かさでしたね。雪が残って下りは凍結した斜面ですべるのではないかとアイゼンを携行しましたが、杞憂におわりました。ただ、登山道はカラカラに乾いていて靴やズボンの裾は埃、土まみれでしたね。たまには雨にも降ってほしいですね。お湿りが必要。


新宿       06:00

立川       06:43

笹子       07:56着

吉久保入り口  08:20

寂ショウ尾根 (岩場あり道不明瞭とあるが、そこそこ歩かれている。岩の上の枯れ葉はすべります。)

山頂       12:25 おでんと穴子開き、その他 仕上げにうどん

初狩       15:08

御徒町      17:00???

燕湯 (有形文化財)の銭湯で一汗流して)

近くの居酒屋で反省会



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360度の眺望が楽しめるが、写真はわずか数枚だけ。飲みすぎたかな。

右が雁ヶ腹摺山、左が黒岳 谷の部分は大峠



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おでんはパックのものを一人一袋づつ。2回に分けてあたためた。日差しが暖かく、風もなく、春の登山のようだった。ワイン1本と焼酎がどのくらいかな。


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フラッシュを炊いたものの、やはり逆行で顔はみえず。


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早朝はもっと空気が澄んでいたのに。富士山手前の山は三つ峠


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今年は花粉の量が平時の数倍であるとか。すでにときにくしゃみをする。

2月に登りだめして3,4月はお休みかな。山を見ると色ずいた花粉が全体をくすんだ色にしていた。花粉セピア色・・?



峠 (下)

司馬遼太郎著 新潮文庫


越後へ

故郷

戦雲

西軍

小千谷談判

決起

越の山風


開明論者であり、封建制度の崩壊を見通しながら、継之助が長岡藩をひきいて官軍と戦ったという矛盾した行動は、長岡藩士として生きなければならないという強烈な自己規律によって武士道に生きたからであった。西郷・大久保や勝海舟らのような大衆の英雄の陰にあって、一般にはあまり知られていない幕末の英傑、維新史上最も壮烈な北越戦争に散った最後の武士の生涯を描く力作長編。


-智謀などはたかが知れたものだ。知力のかぎりをつくし、あとは天をも震わせるような誠意をもって運命を待つしか仕方がない。


***

維新がなり、薩長を中心とした官軍が錦の御旗をもち、日本を官軍と賊軍に色分けし、賊軍を排除してゆく。すでに外国の兵器、汽船を導入している西国の藩と時流を見抜けなかった東国の藩では武力に多くの差があった。

 継之助は幕府の負けを予想しながら、幕府にもつかず、官軍にも組みしない方策を軍備を増強させながら進めていく。 そして官軍が来襲してきたときは、「官軍は会津藩を最大の目標としている。そのとき長岡藩はいずれにもつかず、官軍にも「待った」をかけ、会津藩にも「待った」をかけ、両者の調停役になり、両者からいっさいを委任されてそのさばきをする。会津藩を平和のうちに恭順させる。官軍に対しても会津藩の申しぶんを聞き入れさせる。」

 武士である継之助の最大のテーマは藩主の生命とお家の存続であり、状況がそれを許さざることがわかっていても英傑である彼はそれを追及してゆく。丸腰、丸裸で官軍に恭順するという方法もあったが、大藩の家老以上の人間力のある彼は長岡藩の家老としてそれを選ばなかった。

 「事態に直面する者は、見えざる現象に対してはほとんど盲目といっていい。我々-読者やこの稿の筆者-は後世にいる。後世にいる者の権能はちょうど神に近く、事態の直面者である継之助の知らぬことまで知っている。」 読み進んでいるうちに、なぜここまでやるのか・・・? と思うことが少なからずあった。そのために読み終えるまで時間がかかった。なにか納得ができないともやもやした気持ちを一掃させたものはあとがきにあった。「私はこの『峠』において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた」と司馬遼太郎は述べている。そして継之助の考えは「いまこの大変革期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。---それが日本男子か。人間成功不成功の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。

 官軍に降伏する手もあるであろう。降伏すれば藩が保たれ、それによってかれの政治的理想を遂げることができたかもしれない。が、継之助はそれを選ばなかった。そして長岡藩は負けた。もし長岡藩が無能で意気地なしの家老しかもたなかったならば、この敗北もありえなかった。なぜならば敗北する前に降伏し、官軍のしっぽについて会津攻撃にむかい、大勢とともに可もなく不可もなく進んでいたであろう。が、長岡藩の家老は不幸にも河井継之助なのである。だから負けた。「あの男には長岡藩は小さすぎる」


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江戸城無血開城はあったが、各地で官軍と旧幕府側の戦いがあった。