峠 (下)
司馬遼太郎著 新潮文庫
越後へ
故郷
戦雲
西軍
小千谷談判
決起
越の山風
開明論者であり、封建制度の崩壊を見通しながら、継之助が長岡藩をひきいて官軍と戦ったという矛盾した行動は、長岡藩士として生きなければならないという強烈な自己規律によって武士道に生きたからであった。西郷・大久保や勝海舟らのような大衆の英雄の陰にあって、一般にはあまり知られていない幕末の英傑、維新史上最も壮烈な北越戦争に散った最後の武士の生涯を描く力作長編。
-智謀などはたかが知れたものだ。知力のかぎりをつくし、あとは天をも震わせるような誠意をもって運命を待つしか仕方がない。
***
維新がなり、薩長を中心とした官軍が錦の御旗をもち、日本を官軍と賊軍に色分けし、賊軍を排除してゆく。すでに外国の兵器、汽船を導入している西国の藩と時流を見抜けなかった東国の藩では武力に多くの差があった。
継之助は幕府の負けを予想しながら、幕府にもつかず、官軍にも組みしない方策を軍備を増強させながら進めていく。 そして官軍が来襲してきたときは、「官軍は会津藩を最大の目標としている。そのとき長岡藩はいずれにもつかず、官軍にも「待った」をかけ、会津藩にも「待った」をかけ、両者の調停役になり、両者からいっさいを委任されてそのさばきをする。会津藩を平和のうちに恭順させる。官軍に対しても会津藩の申しぶんを聞き入れさせる。」
武士である継之助の最大のテーマは藩主の生命とお家の存続であり、状況がそれを許さざることがわかっていても英傑である彼はそれを追及してゆく。丸腰、丸裸で官軍に恭順するという方法もあったが、大藩の家老以上の人間力のある彼は長岡藩の家老としてそれを選ばなかった。
「事態に直面する者は、見えざる現象に対してはほとんど盲目といっていい。我々-読者やこの稿の筆者-は後世にいる。後世にいる者の権能はちょうど神に近く、事態の直面者である継之助の知らぬことまで知っている。」 読み進んでいるうちに、なぜここまでやるのか・・・? と思うことが少なからずあった。そのために読み終えるまで時間がかかった。なにか納得ができないともやもやした気持ちを一掃させたものはあとがきにあった。「私はこの『峠』において、侍とはなにかということを考えてみたかった。それを考えることが目的で書いた」と司馬遼太郎は述べている。そして継之助の考えは「いまこの大変革期にあたり、人間なる者がことごとく薩長の勝利者におもねり、打算に走り、あらそって新時代の側につき、旧恩をわすれ、男子の道をわすれ、言うべきことを言わなかったならば、後世はどうなるのであろう。---それが日本男子か。人間成功不成功の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない。
官軍に降伏する手もあるであろう。降伏すれば藩が保たれ、それによってかれの政治的理想を遂げることができたかもしれない。が、継之助はそれを選ばなかった。そして長岡藩は負けた。もし長岡藩が無能で意気地なしの家老しかもたなかったならば、この敗北もありえなかった。なぜならば敗北する前に降伏し、官軍のしっぽについて会津攻撃にむかい、大勢とともに可もなく不可もなく進んでいたであろう。が、長岡藩の家老は不幸にも河井継之助なのである。だから負けた。「あの男には長岡藩は小さすぎる」
**********
江戸城無血開城はあったが、各地で官軍と旧幕府側の戦いがあった。